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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十四章『魔人編』
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第三百九十九話『命の価値』

 黒が円を描いて空を食らう。大剣の自重を用いて振るわれる一閃が、リチャードの手元を軸として唸りをあげていた。


 常人であれば振るうだけで息切れするであろう黒剣を、老人は慣れた様子で宙に舞わせる。それは彼が積み上げてきたものの結実であり、踏み抜いてきた過去の足跡そのものだ。


 それだけの武技を成さねばならぬだけの道筋があり、それを乗り越えリチャードは今此処にいる。


 黒剣が線を残し、魔人ドリグマンの手足へと食らいついた。鉄塊は嗚咽をあげながら肉を抉ったが、どれもこれも傷は浅く、幾度かの殴打斬撃を経て尚決着はつこうとしない。それにそれらの傷は、すぐさまその場で再生を続けるのだ。


 魔人の相貌にも、まるで焦燥というものは見えていなかった。ただ少しばかり眉を歪めているだけだ。


 恐らくは此の剣では怪物を殺せないだろう。リチャードも半ばそれを理解していた。精々が皮一枚を抉るだけの獲物では、鹿一頭の命とて手には取れない。鑢を片手に巨人と相対するようなもの。傷をつける事は出来れど殺せない。


 けれどリチャードが今まで敵対した連中に、そのようなものは当然にいた。金属を通さぬ肌を持つ魔族、狂気を伝播させる魔獣に鉄すら腐り果てさせる魔性。


 そのどれもこれもを殺してきた。


 リチャードは確信する。巨人も、精霊も、鬼も。そうして魔人も。此の世に死なぬ者などない。必ず殺し滅せられる。事実目の前のこいつは、神話の時代アルティウスに殺されたというではないか。

 

 ――ならば此奴も必ず殺せる。そうでなければならない。


 黒剣の剣先が、再びドリグマンの右手へと振るわれる。魔人はかるく手首を返し、その鉄塊を軽々と弾いた。渾身の一振りの結果は、僅かにだけ魔人の皮膚に傷を作っただけ。たったそれだけだった。


 だがそれだけで良いのだ。


 同時、リチャードは視線の端に魔人の左手が迫るのを見た。咄嗟に一歩を退けば、次には床板が砕け石破片が飛び散る。


 両者の攻防は、此の繰り返しだった。


 ドリグマンの鉄石を圧壊する破砕攻撃をリチャードが皮一枚で避け、決死の殴撃を振るう。はた目からみれば攻め立てているのはリチャードだったが、其処に優位などという言葉はまるでなかった。


 一つでも読みが外れればその場で悶え死ぬだろう。肉と骨が砕け散る覚悟を、リチャードは胸中で何度も行った。第一、両者には未だ圧倒的な差異が横たわっている。


 それは肉体の頑強さや武具の違いではなく、生物としての持久力。ドリグマンは僅かたりとも息を切らしはしないが、動き続ける事を迫られるリチャードには遠からず体力の限界が訪れるだろう。


 だからこそドリグマンも今の奇妙に拮抗した状況に手を打たない。これは今一瞬のみの事であり、すぐに終わる事が分かっているから。それはまさしく羽虫を追い詰める人間の振る舞いのようだった。それだけの事に、無理をして全力を振るう人間はそういない。


 リチャードは匂いを探すように鼻を僅かに鳴らす。剣を振るい始めてから、まだそれほど時間は経っていない。だというのに、その僅かな間に幾度も死線を潜り抜けていた。


 何とも厄介な仕事だことだ。最悪時間が稼げればそれで良いが、それにしてももう少しは楽をさせてもらいたい。未だ完治をしていない腹の辺りに、リチャードは鈍い痛みを覚えていた。


 数度、鉄が弾く音がして剣戟は続く。それも全てが紙一重、余りに危うい攻防だった。肉と血が僅かばかり飛び散り。


 ――そうして当然のように其れは来た。


 一瞬の後、夥しい血液が踊り狂って玉座の間を汚す。その血液の持ち主は、魔人ではなかった。此処にいる唯一の人間。リチャード=パーミリスのもの。


 黒剣が歪な音を立てて零れ落ちる。いいや、それだけではなかった。黒剣と同時、リチャードの右腕が飛んでいた。血と肉が弾け飛び、骨髄を焼く痛みがリチャードの脳を突き刺す。


