表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十四章『魔人編』
391/664

第三百九十話『幸福はなく不幸もなく』

 幸福かそれとも不幸か。それらの判断は常に個人の思想に委ねられる事になり、普遍的な価値観があるとは言えない。


 他者にとっての幸福は己の不幸かもしれないし、己の不幸は他者の幸福かもしれない。


 ゆえに他人の人生を指さして、幸福であった、不幸であったとか評するのはその人を侮辱する行為だろう。他所から見た他人の生涯など、所詮は人生をつまみ食いしているに過ぎないからだ。


 レウという少女の此れまでの生涯は、他者から見れば不幸極まりない物語だったが、実の所レウ自身はそれほど不幸というものを感じてはいなかった。


 片田舎の農村、その中でも土地や財産を持つ権利すら持たない身分がレウの生まれた家。家具は殆どなく、床に寝転がるように眠るのが常だった。


 そのような環境なものだから、物心つく頃にはレウは下働きに出ていたのを覚えている。少なくとも、村の他の子供たちのように花畑で詩を歌い、遊びまわった記憶は彼女には無かった。


 朝早くから村人の馬の世話や暖炉の掃除をして回った。そうして日が暮れれば村から追い出されるように外れの家へと帰る。その繰り返しだった。


 生活はとても楽とは言えない。父は出稼ぎにいったまま帰ってこなかったし、母親は病気がちで僅かな稼ぎしか得る事ができなかった。


 無論、レウとてその生活が良いものであったなどとは思わない。しかし彼女にとって人生が苦しく辛いのは当然の事であったから、不幸と感じる事もなかった。


 母親は、そんなレウに繰り返すように教えを授けた。


「人の為に生きなさい。誰かの手を取って救いなさい。そうすれば何時か必ず父様が迎えに来てくれますからね」


 今から思うと、当時母はすでに気を逸していたのかもしれない。毎晩の如く吐き出されるその言葉は、レウへの言葉ではなく母が自分への慰めとして語っていたのだろう。


 レウにとっては苦しみは当然の事だったが、母はきっと違ったのだ。もしかすると母は元々このような低劣な身分の人間ではなかったのかもしれない。


 だが母の言葉は当時のレウにとっては唯一の教えだった。だから彼女はそれを大事に抱え込み、それを信仰した。


 例え自らの白髪と赤眼を奇異なものとして侮辱されようと、ただ働きに近い賃金しか与えられずとも。母の教えを信じ、何時か父が迎えに来るのだと当然のように考えていた。


 そうなれば、今より少しは生活が楽になるだろう。幸福と、そう言える日も来るかもしれない。


 レウが十一歳の頃、母は病状が悪化して死んだ。母は最期まで父を信じていたが、父はその姿を見せなかった。母の為に葬儀を開くような金銭はなかったから、その遺体はレウが一人で家の裏に埋めた。


 母が死んだ次の日からも、生活は何一つ変わらなかった。レウの母親が死んだ事を、気にするようなものは誰もいなかったから。


 レウはその晩に物心ついてから初めて涙を流したが、其れが何故流れているのかよく分からなかった。


 それからも暫くは同じ貧相な生活が続き、少し変化が出たのは死雪の時代に入ってからだ。レウの仕事は誰もやりたがらない汚く大変な仕事から、誰もやりたがらない危険な仕事に変わった。


 他所の村から商人を案内したり、村の外で何か作業を行う時は必ずレウが行わされるようになった。


 理由は単純なもので、レウが死んでも誰も困らないからだ。魔性が蔓延る死雪の最中、無暗に外に出る仕事など殆どが死と隣合わせに違いない。


「上手くいくならそれでいいし、あの気味の悪い子が死ぬのならそれでも良い」


 そんな言葉を、レウは幾度も耳に挟んだ。反論することも、反応する事すらもしなかった。けれど村の誰もが自分の髪の毛と眼を気味悪がり、馬鹿にしている事は彼女も知っていた。


 その最中でも、彼女は母の言葉をただ信仰する。それだけが、彼女が生きる意味だった。だから例え危険だと分かっていても、仕事を拒むような事はしない。賃金は、パン一つがようやく買えるほどだった。


 そういった日々を繰り返していたある日、当然のように其れは来た。


 村外に位置する水路を、かじかむ指先で修繕していた頃合いだった。これはどうにも、己の手には負えない代物だ。レウがそれを悟り一度村内に帰りつこうとしたその時。


 大きな影がレウを覆う。反射的に顔を上げると、鳥の化物が宙にいた。その猛禽特有の眼は、確実にレウを貫いている。両翼を大きく広げ、脚を蠢動させるのは彼ら特有の狩りの姿勢だ。


