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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十五章『背徳編』
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第四百二十七話『思惑は翡翠の如く』

 サレイニオが手元を鳴らしたのが、恐らく元より定められた合図だったのだろう。


 すぐ様、鉄のこすれる音がアンの耳に押し寄せてきた。サレイニオの老いた眼が、重苦しいものを含みながら此方を見ているのがアンには分かった。


 瞳に映るのは許容ではなく、拒絶を示す色。アンは表情には出さぬまま、口内で舌を打った。


 賭けは裏目に出た。易々と此方の手に乗ってくれることはないだろうが。もう少しばかり話には付き合ってくれると期待していたのだが。


 視線を左右に移すと、兵士がその手に護身の剣や槍を持ちながらゆっくりとアン、そうしてテルサラットにすら近づいてくる。


「話は分かった。ラルグド=アン。居心地は悪いだろうが、暫く陣内に留まってもらおう。何、フィロスにいるよりよほど安全だろうて」


 老いた唇が揺れながら声を漏らすのをアンはじぃと見ていた。その言いぶりからするにすぐ様首を刎ねられるというわけではないらしい。いいやもしかすると、テルサラットを都市に返してから締め上げるという算段なのかもしれないが。


 さて、どうすべきか。アンは小首を傾けながら、唇の中で言葉を練った。サレイニオはやはり疑り深い。その疑いを晴らしてやるのには盤面をひっくり返すだけの一言が必要だった。


 いいやというよりも、己が信用されていないのだなとアンは睫毛を跳ねさせる。


 サレイニオは、未だアンとの間柄が師弟であった頃からアンの事を特異な眼で見つめることがあった。それはアンの才覚を見出したものでもあったし、そうしてその考え方や信仰の在り方が、己と違うものである事を確信していたのかもしれない。


 アンを見つめる彼の瞳には、常に猜疑心に近い情動が潜んでいた。そうしてそれはアンも同様だ。互いの考えを理解すれば理解するほど、その猜疑は大きくなる。


 それはアンがサレイニオの下を離れてからもまるで変わらなかった。今やお互いへの焦げ付きそうな猜疑と敵意のみが、かつての師弟を結ぶ何よりの絆だ。


「ええ、致し方ありません。ですが、それとは別に一つ要望が――」


 そうアンが口にしかけた途中だった。キン、っと鉄が跳ねた音がする。兵士の誰かが、早まった真似をしたのだろうか。アンが真正面で捉えていたサレイニオの瞳も、僅かに険を増しながら見開いている。


 その視線の先を追うと、兵士が構えていた槍の穂先が見事にへし折れていた。それを成したのは、アンでも、当然アンが連れてきた文官でもない。


 浅黒い肌を揺蕩わせながら、テルサラット=ルワナが言った。


「――やはり私が正解だったのではないですか。ラルグド=アン。会談とは、刃を突き合わせる場なのでしょう」


 椅子に腰かけたまま、テルサラットの脚が跳ねあがっていた。脚線美を描きながら、身に着けられた黒色具足が手近な槍を破砕している。力を込めて粉砕したという風ではなく、実に軽々とした様子でそれを成していた。


 誰かが唾を呑み込ませた音が聞こえた。テルサラットの顔からは、剥きだしの敵意のようなものは感じない。余裕が顔には張り付いていた。それがより一層奇妙だ。兵士らも、テルサラットに槍を突き立てるべきなのか決めかねている。


 もしかすると、イーリーザルド人というものは皆こうなのだろうか。アンがそんな偏見を心に埋め込んだころ合いに、テルサラットは言葉を続けた。


「サレイニオ老。ここでは私の発言は許されているのですか?」


 周囲の兵士を身構えさせつつ、テルサラットは両指を顔の前で組んで言う。それは手足を凶器とする彼女だからこそ、ある種の手は出さぬという宣言なのかもしれなかった。先ほどのように脚は出るかもしれないが。


