第三百九十四話『主従の様相』
魔性君臨都市アルシェ。王宮殿。
本来あるべき主人が失せ消えた王宮の玉座にて、統制者ドリグマンは指輪の一片をじぃと見つめていた。身体は椅子に腰かけさせたまま、指先が至宝の熱を感じている。
かつての頃精霊神ゼブレリリスから下賜された魔具。神意そのものと言ってもいい神話の具現。
人類と亜種を統括せしめるだけの奇跡が込められたその指輪は、過去から変わる事のない輝きを煌かせ続けている。ただ、その半身を失った事を除いては。
ドリグマンは胸を焼かれるような怒気と、純粋な驚嘆を孕ませながら眼を見開く。目の前にあって尚、此の指輪が分かたれた事に実感が湧かないようだった。
あり得ないはずの事が目の前に起こっている時。どういう反応を示すべきか誰もが迷う。驚くべきなのかそれとも困惑すべきなのか。ドリグマンの心境はなんとも奇妙なものだった。
だが、まぁ良い。此れもいずれまた一つに戻る。
何しろ指輪の半身が、今休むことも無く己の元に近づいていることを、ドリグマンは手に取るように感じていた。
指輪には呪いが掛けてある。かつてアルティアに奪い取られる間際、肉体の死と共に絡みつかせた呪術。
此の指輪は、必ず己の手元に舞い戻ってくる運命にあるのだ。何があろうと一度定まった運命は変えられない。
ドリグマンが固い顔をしながらようやく指輪をしまい込むと、馬の下半身を持つ魔獣ヴェルグが蹄を打ち鳴らし口を開いた。どうやら彼は己の主が平静を取り戻すまでの間、待ち続けていたらしい。
「日の出と同時、都市外の人間共が小規模ですが攻勢を開始しました。すでに兵は向かわせ、応戦の準備を整えておりまス。対応は十分に可能かト」
ヴェルグの嘶くような声に、うん、とそう答え、噛みしめてからドリグマンは言葉を続ける。少なくともヴェルグには、それは危機を覚えたようなものではなく、感慨深そうに語っているように聞こえた。
「人類は、強くなったな。驚愕に値するよ」
その言葉に対して、正直を言うならヴェルグは返すべき答えに詰まった。そうですなと応ずるべきか、それとも鎧袖一触蹴散らして御覧にいれようと語るべきか。
珍しく獣の表情を淀ませたヴェルグを見て、ドリグマンは苦笑を滲ませ、困らせて済まないと言ってから言葉を続けた。
「本当に強靭になったものだ、身体ではなくその魂がな。かつての頃は、軍を率いて魔性に立ち向かう人間が生まれるなど想像もしなかった」
かつて魔性が大地を自由に踏みしめていた時代。その頃には軍を率いるのは勿論、自らで物を考えられる人間すらそういなかった。
彼らは魔性の為の家畜であり、愛玩具であり、時に食料だった。それを誰もが受け入れていた。殆どの人間は魔性に反抗するなど考えたこともなかったはずだ。
奪われ虐げられるのは当然の事で、魔性の側もそうする事が自然な振る舞いだと理解している。
そんな平和で誰もが幸福であった時代に、武具を取り魔術を唱え魔性に牙を見せた人間はたった一人だけ。まるで神意に導かれでもしたかのように、全ての魔性を跪かせ人類神話を打ち建てて見せたあの女だけだ。
――人類英雄アルティア。
ドリグマンは胸中で忌まわしい女の名前を呟きながら、眉間を歪める。そうして其処から生まれた感情ごと吐き出すようにしてため息をついた。
思う所は多々あれど、目の前の事を放っておくわけにはいかない。アルティアの首に手を伸ばすには、ありとあらゆる困難を排し、人類種を打ちのめさねばならなかった。これは長い長い道のりの序曲でしかない。
「彼らの腹は読めている。大方、外で騒ぎ散らしている連中は陽動だろう。必ず別働隊が足を出す。城市を荒らして此方を揺るがそうと言った所かな」
ドリグマンの言葉に、ヴェルグは僅かに頷いて応じた。彼にはそれが正しいのかどうかまでは判断がつかなかったが、素直に受け入れられる程度にはドリグマンの事を信頼していた。
「一つずつすり潰す。別動隊には君が兵を率いて当たれヴェルグ。する事は所詮嫌がらせの類だ。皆に混乱が出ぬ程度に抑えつけろ」
馬の蹄をかき鳴らしながら主人の言葉に答え、そうしてヴェルグも応じて口を開く。
「かしこまりました。では統制者殿、兵を用意致します。別動隊があるという事は奴らが付け狙うのは貴方しかいますまイ」
陽動と別動隊。それらが用意されているというのであれば、人間が何を思い何を考えるかという程度はヴェルグにも推察が出来た。というより、此の主人の下にいる間は妙に知恵が回っているだけかもしれないが。