 いいやまだそれだけで済んでいるだけ幸運だ。脳が現実を直視したならば地獄の辛苦を味わう事になるだろう。


 無論、それまで生きていればの話だが。


「もう終わりにしよう。めいめい騒いで咽び転がるのが能ではないだろう。潔く死ぬというのも、ある種の美学だよ」


 ドリグマンは掌を開いて、リチャードに突きつける。もう成す術がないのは明らかだった。其れは心の真から出た言葉だ。


 片腕を失ったのはただ武具を失ったのとは訳が違う。身体の平衡は崩れ、慣れるまでは真面に歩く事も難しくなる。まして剣を今すぐ拾って振るい直すなど、英雄物語の中にのみある話だ。


 一瞬の判断で全てが終わる戦場の場で腕を無くすというのは、即ち死を意味する事だった。ドリグマンも、そうしてリチャードもそれをよく理解している。だからリチャードは黒剣を拾い直すような真似はせず、ただ息を吐くように言った。


「……どうやっててめぇを殺すべきか。散々考えたんだがよ」


 リチャードは欠片も動くような真似をしなかった。それはもう死を受け入れた人間の態度だ。それにもう抵抗する手段もない。


 だからこそ、ドリグマンも末期の言葉に耳を傾けていた。人間が己らの言葉を真似るのは好きではないが、勇ある者の言葉くらいは聞き入れる程度の寛容さをドリグマンは持ち合わせている。魔人にとっては、実に珍しい事だった。


 それに、ドリグマンには喉を這うような違和感があったのだ。


 どうして、此の人間は死ぬ間際でこうも落ち着いているのだ。どのような人間であっても、死ぬ前には怯え戸惑う。それが此の人間からはまるで感じられなかった。それがどうにも、ドリグマンには気に掛かった。


「斬っても死なねぇ、魔術もきかねぇ。そういうイカサマ野郎を殺すには大抵お決まりがある。油火つけて焼け回すか。罠に嵌めて自壊させるか――」


 老獪な髭が揺れ動き、皺が笑みを見せるように深まった。白い歯が頬の内に見えている。


 ドリグマンの指が、痺れたように跳ねた。


「――毒を含ませるかだよ」


 リチャードは眼を強く固めて言った。血が抜け落ち過ぎた所為か、僅かに視界がぼやけ始めている。もうそろそろ意識が途絶えるだろう。


 口にはしたが、実際の所愛剣に塗った毒が何処まで意味を成しているものか実際にはリチャードにも分からない。魔人に効く毒など、今まで考案した事もなかった。何せそんな存在は神話の世界の話だったのだから。


 だが、レウの言葉をリチャードは覚えていた。ドリグマンという魔人は、人間の身体を奪い取ったのだろうと。


 其れがどの程度塗り替わったのかは分からない。だが人間の意識や身体を奪い取る魔性というものを、リチャードは幾度か見たことがあった。


 そういう輩というものは、大抵すぐさま全てを奪い取れるわけではない。ある程度の時間をかけて、長いものであれば年単位で身体を簒奪するのだ。それまでは、魔性となっても尚素体となった人間の部分が残り続けている。


 ならば、もし此の統制者たる魔人にも未だ僅かにでも人間の部分が残っているのであれば。毒は意味を成すはずだ。その可能性が為にリチャードは愛剣に毒を塗り付ける事も厭わなかった。


 だからこそ執拗に僅かでも傷をつけたのだ。其れが血を巡るように。


 それに打ち手はもう一つ。油と火だ。リチャードの鼻の先には、煤の匂いが届き始めていた。別行動を取らせていた兵達が、その役目をようやく全うしだしたらしい。


 王城という場所は、常に大量の油を保有している。油は生活の必需品であるし、軍需物資でもある。万が一籠城という事態になれば水と合わせて必ず確保せねばならぬものだ。


 だから、もうすぐ此処は火の海になる。その油を全てくべろと兵には言った。加減はいらぬと。


「魔術の火はきかねぇそうじゃねぇか。なら油火はどうかね。試せる事は全部試す心づもりでな」


  悪いが俺は潔くねぇんだ魔人野郎。リチャードがそう呟くのを聞いて、ドリグマンは眼を細めた。その相貌には感情が僅かに浮き出始めていた。


「人間というのは本当に強く、いや強かになったものだ。だが、どう足掻いても君は此処で死ぬぞ」


 ドリグマンは、掌を開いた恰好のまま聞いた。僅かに手の先に痺れがあるのに気付き始めていた。


 ただただ素直に、感心した。人間は獰猛であるとは思っていたが、こうも他者を殺す事に執着出来る生物だとは思ってもいなかった。


 リチャードは失った右腕の分随分と気軽に口を開いた。


「人間、何時か何処かで死ぬ。なら必要な時に使うべきだ。それが命の価値だろうよ」


 言葉が途切れ、ドリグマンが掌を握りしめようとした瞬間。


 精霊の足音が、玉座の間に踏み込んだ。同時、紫電が舞った。

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