第三百八十九話『不幸を語らぬ者』
宝石。目の前で血を垂れ流し続ける人間が、ドリグマンの奴にそう呼ばれるのを確かに聞いていた。その名で呼ばれる存在を、俺はただの一人しか知らない。いいや正確には一体というべきか。
大魔ゼブレリリスに仕える魔人。バゥ=アガトス。
彼女が周囲に纏う宝石は彼女の身を護る盾であり、そうして巨砲だ。吐き出す熱線は飛竜の炎息が生易しく見えるほど。そんな物騒な代物を、かつての頃彼女は実に愛おしそうに撫でていた。
五つの諸都市を灰にし、そうして大都市一つ分の命を丸々宝石に変えた女。人類の悪夢そのもの。
それが、今眼前にいる彼女だというのだろうか。喉を小さく鳴らす。どうにも肌に実感と言う奴が湧かなかった。自然と眉間に皺が寄っていく。
レウと名乗ったはずの少女が明らかな異常を見せているのは分かる。膨大な血を狂ったように吐き出しながら、それでも尚堂々と口を動かせる人間などいるわけがない。彼女の蒼白な顔つきとふらついた足元に反する朗々とした口調は、嫌でも不自然さを醸し出す。
魔性の類と言われればそうなのかもしれない。けれど、だ。
――俺がかつての頃見た宝石と、今の彼女とではまるで姿かたちが違う。
俺が知る限りアガトスという魔人は、血の如き濃い紅の髪の毛に、今のような白い眼を掲げていたはず。それでいてより女性らしい姿かたちをしていたものだ。
少なくとも、レウのような子供の姿では無かったはず。それがどうして。
一つ、直感する所があった。だがそれ以外にも幾つかの可能性を頭の中に注ぎながら、瞼を僅かに閉じる。そうして言葉を選んで言った。
「……どうした、レウ。宿場で待っている様にいっただろうに」
話をかみ合わせず、むしろ困惑した様子を装って言った。俺は何も分かっていないと、何が起こり今がどういう状況か説明する必要があるのだと相手に理解させるために。
今は、一つでも情報が欲しかった。相手が真に何者で、何が起こり何をしでかしたのか。俺の直感は、当たっているのか。それとも大外れなのか。
もしかすると、魔人アガトスは変身を可能とする原典を有していたのかもしれない。もしかすると、これは仮の姿なのかもしれない。そんな僅かばかりの期待を抱いていた。
「…………ああ。知り合いだったわね、良く覚えてないけど。でももうこの身体は私のものなの。大丈夫あの子はその内いなくなるわ。こういう運命なのよ……理解して、諦めなさいな……」
聞いた瞬間。眦が痙攣し、自然と歯が鳴ったのが聞こえた。
――この身体は私のもの。
それがどういう意味か分からないほどには、俺も無知ではなかった。俺自身の直感が導いた推察が、そのまま回答であった事を理解していた。
どう感情を露わにすればいいのか。奴の言葉をどう消化すれば良いのかまるで見当がつかない。最低だ。最悪の籤を引かされた気分だった。
奴は、此の魔人はレウという少女の身体を奪い取ったとそう言ってのけたのだ。
そいつは言葉を漏らした後、足元をふらつかせたまま、下水道に座り込む。声は相変わらずの小生意気ぶりだったが、それでも身体の方はもう限界なのが分かった。青く白くなった顔が、吐息を荒くし。そうして瞼が重そうにふらついている。
其れを見てだろう。ルーギス、とカリアが肩元でそう囁いたのが聞こえた。ようやく元来の気力が舞い戻ったのか、その指先が僅かに俺の腕を掴んでいる。そうして同時、銀の眼が獰猛に魔人を捉えていた。
先ほどまでの儚げすら感じる雰囲気も嫌いではなかったのだが。やはり俺の知る彼女、カリアという英雄様はこうでなくては嘘だ。そうでなくては張り合いというものがない。
カリアに小さく頷き、座り込み壁にもたれかかった魔人へと足を向ける。カリアがいわんとする所は十分に理解していた。
詰まり、今ならば容易く奴を殺せると。そういう事だ。
下手をすれば要塞すら単騎で陥落させる化物。人間の天敵。それが今こうも弱弱しい姿を晒している。恐らくは完全な姿ではない状態で。
まさしく垂涎ものの好機が此処にあった。魔人の一体を此処で殺せたのであれば、此の敗走を補ってあまりある成果だろう。腰元で、宝剣がまるで意志もつように音を立てていた。
