第四百五話『砕け散るもの』
視線とは元来からして、力を持つものだ。時折他者の視線が肌を刺すと感じることがあるように、痛みや痒み、膨大な熱を其処に覚えるように。
何かを視界に含み、己の世界に収めるという事。それそのものに力があると信じられてきた。神話の時代、其れ一つで命を奪い取る事もできたのだと。魔眼。真眼とはその類。
ただの人ですらそう語られる。であるならば、魔人の視線とは如何ほどのものだろうか。
ガーライスト王城。玉座の間。
魔人ドリグマンはその炯々たる眼を開き、女王エルディスを視線で射貫く。その掌の上では彼女の呪術そのものがのたうち回っていた。黒が嗚咽を吐いて罅割れていく。
ドリグマンがその苛烈な視線に含めているのは静かな怒気。同じく精霊に近しいものでありながら、尚牙を剥こうとするエルディスへの苛立ちに他ならない。
何をやっているのだと、眼はそう言っている。
同族でありながら、魔でありながら、何故そちら側にいるのだと。そんな感情を沸々と湧きださせながらドリグマンは眼を細める。視線は凶悪なまでに迫力を増し、エルディスの頬を焼いていった。それはそのまま血の流れも止めてしまいそうな奇妙な圧を持っている。
けれども。相対する碧眼はそれより妖しく輝いていた。より剣呑に、より凶悪に、眼は歪んでいく。首の筋肉を引き締め、歯を剥き出しにしてエルディスは魔人の圧を跳ねのける。
いいやもしかすると、そんなもの歯牙にもかからなかったのかもしれない。今エルディスの胸中で蠢いているものはただ一つの情動だ。燃え盛るようなそれ。
――よくも、僕に不義をさせたな。
指先から呪の熱が離れていくのをエルディスは感じる。敵の祝福が己の呪いを食い殺したのだ。それも瞼が瞬く内に。
其れは本来有り得ぬこと。大精霊の寵愛を受けたエルディスの呪術、その一端をかき消す事なぞそう実現できるものではない。出来るとするならば、同等かもしくはより上位の存在を奉る者のみ。
直感する。分が悪い。それが素直な感想だろう。少なくともエルディスの理性はそう告げている。一瞬の攻防が、己と敵の実力差を白昼の下に晒していた。正面から相対してはあれには敵わないと理解する。
だが幸い今の一瞬、敵の興味はルーギスから離れた。彼が間合いを詰める間、注意を逸らすという最低限の仕事は出来たというわけだ。
そう、最低限の事。本来はエルディスがその呪術をもって敵の手足を縛り付けるはずだった。
ああ、これが不義でなくてなんだというのか。エルディスは唇を噛みながら、碧眼を見開いて血流を早くする。
己はルーギスの主人だ。ならばその役目を果たさねばならない。騎士たる彼が懸命に腕を振るい敵を圧壊せんと脚を駆けさせているというのに、主人が役立たずであって良いものか。
それでどうして胸を張って彼を仕えさせられる。彼が騎士であるならば、当然に己もそれに相応しくあるべきだ。其れこそが己らの間にある契約と言っても良い。
ああそうして、エルフに取って契約は絶対だ。
エルディスは腕を傾けさせ、眼を張る。長い耳が痺れたように震えながら痙攣した。視界の先では呪の黒が粉々に打ち砕かれ、そうして大地が揺れていた。
◇◆◇◆
すぐ眼前で、呪術の黒が弾け飛ぶ。足はまだ大地についていない。視界は砂煙と黒で散り散りになりもはや何が起こっているのかすら分からない。
だが何が迫っているのかだけは、肌がよく教えてくれた。その先に魔人がいるのだと。
宝剣の先を宙に傾け、腕をしならせる。
そうして足先が大地に付いた瞬間、肘を鳴らし正面へと刃を振りぬいた。鉄が空を割く心地よい音が耳を撫でる。
刃の先から感じるのは、肉を噛み、骨を砕く感触――そうしてその先に、奇妙な手触りがあった。
固い。まるで動かない。何故か刃が進まない。奴の心臓を食らう手前で押し止まってしまった。何故。
