第三百九十三話『宝石は鳴り響く』
白髪の少女レウ。その姿を借りた忌まわしい魔人アガトスが、足音を立てながら部屋へと踏み入ってくる。その音一つ一つが、どうにも人間の立てるものとは違って聞こえた。
彼女の背後に見えるフィアラート、それにエルディスの苦味を滲ませた表情を見るに、アガトス自身の意志で此処に来たという事なのだろう。
これは、不味いな。耳の裏辺りを冷たいものが触れていく。心臓が一度強く鳴った。
流石に魔人の卵を連れ込んだなどという事は爺さん、それにガーライスト兵達には告げていない。少なくとも彼らには欠片ほども関わらせるような気はなかったからだ。
大体万が一告げでもしていたら、その場で彼女の首は落されていた。
出来うるなら暫く眠り続けてくれるか、レウに眼を覚まして欲しかったのだが。此処で彼女の正体が露見してしまえば、全ては最悪な方向に転がり落ちかねない。
どうすべきだ。防ぎとめる手立てもないまま、耳朶に絡みつく声が言った。
「どうしたのよ。子猫が向かい風に当たったような顔をして。散々に殺したいのでしょう。完膚なきまでに勝ちたいのでしょう。あの統制者様に」
多くの将兵。そうしてリチャードの爺さんの眼光を受けて尚怯まぬ少女の姿に、暫し周囲が鼻白んだ。この子は一体なんだ。無言の間が、多種多様な言葉より雄弁にその困惑を語っている。
先んじて、フィアラートが突き出した唇を小さく動かした。無理やり作り上げた言葉だろうに、妙に滑らかな声だった。
「協力者……と言えば体面は良いのだけれど。精々が情報提供者という所かしら。意味はあると思って、連れて来たのだけれど」
瞬間、黒い眼が此方に目配せをしたのに気づいた。その黒の中に僅かばかりの焦燥が見え隠れしている。
それだけで言わんとする事をおおよそ理解した。
冷静さをこそ良しとしているフィアラートがここまで気焦りしているのだ。よほど語りたくもない面倒な事が起きたに違いなかった。恐らくは連れて来たというのも出まかせだろう。
詰まりアガトスはどういうわけか、人間に肩入れしようとしている。彼女が統制者ドリグマンと対立しているのは理解をしていたが。それでも人間に力を貸す側に回るとは想像もしていなかった。
そもそも魔性魔人というものは、人間を交渉相手に選ぶような真似はしない。よりによってそれが奔放残虐たる宝石であれば尚更のはずだった。
心境の変化。それは実に人間らしい性質のもの。魔性に類するものらは、心変わりなんて事を通常行わない。あったとしても極々稀だろう。魔性は一面的な生物であり、人間は多面的生物であるがためと言われていただろうか。
その魔性の中でも純然たる存在と言える魔人が、またどうしてかつての頃から心境を変貌させたのか。掌が僅かに湿り気を帯びる。ただの気まぐれであるならば、それで良いのだが。
口を開き、何とかフィアラートの言葉を継ごうとした瞬間。爺さんが顎髭を指でなぞりながら言った。
嫌な予感が喉の辺りを這う。
「――似たのを昔みたな。混じってるのか、その嬢ちゃん。ルーギス、何連れて来やがった」
歩んできた年月を隠さぬ眼が、未だ強い意志を持って俺の眼球を貫く。
嫌だ。ああ嫌だ。この爺さん相手に何もかも隠し切れるなんて勿論思ってはいなかったのだが。もう少し遠慮というものを持って欲しい。
せめてこちらの努力くらいは見てくれてもいいのではないだろうか。そういった情けというものがまるで爺さんには足りやしないな。無論、とうの昔から知っていた事だが。
周囲一面から弓矢の如き視線を浴びたまま、肩を竦め言う。一歩アガトスへと近づいた。
「彼女は半分は人間だが、もう半分は魔性みたいなもんでね。よくよく魔人様の事を知ってるらしい。鍛冶は鍛冶屋に任せろというだろう。奴らの事を聞き出すなら、より奴らに近い存在から話を聞くべきじゃあないか」
可能な限り、何でもないことだろうという風を装ってそう言った。ここで妙な動揺でも見せでもすれば、余計疑われるに決まっている。
ならば出まかせだとしても堂々たる振る舞いで語るべきだ。せめて自分自身をも騙せるくらいに。そうでなくては人は騙せない。
爺さんは強固な目つきを揺らめかせ口を開いた。
