第四百四十二話『積み重ねる信用』
噛み煙草を歯に乗せながら、微かな香りを鼻孔に通す。空気が湿っている所為か、匂いまでもが水気を帯びていた。
視線の先に見える街道は、ここ数日ですっかり死雪に肌を覆われ、サレイニオが兵を連れた形跡を消し去っている。
馬車もろくに通らぬ街道は静かなもので、空間そのものが居眠ってしまっているかのようだった。
その遥か彼方、街道の続くずっと先に、ボルヴァート朝の大軍が軍靴を鳴らしている事などまるで知らぬという振る舞いだ。
ボルヴァート朝の西征。歴史上繰り返し培われてきたその野望は、大災害の最中という、最低最悪の時に振り下ろされた。
大魔、魔人の脅威に晒され人類として存亡の危機に立たされながら、なればこそと尚の事己の安寧の地を追い求める。例え自分が首を刎ねられる瞬間が、ほんの僅かに先へと伸ばされるだけであったとしても。
素晴らしい。素晴らしく人間的だ。かつての頃も、もしかするとボルヴァート朝は同じような野望を抱えていたのかもしれない。
ただただ、何らかの要因があって実行に移されなかっただけで。
そうとも。前回には無かった。今回には在った。前回成されなかった要因はもはや分かりもしないが、今回成された要因はもはや自明だ。目を反らす事も出来ない。
俺自身が、何事かをしでかしてしまったのだ。自分では上手くやったものだと思っていても、しでかしというものは何時も後から産声をあげてくる。
そうして俺自身の身から出た錆ならば、当然取り除くのは俺の役目なのだろう。
傀儡都市フィロスの城門前で馬の手綱を引く。外は死雪に塗れ銀一色の有様だというのに、緑色の軍服は妙に暖かかった。
眼下では、ラルグド=アンが忙しなく声をあげていた。馬上から見ると、小柄な彼女が余計に一回りほど小さく見える。
「英雄殿。聖女マティアは、王都への凱旋を希望されています! 王女も貴方が帰還してこそ即位ができると」
固い声だった。言葉を尽くしながらも、これから俺が何を言うのか、どんな言葉が返ってくるのかもう分かっていると言いたげだ。
流石、付き合いが長いだけはある。それならば言わなければ良いとも思うが、アンの性格上そうもいかないのだろう。
噛み煙草を口から離して、唇を滑らかに動かした。言うべき事はもう決まっている。
「王都には行くさ。だが寄り道くらいはしたって良いだろう。人間、真っすぐの道を歩くだけじゃつまらんさ」
そう言うと、アンは両の眉尻を下ろし表情を強張らせる。何かしら言葉を出したいが、出せない、無理やりに噛み殺している。そんな悲壮な顔つきだ。
やめてもらいたい。俺が酷い事をしている気分になるじゃないか。視界を僅かに歪めていると、耳慣れた声が耳朶を叩く。高らかな声は、どこまでも自信に満ち溢れたそれだ。
ある意味で、安心する声色だった。
「アン、無駄な事をするな。人というのは耳があっても物事を聞ける者と、聞けぬ者がいる。ルーギスがどちらかなど、貴様も承知の上だろう」
カリアは二房の銀髪を纏めながら、全て見透かしているのだと言わんばかりの様子で言った。何故だか少しばかり得意げに見える。銀眼が揚々と揺れていた。
言葉に尽くせぬほど心外だ。カリアこそ人の言葉なぞ耳に入れる事もない性格だろうに。俺の言ったことを聞いてくれたことがどれ程あっただろうか。
しかし何とアンにとっては、カリアの言葉の方が意味があったらしい。鼻をつんっと立たせ、感情を抑え込むように瞳を開いた。
「……ボルヴァート軍は三万を超える大軍との事です。魔術装甲兵もいるとなれば、この時節に振るえるだけの兵力を見境なく注ぎ込んでいると言えるでしょう」
魔術装甲兵。ボルヴァート朝ご自慢の魔狂い共。誰も彼もが、魔具、秘蹟とすら呼ばれる代物を身に着けている兵団の事だ。
魔術師が長い時と生きた呪文を――それこそ呪いと呼ばれるほどに練り込み造り上げる魔具、秘蹟。より密度の濃いものになれば、それだけで門外不出。魔術師にとっては最大の家宝であるらしい。
だというのに、それを国家が先導して造りださせ、兵士に与え戦争の道具にするというのだから、全く素晴らしい事だった。魔術国家万歳といった所だろうか。
