第四百三十三話『かつて夢見た姿』
波打つ刃を振り上げながら、バーナードは眼を見開き其れを見た。眼前で、一人の男が紫電の剣をやや下向けに構えていた。
彼の背丈は男性の平均より少し上という程度。特別大きくもなければ小さくもなく、体躯においても特筆すべき点はない。精々、双眸が強く険を見せている程度だろう。その体格だけを見るならば、彼は十分一般的な範囲に入る。
過去バーナードが見知った強者、また想像していた英雄勇者という存在とは随分違う。
だがこの男こそが今、紛れもなく紋章教軍権の頂きにいる。
煌びやかさより禍々しさを纏い、善徳ではなく悪徳こそを尊ぶ大悪、ルーギス。
熱い呼気が唇から漏れ出ていくのをバーナードは感じていた。主人の仇に対するとめどなき憎悪と、そうして英雄と呼ばれる存在と刃を交わす高揚。その二種が奇妙に混じり合いバーナードの眼を色濃くする。
彼の戦歴は知っている。その武威も、栄光も雄姿も伝え聞いた。だが、己と彼が刃を交わすのは此れが初の事。ゆえにバーナードは勝てぬなどとは欠片も思わぬ事にした。
世界の一瞬の気まぐれが生死を分けるのが戦場というものだ。戦場での勇士が、時折あっけなく絶命するなどというのは日常茶飯に過ぎない。
何が起こるか、事がどう転ぶか分からない。それが戦場というもので、バーナードにとって戦場は故郷のようなものだった。この長身の男は、生真面目さとある種の不遜さを体内に同居させている。
故に先に動いたのはバーナードだった。勢いを味方につけ、長い腕をしならせながら上段より剣を振るう。
滑らかにうねりながら刃は宙に線を描いた。刃はルーギスの左肩より入って胴を食らうべく狙いをつけている。音を立て空を裂くその美麗な一閃は、紛れもなく日々の鍛錬の賜物だ。
だがその刹那、バーナードは寒気を覚えた。
寒気は背筋を覆い尽くし、眼球そのものを冷たくする。それが何によってもたらされたのかは分からない。だが反射的に、バーナードは身体を反らす。節々は強烈に悲鳴をあげながらも、咄嗟の所でそれを可能とした。
果たしてそれがバーナードの運命を分けたと言って良い。
鉄と鉄が一瞬かみ合った残響音。つい先ほどまでバーナードの顎があった部分に、紫電が駆けていた。
呼吸が乱れそうになるのを、バーナードは必至に押しとめた。全身に、一つのものを感じている。
それは骨を焦がすほどの鮮烈たる圧迫感。誰から与えられたものなのかなど、問うまでもない。
バーナードは頬を静かに歪める。それは怖気なのか、それとも喜びなのかはバーナードには分からなかった。
ただ胸中にあったのはやはり奇妙な思いが一つ。ただの一振りで、理解をした。
――ああ、そうか。此れが英雄というものか。
「ッォ、ォオオオ――ッ!」
バーナードは枯れた声をあげながら、刃を振るう。その剣戟は無茶苦茶なようでいて、どこまでも鋭く滑らかだ。
一度、二度と、紫電と鉄が絡み合う。剣戟特有の鈍い音が戦場に数度響き渡った。一方的に振るわれるバーナードの刃が火花を発し、反面紫電は堂々たる振る舞いで刃に対峙する。時に受け流し、時に打ち払う。
それらを精緻にこなす技術自体、紛れもなく脅威そのものだ。だがバーナードが背筋を冷たくしたのはその武技ではない。純粋な力に対してだった。
長躯であるバーナードが渾身の力を込めて振るった一振りを、彼は当然たる振る舞いで受け止める。刃は微動だにせず、紫電は欠片も押し込まれない。
喉から驚嘆らしきものがこみ上げてくるのをバーナードは感じていた。少なくとも真面の人間であれば、このような受け止め方は出来ない。少しくらいは押し込まれてくるものだった。もはや不動の存在を相手に斬り込んでいる気分になってくる。
英雄とは、勇者とはこういうものか。普通の人間の血液が正気であるならば、きっと彼の血には狂気が込められている。
だが、良い。構わない、むしろ良い。易々と刃が届く相手でない事は先の一振りでバーナードは十二分に承知している。もはや腕の一本や二本の代償で、此れには勝てないのだとバーナードは確信していた。
