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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十四章『魔人編』
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第四百十五話『反逆は常に銀から始まる』

 都市フィロスの執務室内で指をせわしなく動かしながら、ラルグド=アンは羊皮紙にインクを落とす。


 幾通目かの聖女マティアとルーギスへの伝令文だった。内容は簡潔に。今勃発しているサレイニオ蜂起の概略、都市フィロスの統治状況、イーリーザルドよりの使者の事を書き記す。


 そうして最後列に、己が絶命した際の対応についての提言を走り書きで書き込み、署名を刻んだ。すぐに使者に受け渡し、前線へと走らせる。


 アンは指を軽く折り曲げ、伸ばす。それからようやく息を吐いた。


 当然、サレイニオの蜂起については判明した直後、早々に報告を行っている。しかしサレイニオとてそれを易々と許すほど凡庸な人間ではないだろう。アンの知っているあの傑物は、脇の甘い性格ではなかった。


 先遣隊を出し、こちらの使者を謀殺する事など当たり前のようにやっていてもおかしくはない。幾人もの使者を出したが、ここまで反応がないとなると多くの使者は前線にたどり着いてすらいないのかもしれなかった。


 だが、やるべき事はした。今はそれで十分だった。


 一息をつき、身支度を整えた所で執務室の扉が小さくなった。随分と落ち着いた音だった。


「失礼をしますよ。再びの事となりますが、魔獣の群れが都市近郊を荒らしまわっています。小規模ながらも対処が必要かと」


 アンの返答を待たず、都市フィロスの筆頭行政官は執務室に足を踏み入れ言った。顔はやや青白く疲労が見て取れる。髪の毛に混じる白髪も増えたように思えた。


 またか、とアンは口ごもりながら首を振った。


 ロゾー反乱の際からこの周囲に複数の魔獣が根を張っている事は分かっていたが、短い期間にその全てを対処をし切れたわけもない。


 都市フィロスの復興と統治を優先していたが、そのツケが最悪の時期に火をまき散らしてくれているというわけだった。ただでさえ割ける兵力などごく僅かだというのに。


 アンは眼を軽く動かし、小柄な身体を執務机に預けながら口を開く。筆頭行政官はその言葉をゆったりとした態度で待っていた。


「やむをえません。百人規模で兵団を組織し対応をお願いします。指揮を預けるものはヴェスタリヌ殿と相談を。ヴェスタリヌ殿自身は別任務がありますから」


 軍事の面で言えば、アンは自身が全く凡庸だと自覚している。夜盗や小規模の傭兵を相手取って対応をした事はあるが、よく言えば教本通り。悪く言えば対応力に欠ける指揮しか出来ていない。


 少なくとも相手の一瞬の動きから意図を読み取り、臨機応変に陣形を変えさせるなどという事は到底出来る気がアンにはしなかった。


 だからこそ、サレイニオの反乱が明確になった時点で、アンは監獄ベラから鉄鋼姫ヴェスタリヌを頼り招いた。


 この周辺において軍事面で頼れる者としては、一番最適だ。また聖女マティアやルーギスとの関わりも深くある程度は信頼が置ける。


 どうした事か本人は頑ななまでに監獄ベラから離れる事を拒絶していたが。一時だけという条件で何とか都市フィロスに引きずり込む事が出来た。


 いやまぁ、実際の所その理由は概ね分かっているのだ。アンは反射的に眉根を引き上げながら両手を腰につける。眉間に露骨に皺が寄った。


 どうせ英雄殿の影響に違いあるまい。ヴェスタリヌが報告の文書で何度も彼の名前を使っていたのをアンは目にした。


 そうとも、どうせまた安易な言葉を口にして人を情念の鎖で縛りつけているのだ。あの人は自分の存在や言葉を何だと思っているのだろう。それほどに重みのないものだとでも考えているのだろうか。


 そういった所も気に喰わない。全くもって不愉快なことこの上ないと、アンは目端を尖らせる。


 もしも万事が上手く行きこの場を乗り切れたならば、それはもうあの顔を散々に曇らせてやろうとアンは密かに心の中で決めた。それを思うと不思議と胸の重みが取れた気がした。


