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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十四章『魔人編』
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第三百九十一話『最悪の相性』

 生きたいか、それとも死にたいか。


 フィアラート=ラ=ボルゴグラードは黒い眼をじっくりと固めて、正面の少女に向かって言う。物騒極まりない、とても日常で使うような言葉ではなかった。


 けれど彼女が不躾さを自覚しながらも敢えてそんな言葉を選び取ったのは、紛れもない親切心からと言って良い。


 何せレウの生い立ちから今に至るまでを、フィアラートは聞いたのだ。他でもない眠ったままの彼女の口から。


 フィアラートの思考誘導の魔術は、平時正気のものであってもその意識を擽ることが出来る。であればこそ、深く眠り込んでいる者の脳髄に入り込み、少しばかり言葉を引き出す事くらいは簡単な部類だった。


 とはいえ、何もかもを引きずりだすというわけにはいかなかったが。それでも十分役に立つ。


 知ったからこそ、ただ率直にフィアラートはレウに問うた。

 

「今なら、魔術で眠るように死なせてあげる事も出来るわ。それこそ金糸にくるまれるような思いで眠るだけ……貴方が魔人になったら、無理やり首を刎ねないといけないかもしれない」


 今この場において、言葉を濁すことは卑怯だとフィアラートは思った。伝えるべきことは、全て言わねばならない。


 それに実の所彼女は思った以上に利口だ。学があるというのではない。だが物事を理解するだけの能力は人並み以上にある。どうやら魔人、ないし異質な存在が己の中に住み着いている事も十分に把握しているようだ。ならば、己が伝えた意味も分かるだろう。


 どうする。そう問うと同時、心臓の辺りがひきつけを起こしたような痛みを起こしたのが分かった。フィアラートの胃中を固い錘が這いずり廻っている。


 恐らく、ルーギスがレウを連れ戻ってきたのは彼女を救いたかったのだろうと、そうフィアラートは思う。少女が魔人と同居している事を知り、限りない憤激と憐みを覚えたのだ。その事は手に取るように分かる。だからこそ、己に彼女を治療するよう頼んだのだろうから。


 けれども。無理だ。


 負傷していた右腕自体に問題はない。魔人特有の適応能力というべきか、魔術が驚くほどに浸透した。あれだけ魔への適応力を持つ人間はそういない。


 だが、その傷口からレウの魂、その一端に触れてフィアラートは誰より彼女の状態を理解した。宝石と呼ばれる魔人と、レウの魂。それはもうかけがえのないほどに絡み合っている。


 例えば真水に泥を混ぜ込んだならば、それを完全な真水に戻すことは可能だろうか。


 気を逸するほどの時と其れを成すだけの労力があれば可能なのかもしれない。だが、もうレウの魂はその隅々に至るまで魔人に侵されようとしている。


 もう、彼女に後戻り出来るだけの時間はない。


 ならばただ彼女を悪戯に生かし、そうして最後に苦しみすら与えるのは救いと言えるのだろうか。安らかに眠らせてあげる事も、一つの救いではないのか。


 フィアラートは自らの歯が軋むのを必死に抑える。私は最低な事をしようとしている。


 もしもレウがただの魔人であったなら、ただ彼の脅威でしかなかったなら。こんな想いは抱かなかった。


 ああ、神様というものがいるならば、どうして不幸なぞという物事を作ったのだろう。よもや誰も彼もを神に縋りつかせる為に、人を不幸にしているというわけでもあるまいに。


 この子は耐えがたい労苦を成した、自らを省みず人の為に生きようとした。その結果がよりにもよって此の最期、このような結末などと何の冗談だ。


 滲み出る苦味を表情に出さぬように、フィアラートはレウを見る。赤い眼がじぃと此方を見つめていた。


「……一つだけお伺いしてもよろしいですか」


 少女の問いに、フィアラートは頷いた。喉を嫌なものが這って行くのを感じていた。少女はただ一つ、あの人達は助かったのかと、そう問うた。


「捕らえられていた人達の事ね。ええ、全てがとは言わないわ。けれど、助かった人もいる」


 少なくともそれは、貴女のお陰でしょうね。フィアラートは忌憚なくそう告げる。明確な事実だった。あの時レウが助けに入らねば、捕らえられていた人間の大部分は踏み潰され食肉とされていたかもしれない。例え幾らかは助かったとしても、もっと死んでいただろう。


 レウはフィアラートの言葉を聞いて、初めてその顔に笑みを見せた。屈託ないとまでは言わないが、それでもようやく見せた子供らしい表情だった。つられて、フィアラートも僅かに口角をあげた。


