第四百十三話『微笑む毒』
いつの間にか鼻が利かなくなっているなと、聖女マティアは軽く息を吸った。死雪の湿った香りも、草木の匂いもまるで感じられない。空気は鼻孔を通っているのに、香りがないというのはどうも奇妙だ。
しかしそれも当然の事だった。強烈な一つの匂いに、その他全てが膝をつかされているのだ。
即ち、鉄の匂い。濃厚に漂う鉄と血が戦場から香りを失わせている。マティアは荒れた息を吐き出しながら、眼を小さくした。
彼女の眼には戦場の全てが見えている。
今までかろうじて戦線を保っていた魔兵達が、崩壊をし始めていた。一匹が逃げ、それを追ってまた誰かが逃げ。そうしてもはや足並みを揃えることなど忘れていく。
こうなればもう、軍隊としての体裁を整えることは不可能だった。軍隊とは一つの肉体のようなもの。手足がばらばらに動いてしまえば、もはやそれは機能をしない。
威容を誇った魔獣の群れ達が、今は紋章教兵とガーライスト兵を前にして無残なまでに切り裂かれている。詰まり、これは。
「……勝った、勝ったの? 敵が引いていくわ。あれだけ強かったのに」
マティアの傍らに轡を並べながら、フィロス=トレイトが眼を大きくして言った。言葉に出して尚、信じられないという表情を浮かべている。
その頬には血が張り付いていた。誰かの血が撥ねたのだろうが、それを拭うことすらフィロスは忘れていた。
緊張が解かれ、手足の指が痙攣を起こす。本当に勝利をかみしめて良いものか、全身が迷っているようだとフィロスは思った。
数え切れぬほど死を覚悟した。鋭い刃のような爪が眼前を走った事も、部隊が崩壊しそうになった事も何度もあった。
だから未だフィロスは信じきれない。これは自分の勘違いか何かではないのかとそう感じる。マティアは、フィロスの揺れる片眼鏡を見つめた。
「ええ――私達、人間の勝利です。魔獣達はもはや立ち直れないでしょう」
マティアはゆっくりと瞬きをして、噛みしめるような口調で言った。疲れ切った唇を撥ねさせて、そのまま将兵らに追撃を命じる。槍を掲げ、紋章教の旗に向け声を荒げた。
だがその勝利の最中にも、マティアは苦々しいものを頬の端に浮かべていた。拭いきれぬほどの焦燥と苛立ちも。
これは紛れもない人間の勝利だ。それは間違いがない。魔獣どもはもはや背を見せ逃げ惑うことしかできはしないだろう。
――しかし紋章教の勝利ではないのだ。
敵が打ち崩れ始めた際、最も早くにその解れを突いたのはガーライストの将だった。彼らはもはや勢いのまま城門前まで迫っている。
多少の時間は必要とするだろうが、強固な城門もいずれはその大口を開くのは間違いない。そうなれば戦場での輝かしい功は、ガーライストが全てを掴み取る事になる。
紋章教が王都を実効支配するには、王都に誰よりも先に入らねばならなかった。それはもはや敵わない。
どうする、どうすれば良い。マティアは焦燥の余り、喉が大きく鳴ったことにすら気づかなかった。
あの唐突な魔獣の崩れ方。明らかに自然発生的なものではない。何かが起こったのだ。外的な要因による何か。魔獣達が崩れざるを得ない何か。
それは、詰まるところ魔人の消失に違いあるまい。
それを成した者がいるとするのなら、ただの一人しかマティアには思いつかなかった。己の婚姻者であり、そうして己の剣。ルーギスのみだ。
どれほどの苦難があったか分からない。どんな過程を辿ったかなど想像もつきはしない。けれど己に勝利を捧げてくれたのが、彼をおいて他にいるはずがないとマティアは断ずる。
だというのに、それを私は台無しにする気なのか。マティアは自然と、指にはめ込んだ指輪を握る。将兵の活気づいた声を耳にしながら、その心は暗澹としていた。
何か手を考えなければならない。最悪、ガーライスト兵と相対する事になったとしても。大粒の汗を額に流しながら、マティアが唇を歪めた時だった。