詰まり人間どもは、どうにかして此方の長たる魔人を斬獲せんとしているのだ。
そんな事はあり得ぬと理解はしている。だが万が一人間共が忌々しくも謀略を蠢かし、主人に傷をつけないとも限らない。それに、血を吐き出し無理やりに逃げ去ったもう一人の魔人の事もある。
ならば少なくとも目立ちすぎる此の王宮は出るべきだろう。
他の建造物より守りやすい構造にはなっているが、多くの兵が出払う以上、此処に居座り続ける意味は薄い。
そう語り蹄を動かすヴェルグに対して、ドリグマンは固い声で言った。
「――それは行わない。僕は此処で別動隊の一部を迎え撃つ。ヴェルグ、君も王宮へ向かう人間共に構う事は許さない。あくまで君は城市を悪戯に荒らそうとするものだけを抑えろ」
そう言われて、ヴェルグは初めてドリグマンの言葉に素直に頷けなかった。その意味する所がまるで理解できなかったからだ。
だがドリグマンの言葉には有無を言わせぬだけの迫力があった。凛然とした風貌が、強い表情でヴェルグを見据える。其処には当然ながら冗談めかしたような色はなかった。
何故。敵は明確に此方の核たる魔人を狙わんとしている。
ならば此方は兵を用いて其処までの道を分断させるか、狙い撃てぬように乱してやればいいだけだ。時が過ぎればその分此方に有利になる。
むざむざと相手の掌に自ら乗り入れ、迎え撃つ事に意味はない。それでは相手を図に乗らせるだけだ。舌から零れそうになった言葉を必死に押さえつけて、ヴェルグは小さな声で理由のみを問うた。
ドリグマンは僅かに唇を歪め、君が僕に理由を聞くのは初めてだなと、そう言った。
「……此処の玉座は精霊神ゼブレリリスの為に拵えている。あの御方が正気を取り戻す為にも、此れを奪われるわけにはいかない」
そう言いつつも、ドリグマンの声色には大した熱は含まれていなかった。今この時のために作り上げておいた理由のようにヴェルグには聞こえた。
何せドリグマンが一種の魔法機構を此処に備えていたのは確かだが、かといって其れは人間共が容易に切り崩せる様なものでもない。例え一時踏み入れられたとして、何の不具合があるだろう。精々人間どもが王宮を荒らしまわらぬかという心配がある程度だろう。
だから恐らくは、次にいった事が本命だったのだろうとヴェルグはそう思った。
「それに、宝石がいる。彼女は一度こうと決めた事を自らに呪いを掛けてでも曲げない女だ。そうして一度そう成った彼女は、世界のありとあらゆる事象を以てしても変えられない。宝石とは即ち其れなのだから。ゆえに一度敵対した以上、終わるのは僕か彼女が死ぬときだけだろう」
――そうして、宝石バゥ=アガトスは対多数、対軍の名手だ。より多くを縊り殺す事に長けている。兵がいればその分だけ死ぬだろう。
ドリグマンはそう言って、手元に置いたグラスを持ち上げ唇につけた。其処に至ってようやくヴェルグは、己が主が何を言わんとしているのかを察する。
瞬間、反射的にヴェルグは口を開いていた。魔獣の咆哮が王宮を撫でていく。
「統制者殿。それは――いえ、私や兵は、命ヲ零れ落とすことなぞ恐れてはおりませン。それが意義ある死であるならば尚更! 顔面蒼白な臆病さなど誰が持ち合わせるものでしょうカ!」
魔獣とは、否魔性とは皆そういうものだと強調するようにヴェルグは言う。眼が今までの生涯で有り得ぬほどに拉げているのが分かった。主人の言葉に直接逆らう事は出来なかったが、それをいう事だけは出来た。
ドリグマンは表情を変えぬまま、けれども声色を微かに変貌させて言う。
「ありがとう。君の言葉は僕にとってこの上ない名誉だ。だが、ヴェルグ。君への命令は変わらない」
その声には相手の言葉をかみ砕く勢いがあった。反論を許さぬだけの威が、その眦からうっすらと浮かんですらいた。
「僕は何処までいっても統制者でしかあり得ないのだよ。そうして、そうである以上僕には君らを正しく統括する義務がある。宝石が此処に来たとして、僕は死なない。だが君らは死ぬ。例え君らがそれを許しても、僕は決して許さない」
二度は言わない。君は君の使命を果たせと、ドリグマンはそう言った。ヴェルグは三度蹄を床に打ち付けたが。もう何も言わなかった。頭を垂れて、統制者の言葉に従った。
ただ無言の内に交わされる、主従の縁だけが其処にはあった。ドリグマンはグラスにもう一度唇を付けて、眼を細めていた。
そうして指輪の片割れが、王宮により近づいているのを感じた。