「……どうでしょう。兵は魔獣の対処に割かれるばかりの状況です。一度方針を変更されては」


 種々の報告や相談を終えたのち、筆頭行政官たる男は苦々しい表情を作りながら言った。恐らくは元から言い出そうと考えていたのだろう。何とも滑らかな言いぶりだ。


 アン自身、男の言わんとする所は分からないでも無かった。ただでさえ兵力は劣勢であるというのにこの状況。


 その上、敵勢力はサレイニオ自身の戦意に引き上げられる形で士気も高いようだが、こちらは溝底を浚ったほうがまだましという状況だ。


 サレイニオの蜂起を聖女マティアへの反逆と捉え義憤を起こす者もいるが、大半の紋章教徒は動揺を隠せていない。


 何せつい先頃まで味方であり教えを同じとした者が、唐突にこちらへ槍構え襲い掛かってくるというのだ。その状況で納得も理解もなく戦闘行為が行えるほど紋章教兵は愚直ではない。


 元々が高い信仰心故に兵となった者らが多く、ゆえに同胞へ牙を向けられるなど考えもしなかったはずだ。


 それに、中には親兄弟や友人が敵に与している者もいるかもしれない。そうなれば士気などあってないようなものだろう。


 また万が一兵力が何とか賄え奇跡的に籠城での徹底抗戦が出来たとしても。それもそう長くは続かない。


 兵糧はその多くが前線へと注ぎ込まれているし、第一籠城というものは城下市民の協力があって初めて成り立つものだ。内側から反発を引き起こされれば、一瞬で防衛体制など瓦解する。


 そうして、都市フィロスは紋章教――殊更アンに対しては好意など浮かべているはずもなかった。占領後の統治者など嫌われる要素はあっても好かれる要素など早々あるはずもない。


 これだけの悪材料が揃っているのだから、サレイニオとの対立方針を転換してはどうかというわけだ。


 筆頭行政官の言う事は恐らく道理なのだろう。真面に正面から衝突をすれば、無駄に命が零れ落ちるだけ。


 だが、アンは唇を上げて言った。瞳に映る色に動揺や焦りはなく、ただ一つの情動がにじみ出ている。


「いいえ、あり得ません。筆頭行政官殿。サレイニオ――そうして彼らは聖女マティアに反逆した背信者です。和解の道などどこにありましょうか」


 信仰心という名の何よりも大きな情動が、今アンの胸中を埋めていた。


 ラルグド=アンという女性は、都市フィロスの統治者である前に、紋章教の教徒である前に。何よりも聖女マティアの狂信者なのだ。彼女の思想に傾倒し、その存在を理想とする。


 その聖女の背を刺すような真似をした連中を、紋章教を二つに引き裂こうとした奴らを、どうして許容する事が出来る。何を言っているのだこの男はと言わんばかりにアンは首を傾げる。


 また、それだけでなくアン個人として思うところもあるのだ。


 此度のサレイニオの反逆。彼は聖女マティアとルーギスが前線へと出向いた機会を選び腰を上げた。


 ではもし、前線に出向いたのが聖女マティアだけで、ルーギスが都市フィロスに留まっていれば彼らはどうした。はたまた、他の主要な人間がここで留守を任されていれば。


 きっとサレイニオは蜂起を取りやめたに違いない。真実は彼の胸中にしか存在しないが、アンはそう判断する。


 詰まり己は、見くびられているのだ。取るに足らぬと。兵をもってすれば易く手を捻れる相手だと軽んじている。


 それはアンの胸中に言いようのない憤りを燃え上がらせる。確かに己は戦術における才覚を有しない。しかし、見くびられるのは、軽んじられるのは大嫌いだ。特に、サレイニオ相手には。


「ご安心を。正面から衝突する気は元からありません。どう転んでも、被害は最小限に抑えます」


 最後、私の首を差し出してでも。そう言いながらアンは、防寒具を身に纏わせる。話はこれで終わりだと、そう言ったつもりだった。だが筆頭行政官はアンに近づきながら言った。


 その顔はやはり、青白かった。


「……アン殿」


 何でしょうと、そう返そうとしたアンの瞳に、銀色の何かが映った。とても見覚えのある、そうしてアンの血肉など簡単に抉ってしまうだろうそれ。


 銀色を示すナイフが、眼前に見えている。アンはそれを見て、咄嗟に唇を動かした。口に出せたか、出せていないか。それはアン自身にすら分からなかった。


 ――ああ、やはり。

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