だが、かといって敗北するわけにもいかなかった。殺されるのはいいが、ただで殺されるわけにはいかない。そうなれば死して魂のみとなった時、バーナードは己が主人にとても顔向けが出来はしないだろう。
何としてでもこの大悪、英雄にだけは。一矢を報いねば。
バーナードは息を飲む。呼吸を一時たりともする気は起こらなかった。身体中の憎悪をかき集め、ただ一点を狙い打つ。
バーナードは敢えて剣を手元に引き込み、突きの構えを取って波打つ刃に陽光を滲ませた。その一瞬は、紛れもない隙だ。
彼がそれを見逃すはずもなく。紫電は絞り込まれた矢が放たれる如き勢いで、空を裂きながらバーナードの体躯へ迫る。
瞬きの内に、それはバーナードの肩を裂き割り心臓を抉るだろう。確信にも近い直感がバーナードの脳を襲う。例え回避行動をとったとしても、致命の傷は免れぬ。紛れもない決死の一撃。
だがバーナードは、回避する事など欠片も考えていなかった。むしろその一振りこそを待ち望んでいた。
彼が強者であればこそ、この隙を見逃すはずがないと、そう信じていた。
呼気を、放つ。バーナードの手元から大悪ルーギスの首筋を抉り取るための閃光が一直線に走っていく。
バーナードにとって此れ以上ないという一撃だった。勢いに乗った敵の刃はもはや止められるはずもなく、己は命と引き換えに敵の首を抉り取る。
それで良い。そうでなければ己は主サレイニオに顔向けが出来ぬ。眼前の敵は主を抹殺した憎き敵であり、そうして仇だ。
その憎悪は間違いなくバーナードの中に存在した。だがそこにもう一つ、別の感情が混じっていた事もまた確か。
それは即ち期待だ。己の主を殺したのだ。ならば、それ以上の者であってくれとの願い。下らぬ存在であってくれるなという稚拙な願望。
そうしてその願望は叶えられる。
――鮮烈な金属音が耳朶を打つ。瞬間、唐突にバーナードの視界は反転した。
何が起こったのかは定かでない。一瞬眼に映ったのは、まるでバーナードの動きを見透かしたかのように軌道を変えた紫電が、波打つ刃をそのまま断ち切ったという事だけだ。
そうして次には体躯に衝撃が走り、気づけば天を仰いでいた。濁った雲空が、今日ばかりは妙に明るい。そうか己は、敗北したのだとようやくバーナードは気づいた。
「……俺が言うのもなんだがよ。やめようや。そういう、命省みずの突撃みたいなのはよ。見慣れてるだけに嫌になる」
随分と気易げな言葉遣いだった。ルーギスはバーナードの傍らに腰かけながら、口を開いていた。
仇敵たる存在がそんな様子なものだから、バーナードも横たわりながら言葉を吐き出した。何時もの几帳面な様子ではなく、荒々しい様子だった。
「どうして私を殺さない。情けのつもりならとんだ思い違いだ。私は決して貴方を許せない」
だろうな、とやはり簡単にルーギスは応えた。そうして言葉を続ける。
「情けなんてあるかよ。ただ俺の知ってる英雄殿なら、お前を殺さなかっただろうってだけさ。死にたいなら殺してやる」
ルーギスの言葉が指す英雄というのが誰かというのは、バーナードにはまるで見当がつかなかった。むしろ彼にそういった存在がいたことが、バーナードには驚きだった。
吐息を漏らしながら、バーナードは眼を細める。ルーギスが憎いかと言われれば憎い、今すぐにでも殺してしまいたい。そんな彼に敗北した己もまた惨めで自ら死んでしまいたいくらいだった。
だがそれらに相反する感情があるのもまた、事実。何とも奇妙な心境だった。
バーナードは相変わらず天を見上げながら言う。
「私は貴方をいずれ殺すぞ。例え地面を這ってでも」
ルーギスはそれを聞いて立ち上がり、そうして何もしなかった。ただ一言、出来るならそうしろ、とだけ言った。
バーナードはもう一度、深い息を吐く。自分がどんな心地なのかが相変わらず分からなかった。
ただ耳の中を響くような音だけは、もうしなくなっていた。