 サレイニオは一瞬眼を細めつつ、手の平を見せて口を開いた。


「勿論問題はない。それが互いの利益に反しないのであれば」


 テルサラットは指を組んだまま満足そうに頷いた。


 本来立会人であるだけのテルサラットが、周囲の注目を浴びて言葉を出すというこの状況。


 この奇妙な展開に、案外とサレイニオは冷静だった。態々アンがこの会談に連れてきたのだから、強硬手段を使わせぬ材料というだけでなく、他に何かしら言い含めているという可能性は十分に考えていたからだ。


 それゆえアンだけが、テルサラットの奇行に熱を噴き上げそうなほど思考を回す嵌めになっていた。


 当然の事であるが、アンはテルサラットに対して何か言葉を求めた事もなければ、この会談で事を成してくれといった覚えもない。


 これはあくまで紋章教内の問題だけに収めるべきだからだ。


 万が一このような内輪もめにイーリーザルドの介入を許したなどという事になれば、それは今後付け込まれるだけの弱みになる。まさかアンの側からそれを頼めるはずがない。


 何だ。何を言う気なのだ彼女は。アンは表情を崩さぬように整えながら、唇の端を噛む。想定外の状況に、歯が鳴ってしまいそうだった。


「先ほどのラルグド=アンの提案。是非ご快諾頂きたい。イーリーザルドの使者としてお願いしましょう」

 

 テルサラットの言葉を耳にして、大天幕の中が僅かに揺れる。口から何かしら言葉が漏れそうになったのを、必死にアンは押しとどめた。


 いきなり何を言い出すのだろうか。何故か此方の後押しをしてくれている事は分かるが。イーリーザルドの使者として、などといえばそれは国家としての要望という意味に他ならない。


 いかに使者といえど、それは決して安易に出して良い言葉ではないはずだ。


 だというのに何故彼女は易々と口にしたのか。そんなアンの疑念や驚愕を置き去りにして、テルサラットは緩やかな笑みを浮かべて睫毛を跳ねさせる。妙な美しさの伴った仕草だった。

 

「……紋章教内部の事だ。本来そちらが口を出すことではない。だがイーリーザルドがどうしてそれを望む」


 当然と言えば当然のサレイニオの問いかけに、小さく口を動かしてテルサラットは応じる。一瞬だけテルサラットの眼が、アンを見つめた気がした。


「率直に申しましょう。イーリーザルドは旧来のガーライスト国家の事をよろしく思っていません。ですが、此度の魔獣――いえ魔人災害においては国家、勢力間の協力が必要であるとも考えています」


 両手の指を組んだまま、僅かにだけ腕を傾けさせてテルサラットは言う。


 魔人災害。ガーライスト王国王都アルシェを陥落させた其れ。また南方国家イーリーザルドにおいても、七大都市の一つが魔人なる者の手によって陥落。西方諸国、また東方のボルヴァート朝においても自然災害に近しい被害が出ているとアンは報告を受けている。


 それを前にして協調が必要だという意図は理解できるし、旧来のガーライスト国家に対しては積年の恨みがあることも当然の事だった。しかし、だ。アンは僅かに唇の端を歪める。


「どうせなら、旧来ガーライスト国家と敵対している勢力と協調を行いたいもの。ですがその勢力が内部で相討ち弱まってもらっては困るのです。どうせなら二勢力として独立してほしい。違いますか?」


 テルサラットが語ることは、一応は筋が通ってはいるし、イーリーザルドの立場としては誤りではないかもしれない。アンとサレイニオとが対立をしている事も、この会談内容では流石に滲み出てしまうだろう。彼女が理解できたことも当然だ。


 だが、その全てが真実ではない。間違いなくテルサラットは一つ嘘をついている。


 アンは音をたてず唾を飲み下す。どうして彼女がそんな嘘を吐くのかが分からない。これは己を擁護しているのか、それとも己を嵌めようとしているのか。思考に熱をあげさせながら、アンは眼を細める。そうしてテルサラットを見た。


 テルサラットは目線だけをアンにやりながら、悪戯めいた笑みを浮かべていた。


 少なくとも、此処に至るまでの道程で、一度も見たことがない表情だった。

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