第四百五十一話『美しいもの醜いもの』
魔の煌めきが、自由自在に戦場を荒れ狂う。それは気まぐれな雨のようであり、厳粛な裁きのようであった。
このような所業を成し遂げられる存在は、俺の知る限り一体しか存在しない。宝剣を支えに態勢を整えた瞬間、視界にその宝石の煌めきが垣間見える。
どこまでも無作為に、宝石バゥ=アガトスは戦場に煌めきを落とし続ける。いいや彼女にとってみれば、これは戦場などというものではなく、ただの遊び場であるのかもしれない。
赫々たる魔人が、俺に背を見せるように降り立った。その最中にも数々の宝石は中空を駆けまわり、戦場の視界を独占している。誰もがその脅威に足を止めざるを得なかった。
何万という人間が争い合う戦場が、今ただ一体の魔人の前に静止を強いられている。何とも、奇妙な光景だ。
後ろから見える彼女の姿は、かつてみた紅蓮の髪の毛が垂れ下がっている。一瞬、全盛の姿が垣間見えた。もう彼女も、その本来の姿を取り戻すまであと少しの所まで来ているのだ。
そうして何故かフィアラートを両腕に抱えている。本当に何故だ。
「あらあらあら、人間の英雄が随分と荒々しい姿じゃない。ダメよ、美しくないわ。より悠然と、優雅に、煌びやかにあるべきでしょう。第一、この場からして美しくない。戦場ってのは自らの手で作り出すべきものよ。誰かの作った戦場なんてまっぴらごめん」
宝石アガトスは、一瞬だけ俺の姿を視界に入れながらそう言った。何を指してものを語っているのかはよく分からないが、その尊大な口ぶりと良く回る舌は健在のようだった。
レウの顔からそれが飛び出てくるのだから、勘弁願いたい。
「優雅さなんてのは、王侯貴族様にでもお願いすりゃあいい。俺には俺なりのやり方があるのさ、バゥ=アガトス」
構えを深くし、宝剣の切っ先を上げる。アガトスからは敵意のようなものは見られないし、周囲に危害を加える様子もない。
けれど、どうしたわけか。宝剣が反応し紫光を走らせ、肌が総毛だっていく。
直感した。今、アガトスは堪えきれぬほどの怒気を帯びている。それが何に対してなのか、まるで分からない。
だが周囲の敵も、味方もそれを感じ取っているのだ。この場そのものが、はち切れんばかりの麻袋にでもなってしまったかのよう。
「……君は魔人か。魔人、魔人、また魔人だ」
怒気溢れるアガトスに、敵の中で唯一反応したのが指揮官の男だった。右腕にため込んだ必殺の魔が、アガトスの前では霞んで見える。
それでも尚、立ち、相対出来るというのは将として十分すぎる胆力を有する事の証左だ。その視線が、アガトス、そうしてフィアラートの姿をよく捉えている。
アガトスは後ろ姿からでもわかるほどに、髪の毛を感情のままに震わせ言う。
「今日はお退きなさい人間。これは忠告ではなくて命令よ。人間の命は全て私のもの。そこに戦いが生まれようとどうだっていいけれど、こんなに美しくないものは私の美学に反します。どうせ、歯車ラブールがいるのよね。透けて見えるわ、繰り返すしか能がないものあいつら」
その声、ラブール、という単語に敵指揮官が眉根をつり上げ反応する。
分かってはいたが、やはり魔人が深く相手方にも関わっているらしい。厄介なことだ。魔人という存在さえ世界から奪い取ってくれれば、もう少し気易く世界は回ってくれるのではないかとそう思う。
アガトスが、歌うように声を続けた。
「ならばあの産まれ損ないに伝えなさい――宝石バゥ=アガトスが直々にお前を殺しに行くと」
◇◆◇◆
「……どういうわけだよ、バゥ=アガトス。戦争に介入しなさいとでも神様のお告げがあったのか」
ガルーアマリア執務室内にて、吐息を漏らしながら言う。
周囲は奇妙な慌ただしさと、緊張感、それでいて少しの安堵に満ちていた。宝石バゥ=アガトスの閃光に荒らしまわられた戦場が一度の落ち着きを見せ、両軍が再度の攻防を控え軍備を整えている最中だからだ。