 応じるようにレウが、言った。


「なら……もう構いません。その人達を助けられただけでも、私の苦しいだけの人生に意味はあったのでしょうから」


 瞬間。フィアラートの中に張り詰めていた糸、其れが明確に切れる音がした。


 レウにそう言われて、実の所己は彼女に死にたくないと、そう言ってもらえることを期待していたのだとフィアラートは知った。

 

 よもや死にたいなどと言うはずがないと。だから彼女を殺すわけにはいかないのだと自分に言い聞かせようとしていた。


 結果、胸中に渦巻いたのは果てしない自己嫌悪。このような子供に、自ら死の覚悟をさせ肯定させてしまった。醜い己の首を、フィアラートはこの場で締めあげたかった。


 そうだ、そうではないか。相手は魔人を抱えたといえど未だ幼い子供。不法な運命の矢雨を前にじっと耐え忍ぶ決意も、剣を取って嵐の如く押し寄せる苦難の波に立ち向かう意志もそうあるはずがない。


 其れが出来る者は尊いだろう。黄金の如く煌く事だろう。だがそれが出来ぬ者はどうすれば良い。ああ、己は以前にも同じ事を思ったのではないのか。


 レウと言う子はただ生きて来ただけなのだ。ただただ、懸命に。


 知らず、フィアラートは黒い眼を細めてレウへと脚を向ける。そうして一歩、一歩と近づいた。手を伸ばせばすぐにでも触れられるだけの距離。


 レウが軽く肩を跳ね上げさせたのが分かった。細い首筋が震えてすらいる。ああは言っておきながら、死への恐怖が見て取れた。


 けれども彼女は逃げようとはしなかった。ベッドから軽く身を起き上がらせて、眼を逸らそうともしない。


 フィアラートはゆったりとした様子でレウに指を近づける。そうして震えたままの肩を両手で抱き寄せた。視界の端で風景が揺れ動いたが、何も気にしなかった。


「……ごめんなさい、本当に。私は間違った事を言ったわ。幸せであるものですか。貴女みたいな子供一人幸福にできない甲斐性なしの神様が、死後の世界で面倒を見てくれるわけがないでしょう」


 声が震えているのが、フィアラートには自覚できていた。必死に荒縄で縛り上げていた感情というものが、もう抑えきれそうにないのがよく分かる。


 フィアラート=ラ=ボルゴグラードという人は理知を重んじながら、それでいて不合理の人だった。


 目の前にいるのは紛れもない魔人の卵。今にも罅割れ中から人類種の敵が轟きをあげるかもしれない。合理を考えるのであれば、レウという少女一人の命を引き換えに多くの人間が救われる選択肢を選ぶべきだ。


 けれどフィアラートには其れが成せない。相手が子供の姿をした魔人であるならいざ知らず、無辜の子供を無情の海に捧げるなど出来ぬ人だ。

 

「生きてさえ……生きてさえいれば、きっといつか、あんな日もあったって言える日がくるわ。死んで何が出来るものですか。だから――だから、その手を降ろしなさい。エルディス」


 未だ震え嗚咽すら漏らしそうな小さな肩を抱いたまま、フィアラートは突き刺す声で言う。黒い眼が寝室の風景を切り取っていた。


 同時、風景が揺れる。精霊術がその身を剥がし、崩れ落ちながら碧の姿を零れさせていった。エルフの女王たるエルディスは、何もないはずの場所より出でて言う。碧眼が小さく歪んでいた。


「フィアラート、君は過ちを犯しているよ。その同情の為に、どれだけ死ぬと思う。君たち人間のそういう感傷的な所は、本当に嫌になるよ」


「貴女は自分の子供にも同じことを言うのかしら。自分の子供が魔人の依り代になったなら、ああ、不幸だったわね、で済ますわけ。誰かを犠牲に出来るのは、何時だって犠牲になった事のない奴だけよエルディス」

 

 黒と碧。両者の噛み合いに、空間が途端に生気を失っていく。片や戦場魔術の鋳造者、片や大呪術の申し子。


 もはや英雄とそう呼ばれて遜色のない彼女ら。二片の視線が絡み合う度に、何かが嗚咽をあげている。


 魔力がフィアラートの指先を撫で、精霊の加護がエルディスの肌に注がれる。空気がその奔流に巻き込まれ悶えた。


 瞬間。


「――呆れるわ。人間もエルフも、物騒になったわね。蛮族と呼ばれた私の方がよほど平和主義者じゃあないの。私が眠っている間くらい、もう少し静かに配慮をするって事が出来ないわけ?」


 フィアラートでも、エルディスでも、そうしてレウでもない。そんな声が響いた。

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