柄に手を掛けながら、一歩近づいた。魔人が鬱陶しそうに頭をあげて、此方を見た。
「……私、寝るから。直しておきなさい。いいわね。いいえそうでなくちゃいけないわ。私ね、美しいものが好きなの。宝石みたいに、きらきらしていたいの。その為には、自由でなくちゃならないのよ……。だから、直しておきなさい」
殆ど夢心地なのだろうか。焦点の合わぬ色の薄い瞳を見せて、魔人は突拍子もなく言う。
返事もせぬままに見つめていると、数秒も経たぬ内に彼女は重そうな瞼を閉じた。大量の血を吐き出しながら青白い顔で眠りにつくその姿は、もはや死人すら彷彿とさせる。
宝石、美しいもの。きっとそれが此の魔人の原典に関わるのだろう。原典とは、彼らの存在証明であり、そうして彼らがその根源から求めたものだから。其れが朽ち果てない限り彼らは肉体の死を迎えても、真の意味で死にはしない。
けれど肉体的な死が、意味がないというわけではない。此の地上から姿を消してくれるというのならそれで充分だ。
蒼白の寝顔を見つめながら、宝剣を抜き取る。薄暗い下水道の中、美麗な紫が線を引いた。光沢を浮かべるその様は、この場で宝剣だけが煌く資格を有しているかのようだった。
眼前の魔人は、瞼を上げるような様子はまるでない。警戒という行為を知らないかのようだった。
恐らくは今、宝剣を振り下ろすだけで事は済むだろう。
「――ルーギス。貴様は正しい事をしている。何一つとして間違ってはいない」
カリアは細い呼吸でそう囁いた。それが何を意味しているのか、今の俺には考えられなかった。
白髪の少女レウ。彼女は間違いなく不幸だ。今までどういう生き様を歩んだにしろ、その身体を魔人につかみ取られた時点で最高の不幸を呑み込むに近しい。どん底と言ったっていいだろう。
きっと彼女はこれからも不幸になる。例え生き残れたとしても、魔人に巣食われた身体では真面には生きられない。そうして更に数多くの不幸を生み出す事になる。
――ならば、此処でその元を断ってやった方が。
そんな思いが浮かんだ、瞬間。
一瞬だけ、かつての頃が瞼に浮かんだ。最低で最悪だったあの頃。尊厳もなく、意志もなく。ただ生きる事すら出来なかった日々。その時の事が妙に生々しく瞼に残った。
頬に、歪んだ笑みを浮かばせる。自嘲のそれだ。偉くなったものだと、そう思った。
人様の幸不幸を勝手に決めつけて、そうして事もあろうか自分の都合の良い方に解釈して、物を動かそうなどと。
――貴方は必要な犠牲で、他の人の為になるから。不幸だとは思うけれど何もかも諦めてください。
結局の所俺はあれやこれやと理屈をつけながら、そう言いたかったわけだ。自己嫌悪で自分の首を締めたくなってくる。
そういう事を言う奴らは、何時だって自分を犠牲にしようとはしない。人に不幸を押し付けて、綺麗ごとで丸め込もうとしてくる。仕方がない事、全体の為になるというそれらしい理由を付けるのが奴らの得意技だ。
自分で危ない橋を渡りたくない奴らが、人に危ない橋を渡らせる為の常套句。ああ、俺は其れが大嫌いだったのではないのか。
嫌悪心から歯を軋ませ、そのまま一度膝をつく。そうして魔人――いやレウの腹を抱える形にして、片手で抱き上げた。眦が僅かに熱を覚えていた。
「悪いな、カリア。俺はどうにも正しいって事が肌に合わないらしい。繊細な育ちなんでね」
俺がレウを抱き上げた事に対し、何も言わぬカリアへ向かって背中越しに言う。きっとまぁ、手厳しい言葉を頂戴するのだと、そう思っていた。
背中に掴まったまま、ため息をついてカリアは言う。
「私と貴様の旅路の中で、全て正しく進んだ事など今まであるか? むしろ正しいと思った事が間違いで、間違いだと思った事が正しくあった事もある」
なら後は何を信じるかだろうと、カリアは微笑混じりに言った。銀の頭髪が、機嫌良さそうに揺れている。今日は妙に気分がよろしいらしい。何時もこうであってくれたら俺も万々歳なのだが。
カリアは俺の背にもたれかかって、言った。言葉が背中を這ってくる気がしていた。
「正しかろうと、そうでなかろうと。私は貴様を信じる。それで良いではないか」
「――責任重大だ。もう少しばかり疑ってくれてもいいんだがね」
馬鹿め、という言葉が背中越しに投げかけられた。