そんな代物だからこそ、魔術装甲兵はその身一つで騎兵以上に凶悪だ。馬数匹で引かせる戦車の方がまだましかもしれない。聞く所によると、奴らは大木ですら容易く拉げさせるとか。
それが数を揃え次から次へと注ぎ込まれてくるのであれば、まさしく悪夢そのものだろう。
外壁は意味をなさず、ただの歩兵など面白いように打ち砕かれる。数だけで言えば三万とはいえ、戦力で考えるならそれ以上の価値があると考えた方が良い。
「恐らく、都市国家群では耐え切れるものではありません。城壁都市ガルーアマリアですらどれほどのものか」
「分かっているさアン。そんな中、少数の兵で向かうのは無謀にも程がある。行くべきではありません。こう言いたいわけだろう。正しいよ、お前もマティアもな」
そう口を動かすと、アンは押し黙って俺を睨みつける。彼女の恨めし気な視線を躱すように、肩を竦めながら言葉を続けた。
「……もう、見捨てるには知り合いが多すぎる。ウッドも、セレアルも。一緒に酒を飲んだ爺さんもいれば、怪我した親父の為に働いてる可愛い町娘もいた」
此れはどう足掻こうと、俺が引き起こした事なのだ。だというのに、何も手を尽くさず彼ら、彼女ら皆を見捨ててしまって、仕方がない、他愛のない犠牲だと割り切れてしまうのであれば。
俺はもうきっと何も出来なくなる。都合の良い理屈をこねて、諦める理由を探して、理不尽を呑み込んで生きていく。そんなかつてと何も変わらぬ有様になるだろう。
――そうして結局、死ぬまで考え続けるのだ。あの時、俺は自らの卑小さの為に彼らを見捨てたのではないのかと。
そんな生き方だけはもう御免だ。第一、かつては切り捨てられる側だった俺が、逆の立場に回ったならばまた誰かを切り捨てる、なんて馬鹿らしいことがどうして出来る。
ふと、思う。英雄というものは、遠いものだ。俺の知るあいつは、きっとこんな事で思い悩みなどしなかった。どんな難局であれ、人を救う事など簡単にやってのけたものだろう。
きっと俺に出来ているのは、英雄の真似事程度のものなのだろう。ああ、だからこそ、真似事だけは上手くやってみせるさ。
頬を拉げさせ、宝剣と白剣を腰元で傾けながら言う。アンは未だ俺を正面から見据えていた。
「なぁに、何も正面から刃を交わそうなんて訳じゃあないさ。ただやれる事をやってくるだけでね。少しは英雄殿を信じてくれよ、アン」
アンは、俺の言葉を聞いて何か思う所があったのだろうか。一瞬眼を開きながらも、眉間に皺を寄せたり、次には頬を歪めたりとせわしなく表情を動かし続ける。
そうして、ため息をついてから言った。
「……信用というのは、積み重ねてこそ意味があるものです。此れを最初の一つとしていただけるようお願いしますよ、英雄殿。救援の後、無事のご帰還を」
眦がふいと上がる。思うのだが、俺はそれほどまでに信用がないのだろうか。少なくともカリアよりはマシだとは思っていたのだが。
頬をひくつかせつつ、カリアの方へと視線をやると、まるでやれやれとでも言いたげに首を振っていた。
「平時の行い、というのは危難の時にこそ芽を吹きだすものであるらしいぞ、ルーギス。さて、貴様はどうだろうな?」
どうだろうな、とそう問いかけつつ愉快げに頬をつり上げている辺り、もはやカリアの中で答えは決まっているらしかった。無性に悔しいのは何故だろうか。これがフィアラートやエルディスであるならば、もう少し素直に聞けた気もするのだが。
喉を鳴らし、一度言葉を切ってからアンに言う。
「それで、言ってた監獄の方はどうだった。何とかなりそうか」
そう問うと、アンは途端に神妙に顔つきを変える。そうして目を細め、声を潜めるようにして言った。
「手配はしました。先行頂ければ、追いつかせるようには致します。しかし――」
声を一瞬途切れさせたアンを前に、言葉を継ぐようにして言った。警戒だとか疑念だとかいうものが、アンの顔には浮かんでいた。
「――必要だからさ。人間、肉を切るためには危険でも刃を使うだろ? そういうもんだ」