 一瞬でレウは悟った。アレは私を食べようとしている。己では決して逃げられない。だからレウは、気味悪がられていた赤眼をそっと閉じた。

 

 ――せめて最期は、眠るように死にたかった。それだけが彼女の唯一の願いだった。


 痛いだろうか。苦しむだろうか。どれくらいで死ねるだろうか。どうせなら一瞬で殺して欲しい。死の間際、永遠の一瞬を感じながらレウは祈った。


 何も良い事は無かったけれど、どうせ此の苦しみが続くなら。死んでしまった方がいい。


 そう思ったと同時。


 頬に、暖かいものが降りかかる。其れが何なのか、最初レウには分からなかった。後からそれが、全身を爆ぜさせた鳥の化け物の肉片だと知った。


「ずっと前から思ってたけど――馬っ鹿じゃないの、あんた。それがあんたの願望ってわけ。わけわかんない。咲き誇らなくて、輝かなくて何の為の生よ」


 其れが自分の声である事に気付くのに、レウは暫くの時間がかかった。


 しかしそれも当然の事で、死ぬと思っていたにも拘わらず目の前で化け物が突然爆散し、それでいて自分の中から見知らぬ言葉が込み上がってくれば動揺も致し方ないだろう。


 その浮かび上がってくる声は、レウの口を借りて当然のように言う。其処には傲慢ともとれる自信と、尊厳が満ち満ちていた。


「奇跡も運命も全て全て私のもの。輝きこそが私の原典。あんたが何でそんな馬鹿な事ばかり考えるのか知らないけど、宝石バゥ=アガトスが身体をもらい受ける以上、至上の我儘を約束しましょう。あんたとあんたの母親みたいに、誰かの為に生きるなんてくだらないわ」


 一瞬、レウは目の前に赤い髪の毛と、白い眼を持った誰かを見た。美麗な髪の毛の艶、自信ありげに輝く眼。端正で人を誘う顔つき。それでいて無邪気な悪意を湛えた人――彼女は自らを指して宝石とそう言ったっけか。


 その姿に、どうしたわけかレウは親しみすら覚えてしまって、口を開いた。反論など生まれて初めてするからだろう。拙い言葉だったが、けれど確かにレウは言った。


「――人の為に生きる事は、誰かを助ける事は、決して下らない事ではありません」


 其れは彼女の信仰で、もはや決して手放せないもの。弱々しいものではない、とても強い言葉が其処にあった。


 それが、きっと彼女らの始まりだった。



 ◇◆◇◆



 眼を開くと、天井が見えていた。ぼぉっとした視界を暫くふらつかせていたが、レウはようやく自分が柔らかな何かに包み込まれている事に気付く。それがベッドというものだと理解するのにも少々の時間がかかった。


 何せ人の家でベッドを見たことはあったが、それに包まれるのは此れが初めてだ。ベッドとは藁や床とは違い、こうも柔らかなものなのかとレウは驚愕すらした。


 何となく居心地が悪くなって起き上がろうとした瞬間、上半身がベッドに再び倒れ込む。右腕がどうにも重く、鉄のようですらあった。


「――起きたのね。どう、名前は言える? 出来るなら、物騒な名前は出さないでほしいけれど」


 枕元、というには少し遠く。扉の前辺りに置いた椅子に誰かが腰かけている。レウは赤い眼と小さな顔を何とか横向かせて、声へと視線を向けた。


 黒い眼に、同色の髪の毛。己を助けてくれた女性、確かフィアラートとそう言っただろうか。


 自らと同じく随分と珍しい毛色だったが、夜闇を連想させるその黒色は艶やかで美しいとレウは思った。数度瞬きをしてから、問いに答える。


「……レウ。ただの、レウです」


 レウは自分の声が歪んでいるのを感じていた。何せ言葉など母以外とろくに交わした覚えがない。常にその声色は怯えて、自信なさげなものだった。


 フィアラートはそんなレウの声を拾い上げて、満足したように頷いた。そうしてから、少しお話をしましょうと口を動かす。


 その声色は、恐らくレウが今まで聞いた事がないほど優し気な音だった。柔和で相手を包み込むような声。村の人間からは勿論、病気がちの母からもこんな声は聞いた事がなかった。


 けれどだからこそ、その内容の異質さが際立っていた。


 ――おおよそ貴方の事は分かったけれど。今、生きたい? それとも死にたい?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