「まさかじゃない。言ったでしょう。私、醜い事が嫌いなの。あんた達が自分の意思で戦い合って死ぬのならお好きにしなさいだけれど、無様に作られた戦場で殺し合うなんて醜い事をされるのはまっぴらごめん。特に、歯車の思惑通りなんてのは最低よ」
アガトスはそう言いながらふいとフィアラートに身体を預ける。まだ全ての説明を聞いていないのだから、言ったでしょうも何もないと思うのだが。魔人というのは気ままが過ぎる。
「とはいえ、アガトスが何もしなかったら私がしていたけれど、ルーギス。あの人……副将軍ハインド=ビュッセの魔弾は有名よ、ボルヴァートでもね」
貴方だって無事で済んでいたか分からないと、黒眼を大きくしながらフィアラートは言う。彼女が感情を露わにした時の癖のようなものだった。どうやら見逃してはもらえなかったらしい。
噛み煙草を唇に押し付けながら返事をして、目を細める。
フィアラートの言う事は確かだろう。あの時、そのまま敵の首を食らわんと前に出て魔弾の斉射を直接浴びたならば、俺もあっさりと死んでいたに違いない。
そうそう上手く食らってやるつもりはなかったが、それでも五体満足というわけにはいかなかった。
下手をするとまたカリアに――いいや、これはやめておこう。
アガトスにより両軍の混乱が起きた後、ボルヴァート軍の指揮官は本軍からの伝令に従うように兵を退いた。一切の躊躇や物惜しさを見せなかったのは、何かしらの考えがあったのか、それとも本軍に異変が起きたのかだ。
どうせなら後者を望みたいのだが、俺の望みは大抵逆方向にいくのだから期待は出来ない。
何にしろ、軍と軍の最初の一合は奇妙なあっけなさを伴って双方が矛を引く形になった。被害はボルヴァート軍の方が大きいのだろうが、それでも上々の結果とはとても言えない。
正面はカリアの一振りやアガトスの荒れ狂いもあって此方が優勢だった。あの一面だけを見れば俺たちの勝利だろう。
だが報告を見るに、他方面からの敵攻勢には殆ど対応が出来ていない。城壁を超えられることだけは無かったが、多くの兵が犠牲になった。
此れから数度同じような攻勢が続けばどうなるか、分かったものではない。
――いいや、実際はもう分かっている。俺も、そうしてボルヴァート軍も分かったはずだ。
被害状況をみて、理解した。確かに城壁都市ガルーアマリアは金城鉄壁。少数の兵でも精鋭のボルヴァート軍相手に守り切れている。
だが、如何ともしがたいのはこの兵力差。幾らカリアのような戦力をもってして局所的な勝利を得ようと、最終的には押し殺される。
だからこそ、今日の一振りで指揮官の一つは殺しておきたかった。俺たちのような少数勢力が勝利を得るには、サーニオ会戦の再現が必要だったのだ。
詰まり、戦場全体を使った総兵力の戦役ではなく、指揮官を狙った局所戦で、迅速に敵軍の要所を破壊する必要があった。
だが、今回はどうだ。部分的な勝利は得たと言えど、全体を見れば痛み分けに近しい。これが続けば摩耗に耐えきれなくなるのは間違いなく俺たちだ。
実に不味い。俺たちは初戦で明確な勝利を得なければならなかった。
指がとん、とんっと膝を叩く。焦るべきではないと分かっていても、どうしても気が急いてしまう。これからの事を、考えなくては。
胸中にその感情を抱えたまま、噛み煙草を一本まるまる使いつぶした辺りで、執務室にカリアが入り込んでくる。今日はノックすらなかった。
僅かに額に汗の跡を残しながら、カリアは言う。
「待たせた。この多忙な時に何の用だ、私の血でも恋しくなったか」
銀眼を輝かせ、カリアが真っすぐに俺を見て声を鳴らした。その眼が一瞬フィアラートの方を見たが、得意げに笑みを浮かべるだけだ。
フィアラートが、黒を大きくして言う。
「――ねぇ、ルーギス。戦争中に、血が恋しくなるような事があったのかしら?」
「――あっただろう、なぁ?」
頬を、ひくつかせる。素晴らしい仲間をもったものだ。戦争の焦燥というものをこうも忘れさせてくれるとは。
現実から視線を逸らすように、大きくため息を吐いた。