第四百五十三話『レイ=ラキアドールの名』
ボルヴァート軍本陣の中央、マスティギオスのような将らが控える指揮所とは別に、厳かともいえる天幕が一つ張られている。
それは魔人ラブールが身の置き場所とするためのもの。本来は王侯らが出陣した際にのみ使われる布や寝台が、所せましと幕内にはおかれていた。どれもこれも、ラブールが望んだというものではない。毒物ジュネルバや、早々に魔性に膝を屈したボルヴァート朝の貴族らが用意したものだった。
煌びやかな調度品が、輝きをなして並びたてられている。
とはいえラブールには高級なものや貴金属の類を愛でる趣味はない。人間が培った文化の上に作られた貴重品など、興味が持てなかったというべきだろうか。
だが皮肉な事に、殆ど手つかずのままの調度品とラブールは恐ろしいほどに調和している。彼女そのものが、作り上げられた精巧な人形のようだった。
ラブールは美麗な琥珀色の眼を殆ど動かさぬまま、先に聞いた言葉を思い出していた。
曰く――宝石バゥ=アガトスが、この身を殺しに来ると。
それを、ボルヴァート軍がどのような意図で己に伝えたかは分からない。そこに大した意味はないのか、それとも魔人同士喰い合ってしまえとでも思っているのか。もしくは全く別のことかもしれない。
だがラブールにはそんな事どうでも良い。人間の思惑に興味はなかった、思考の奥にあるのはただ一つ。
質の良い寝具に横たわったまま、ラブールは喉を鳴らした。ゆったりと両手を広げる。
――零れるのは晴れやかな、そうして歓呼の鐘を鳴らすが如き笑声。
ラブールは、己の中に生まれた大きな感情の吐き出し方を知らなかった。だからそれは全て笑いになり、声として外界に発される。嘲弄するようで、それでいて表情も大して揺らさぬまま快活に。
「宝石バゥ=アガトス……神令大戦の生き残りでしたか。未だ生き恥を晒していると」
彼女が頬に浮かべた笑みは冷笑的で、だが何処か懐かしさを帯びている。憎悪すべき敵であっても、知る者も殆ど死に絶えたこの時代においては郷愁に近いものを感じるのだった。
それにラブールは、己の時代の全てを置き去りにして生き延びている。生きた歳月を考えれば、アガトスとて赤子のようなもの。敵対心よりも、懐かしさの方が先に勝つ。
独白をつぶやくように、それでもどこかにいるであろうアガトスに伝えるように、ラブールは言った。
「私を生まれ損ないと呼びましたか、あの死に損ない。良いでしょうアガトス。もはや、貴方の運命は私の手にある。即時、廃滅を与えましょう」
それもまた、己が神たるヴリリガントの意に適う。
魔号戦争における魔人同士の対決が、ここに決定づけられた。
◇◆◇◆
魔号戦争ガルーアマリア攻防戦、二日目。
初日同様、日の出が夜を駆逐すると共にボルヴァート軍の攻勢は開始された。初日と様子が違ったのは、主攻となる軍だ。
大門前、マスティギオス率いる正面軍は初日と比較してその勢いを弱め、むしろ裏手からの攻城――即ち副将エイリーン=レイ=ラキアドール率いる第二軍が我先にとばかりの苛烈な勢いをもって戦端を切って落とした。
エイリーンが主力とするのは、装甲兵ではなく魔術獣兵達。それらにはエイリーンが自ら命を吹き込んだ者も多く在る。
ラ=ボルゴグラード家の神髄が変造であるならば、レイ=ラキアドール家の神髄は即ち感染。
獣達の脳髄に魔を浸透させ多種の魔術獣兵を産み落とし、戦役に耐えうるものとする。兵らを魔に酔わせ戦場において忘我を与える術。
魔術の変造に拘泥するラ=ボルゴグラード家とは異なる、魔術による他への感応。それこそがレイ=ラキアドールの得意とするものだった。
事実、戦場一帯を領域とするほど広域な感染魔術を用いれるのはかの家程度のものだろう。これこそが魔の神髄。神域へ至る為の道筋だとエイリーンは信じている。
そうして、感染魔術が最も活躍するであろう場とは、語るべくもなく戦場だ。
「レイ=ラキアドールの名の下に、ここを我が領域と致しましょう。存分に戦いなさい、戦士たち! 今ここにある貴方達こそが、真なる勇敢さを示すのです!」