「半分は魔性だぞ、ルーギス。てめぇ、分かって言ってるんだな?」
「半分は俺達と変わりない人間の子さ、爺さん」
唇を開きながら視線を合わせる。爺さんは皺を深め視線をアガトスに這わせながら顎髭を揺らした。
反発は分かっていた。魔性から話を聞き出すなんて事そう簡単に諸将、いや一般的な人間が首肯するわけもない。
困惑や疑いの色が時とともにより強まっていくのが分かる。変に浮足だたないのは助かったが、余り快いとは言えない表情だった。
それを見た白髪が揺れ、せせら笑うように言う。
「何よ人間って本当にノロマね。知性の欠片を背負っておきながらそれはないんじゃあないの。知恵を授けてあげると言っているのだから、有難く受け取っておけばいいのよ。それが気に喰わないというのなら、そうね。木に登って林檎でも齧っていればいいんじゃない」
人の神経を逆撫でする天才だなこの宝石というやつは。本当にやめてほしい。
かつての頃にはその言葉を聞く機会がそうなかったゆえ、傍若無人であり傲慢の権化という事くらいしかしらなかったが。こうもぺらぺらと好き放題舌を回す輩だとは思わなかった。俺の中にある物憂げな美しさを持った女という図が、静かに剥がれ落ちていった音がする。
「……お前さんの言葉からはどうも知性とか品性ってもんが感じられんのだがなぁ。いいさ、使えるものは何でも使う主義だ。耳には入れてやるよ。酒場の占い師の言葉くらいにはな」
爺さんが言うと、そう、それはとても良い事ね。とアガトスは満足そうに頷きながら言った。どうも彼女は、細かな言葉を気にせぬ人であるらしい。いいやそれとも、人間の言葉なぞ胸に響く事もないのだろうか。
ガーライストの将兵たちは未だ疑心を隠せぬ様子で視線を強めているが、それでも爺さんが一度応じると首を縦に振ったのだ。ならばそれをむざむざ踏みつけにするような連中ではあるまい。
一瞬、安堵に近い吐息を口の中で漏らす。傍らでは碧眼が、何か意図するように俺を見据えていた。
アガトスは僅かな間も置かず唇を波打たせる。
「いいわ。教えてあげる。あいつはね、何処まで行っても統制者様なのよ。魔人だの呼ばれる存在が、どうして別名を持ってるか分かる? 他の機能を切り落とす為によ。魔人っていうのはね。其れになる代わりに、世界から爪はじきにされる者の事をいうの」
だからあいつは、統制者という役割に常に縛られる。魔性共を率いてる時は至強の如くだけれど。何も率いていない時はどの魔人よりも惰弱。殺すなら其処でしょうね。
そんな言葉を、アガトスは事も無げに言った。それはきっと、かつての頃ですら誰も知りえていなかった事だろう。実感の籠った言葉には、妙な真実味とそうして重みがある。とても一人の少女から発せられたものとは思えないほどにだ。
それからも数度言葉を発して、アガトスは言葉を締めた。
「――まぁ、そんな様だから。最期はあの女に射ち落とされたんでしょう。本当に、愚かしい奴」
最後にぽつりと漏らした言葉には、哀愁というべきか感傷というべきか。魔人とは思えぬだけの情動が籠っていた。いいや俺にはそう思われただけで、本当は何もないのかもしれないが。
言葉が終わって暫くは、俺を含め誰も口を開こうとしなかった。耳から入れ込んだ言葉を、必死に飲み込もうと噛み砕いている気配がある。
ただエルディスだけは、長い耳を跳ねさせアガトスに敵意すら見せた様子で言う。
「統制者ドリグマンは君の仲間じゃあないのかい。どうしてそう易々と、彼の首に値札をつけられるのかな」
純粋な疑問が口から出たという風だった。他の者も感じていたのか、ふと視線がアガトスの全身へ注がれる。
アガトスは一瞬何を聞かれているのか分からないというような顔をしながら、答えた。
「同胞ではあるわよ、そりゃあね。でも敵だの味方だの、なんて考え方はセンスがないわ。人間やエルフ特有よねそういうの。私は私の目的の為に生きているし、あいつもそう。人間やエルフだって、同じ種族同士で争い合う事もあるでしょう」
嫌味でも嘲弄でもなく、本当によく分からないことを問われている、といった様子でアガトスは答え。そうして言葉を付け足した。
「それにあいつは、この子を――私を殺そうとしたのよ。殺意への応報は、同等の殺意しかありえないわ」