いいや、違う。正確には止まったのは宝剣ではない。俺の両腕そのものだ。それが何かに固定されている。
何かとは、何だ。視界の先から、その声はした。
「掴んだぞ」
怖気の走る声だった。背骨が蠢動し危機だと吠える。臓器という臓器が血の気を失い呼吸を止める。砂埃が空に散り、ドリグマンが掌を握りしめているのが見えていた。
距離をも統制する原典に、両腕を絡み取られた。
それを理解した次の瞬間、嫌な音が鳴る。とてもとても嫌な音。喉を、鳴らす。
衝撃はその後に来た。
両腕が破裂したかと思われるほどの衝撃。腕を構成するありとあらゆるものが、砕け散った感触がある。
神経が肉を突き破り、荒々しい外界へと無理やり引き出された激痛。骨が砕け肉を裂いているのか。それとも肉が荒れ狂って骨を軋ませているのか。もはやそれすら分からない。
眩暈がする。一瞬自分の意識があるのかどうかすら判別できなかった。荒れ狂う刺激の奔流に、脳が異常をきたしているのが自分でよく分かる。
何が起こっている。掴み取られたのだ、腕を。では腕はどうなった。眼を無理矢理見開く。
全てが千切れ飛んだかと思うほどの衝撃だったが、幸いにして両の腕はまだ確かにあった。だがただそれだけ。
握力なぞ当然残っていない。手の先は硬直したように宝剣を握りしめているが、その形から動けぬだけだ。宝剣はドリグマンの心臓の手前からぴくりともしない。
ドリグマンの掌が開き、今度は其れが俺の首筋目がけて開いているのが分かった。
「此処が君の終わりだ。不運を呪うと良いルーギス――」
不運。それが何を指しているのか俺には分からなかった。こいつの原典に腕を掴まれた事か。それとも相性が悪かったという事か。もしかするとこの時代に生まれてきた事自体を言っているのかもしれなかった。
まぁ何にしろ俺が運が無い方であるのは確かだ。とてもではないが、良い星の巡りに生まれて来たとは思えない。第一幸運であれば地を這うような惨めな生き方などするものか。
だが、不運かと言われればどうだろう。俺は不運だったのだろうか。
両腕が熱を有したように熱い。骨と肉が砕け感覚すら失われた其れからは、もはや熱だけしか感じなかった。一瞬、吐息を漏らす。耳が、その擽るような声を聴いていた。
「――運なんてのはただの言葉さドリグマン」
刹那、石床が僅かに揺れ動いた。強固なはずの大地が芽吹きを覚えるように痙攣し、そうして瞬きの間に破裂する。複数の樹木が、命を食らう杭となって隆起した。
其れは獲物目がけて一直線に突き上がり、そうして一切の躊躇なくそれを穿つ。
――ドリグマンの肢体、そうして胴が樹木の杭に食らいつかれ、呻きをあげていた。
その一瞬。明確にドリグマンは気を逸した。凶悪な眼が見開き、理解が及ばぬ事態に思考を遥か彼方へと飛ばしてしまっている。何が起きたのかと、そう自問しているかのよう。
そうして杭に突き上げられた身体は今、僅かに両脚を浮かせ中空に揺蕩っていた。ああ、この一瞬が欲しかった。
腰を駆動させ回転させる。両腕はもはや砕かれ動かない。だがまだこの身体に繋がってはいるのだ。そうして拳は固く宝剣を握り込んでいる。ならば、後は無理やり動かしてしまえば良いだけだ。
骨が内側から崩壊する悲鳴。してはならぬ動きをしているという実感があった。けれども得られるものが魔人の心臓で、失うものが俺の体躯であるならば。素晴らしい取引だ。此れ以上ないというほどの。
両脚を大地につけたまま、魔人の身体に埋めていた宝剣を振るう。それは斬り付けるというよりも、もはや使い物にならなくなった腕ごと振り回しているに近しい。奴の視線が、俺の頬を貫いているのが分かった。だがもう遅い。
ただ振り回すだけの蛮行。だが宝剣は意志持つように線を描き――そのまま魔人の心臓を食い破った。