感染魔術に侵された魔術獣兵らがその意に添うようにガルーアマリアの城壁へと殺到する。もはやその眼に正気はなく、ただこの壁を攻め落とすという与えられた意思しかない。
兵士達も獣ほどの純粋さはなくとも、何時にもました攻撃性を有するようになる。いわゆる狂戦士の其れだ。自らの犠牲を省みず、戦闘行動を継続する。
まさしく激しい攻防となる攻城戦には何よりもうってつけだった。熱した油をかけられようと、大石や弓を射かけられようと彼らは前進を続ける。
エイリーンは満足げにそれを見つめつつも、魔術を唱え続ける。唇が滑らかに言霊を吐き出し、そうして周囲一帯を魔力が覆った。
「――我は汝に号令す。正気は狂気に、狂気は正気へ。死に、生まれ、百の腕と五十の頭の怪物と成りたまえ」
僅かに眉間に痛みが走る。エイリーンといえど、戦場一帯を魔力領域として覆い尽くすのは長く続くものではない。
それでも退けぬ。エイリーンとて退けぬだけの理由を有している。唇を噛み、無理やり正気を保ちながら再び言葉を奏で続ける。
正直を言うならば、エイリーンは魔人によって引き起こされたこの戦役を、類まれなる奇貨とそう捉えていた。
国家の危機であるのは確か、魔性に首根を締められているのも確か。だが、この窮地の中でこそ功をあげる意味がある。
毒々しいものが、エイリーンの胸中に今渦巻いている。それがどうしようもなく、熱い。
ボルヴァート朝において、五大名家に数えられるボルゴグラード家とラキアドール家。彼らは互いに称号を名乗る事を許された肩並べる名家である事は間違いがない。
けれど、その中でも筆頭と呼ばれ、魔術を成す者の称号を与えられたボルゴグラードと、二番手以降に過ぎぬラキアドールには越えがたい隔絶があった。
エイリーンの父も、祖父も、いいやその先代に至るまで、一度たりともラキアドールの人間はボルゴグラードを超えられていない。ボルヴァート朝の開祖から、ボルゴグラードは常に魔術の頂点にあった。
――貴方は期待の芸術品なのです。良いですねエイリーン。貴方こそが、ボルゴグラードを追い落とすのですよ。
両親から与えらたその呪いを、今でもエイリーンは思い出せる。子守歌でも、御伽噺でもなく、その呪言を口にして彼女は育てられた。
その期待に応えるように、エイリーンは己の魔術を昇華させ続けた。誰にも負けぬように、誰一人として追随させぬために。己こそが、ラキアドールをボルヴァート朝の筆頭にするのだとそう誓って。時に理性と、常識を吐き出してまで。
だが、それは決して易い道ではない。いいや今を持って尚、エイリーンはボルヴァート朝において一番手ではなかった。
マスティギオス=ラ=ボルゴグラード。歴代の魔導将軍の中でも群を抜く英傑。余りに高いその壁。未だ届かぬその壁に指を届かせるのには、もはや己が最も際立つ戦場しかないとエイリーンは考える。
この戦場において、必ずマスティギオスを抜く功を立てて見せる。そうして真に誰がボルヴァートの筆頭であるのかを、知らしめる。そうあらねばならない。
そういった面において、エイリーンは紛れもなく必死だった。
魔性が群がる死雪の時代において、それが正しいのかと言われればそうではないのかもしれない。もしかするとずっと別の道もあったのかもしれない。
けれど、もはやエイリーンは道を変える事が出来なかった。今更、過去の己を否定するような真似などもうできない。熱い呼気を吐きながら、エイリーンは大城壁を見据える。
敵兵は槍や弓を用いて何とかこちらを防ごうとしているが、決してそれは万全ではない。素人芸も良い所だ、所々に解れが見える。
殺せる。落とせる。万全であればいざ知らず、今の規模であれば、十分陥落が可能だ。エイリーンは確信する。
――雑兵の如きは敵ではありませんわ。私の為、レイ=ラキアドールの為に、死になさい。
ボルヴァートが魔術の一角が、ガルーアマリアを食い尽くさんと、その牙を突き立てた。