フィロスが頬を動かし、マティアの表情をくみ取って言う。
「……要は、王都の実効支配に食い込む為、市民に誰が立役者か見せびらかせばいいのよね」
その言葉に思わずマティアは瞼を開いた。フィロスは返答を待たぬまま、着込んだ皮鎧をその場に落とし周囲の護衛兵を数名使者として走らせる。
どういう事かとばかり、マティアはフィロスを見た。だがフィロスは一時も惜しいとばかり、腰にさげた短剣すら放り落とす。
「私もね、多少は学んだの。以前は正しさこそが全てだと思ってた。公平と正義に努め、それを全うすれば最後には私に付いてきてくれると思ってたのよ」
けれど違ったと、フィロスは唇を開く。彼女はその身を軽やかに馬から降ろすと、装備の一つ一つを丁寧に外した。もはやその身にまとっているのは僅かな肌着だけだった。
本来貴族である者が晒すはずもない姿。それでも頬一つ染めずにフィロスは馬具から荷を取り出して、黒が混じった衣服を広げた。貴族としての、彼女の礼装だ。
「ロゾーなる者の、一件ですか。あれは不幸の重なりもありましたよ。フィロス=トレイト」
マティアはフィロスが成そうとしている事を僅かに理解しながらも、その心を静めさせる為に言う。何せフィロスの眼は血を走らせ、強い情動が弾んでいた。
いいや、それも仕方のない事なのかもしれない。
かつて己が庇護してきた市民らに裏切られ打ちのめされた想いなど、どうあがいても心の底に暗い思いとなって溜まり込む。そうしてここぞという時に噴き出してくるものなのだ。
フィロスの片眼鏡が、揺れるように傾いた。
「そうね。けれど、私が信奉していた真理は誤りで、人は私が思っているほど正しい事が好きでもなかった。それは間違いがない」
情動を込めながらも、それでも実に淡々とした言葉遣いだった。マティアは自らも馬を降り、フィロスが新たな装いに着替えるのを手伝いながら、不穏なものが胸を過ぎるのを感じていた。
あまりよろしくない感情だ。一種の疑念に近い感情を、マティアはフィロスに抱き始めていた。もしかすると、彼女は今随分危うい所にいるのではないのか。
そんなマティアの想いを知ってか知らずか、フィロスは歌うように声を続けた。
「それにあいつが教えてくれたわ。公明正大の真実も、どれほど汚れなき正しさも、時として一滴の野望に膝を屈する。そうでしょう聖女様」
その言葉を聞いた瞬間。マティアの中の疑心は確信へと姿を変えた。
彼女。フィロス=トレイトは、今その心に抱く指針を明確に振り切らせた。公平から不義へ、堅牢なる正義から混沌たる陰謀へ。
それが誰の影響であるのかなぞ、問うまでもない。フィロス=トレイトが胸の奥底で眠りにつかせていた考えを、彼が引きずり出してしまった。
「――人は微笑みながら悪党たりえる。私は、私の正しさの為にもう手段を選ぶ気はないわ。例え今後、口に入るものが全て毒でもね」
フィロスが出した使者が呼びまわったのだろう。もはや大方の戦働きを終えた貴族の兵らが、こちらへと向かっているのがわかる。フィロスを担ぎ上げる為、次代の権力者とならんが為にかけずりまわる者達。
だが、彼らも。そうして己すらも全ては計算違いだったのだとマティアは今理解した。フィロス=トレイトという者は、正義と公正さを叫ぶだけの少女ではなかった。
必要であるならば、骨身も溶けるほどの悪すら飲み干してしまう毒婦。それが彼女。
黒を基調とした礼装を身に纏い、頬についた血を引き延ばしながらフィロスは言う。
「王は民を置き去りに逃げ、王女はその身に血を浴びてまで民を助けた。ガーライストと紋章教の兵を引き連れて、ね。真実ではないけれど――そういうのが好きでしょう、皆」
フィロス=トレイトが、その仮初の名を名乗る最後の日。今まで見せたことのない暗い声でもって、彼女は言った。