第三百八十八話『敗走されど銀猫は猛る』
ガーライスト王国王都。もしくは魔性君臨都市アルシェ。
争乱が巻き起こるその地において、魔人と対面したカリア=バードニックが命を拾ったのはまさしく幸運の賜物だった。
魔人の迎撃が咄嗟の反応に過ぎなかった事。そうして今や色濃くその身に滾る巨人の血が、彼女の命を繋ぎとめた。
そうでなければ、四肢から溢れるほどの血を流して尚生きていられるはずがない。もし彼女がただの人間であれば、樹木に腕脚を貫かれた瞬間すぐさま意識は失われ、身体はそのまま絶命していた事だろう。
だから彼女の生存は間違いなくその幸運と、肉体の頑強さに支えられたと言って良い。それは紛れもなく喜ぶべき事だろう。通常であればそうだ、生き延びて喜ばぬ者などまずいない。
けれども、不幸な事に彼女にとってはそうではなかった。
――いっそ永遠の眠りにでもついてしまいたい。そうであればどれだけ良かったか。
下水道の中、一際大きな轟音が地表から鳴り響いた。それを何処か遠くに聞きながら、カリアは何時になく憔悴して銀髪を垂れおろし、力なく四肢を放り投げていた。いいや、力が入らぬという方が正しいかもしれない。
それは当然の事で、一度千切れかけた腕や脚は巨人の血をもってしても急速に回復などしない。むしろ痺れた感覚が残っているだけでも驚愕の事だった。
だがその僅かに残った感覚がまた、カリアの強くも脆い精神を散々に打ちのめす。
私は敗北を喫した、あろうことか己の役目すら果たせずに、想い人の前で醜態を晒した。
それを思う度、カリアの胸には胃液に近い苦々しいものがこみあげてくる。けれど思わずにはいられなかった。自己嫌悪というものは、いかに抗おうとも自らの内側からあれよあれよと浸食してくるものなのだ。
ああ、酷い惨さだ。消えてなくなってしまいたい。そうすれば数々の懊悩も燃え落ちそうな屈辱も一切が吹き飛んでくれるだろうに。そんな自棄すら覚えながらカリアは、目の前で揺れる背中をただ見ていた。
「何だよ、黙り込んで。悪い夢でも見たのか、うなされてたみたいだがよ」
ルーギスの声が、すぐ傍から聞き取れる。体重を預ける背中が、その声にあわせて動くのを感じていた。
指先すら動かせぬカリアは、ただルーギスの背に抱かれ下水道の中を連れられていた。意識が戻った時からこうだったのだから、恐らくは下水道へと逃がしてくれたのも彼なのだろう。となると己は一人で危機すら脱せなかったわけで。余計にその惨めさは増していく。
四肢がゆらゆらと揺られながら、宙を薙いでいた。ルーギスの身もとても無事とは言えないだろうに、己だけがこうして抱えられている。涙すら零れそうになりながら、カリアは目の前の背中へと頬をすりつけた。
死んでしまいたい。余りの屈辱と、己の役割すら十分に果たせなかった情けなさに何度も胸中でそう呟く。
けれど眼前の背中を見ると、どうしても執着が残った。銀の眼を伏せながら、カリアは呟くように言う。
「……すまない。私は……失敗した。なんとでも、言ってくれ……」
ルーギスに向けたものか、それとも己への自責なのかはまるで分からなかった。ただカリアにとっては、それしきの言葉を絞り出すのに魔人と対面するよりも気力を有したのは確かだった。
此処でため息混じりに、仕方がないとでも言われたら、どうしようか。そんな落胆と軽蔑を含んだ言葉をかけられたなら。己はどうすればいいだろう。カリアは反射的にそう自問する。
今の己では縋りつくことすら出来ない。ただ、地面に伏して惨めに涙を零すことしか出来ないのに。
ルーギスは、ため息をついて言った。カリアの細い肩が震え、顔が血の気を失っていた。
「馬鹿げた事はやめてくれよカリア。お前は何時だって完璧だ。魔人だろうが大魔だろうが、お前が奴らの前でしくじる様なんざ見たことない」
カリアの頬が、震える。ルーギスの言葉に対し、カリアは目の前の背中に顔を埋めたまま何も言わなかった。ただただ、胸の裡にある情動を噛みしめていた。
その銀髪が、彼女の胸中を表現するように揺れているのが見えている。
此の情動をどのように言い表すべきかカリアは言葉を持たなかったが、喜ぶに類するものである事には違いがない。不思議と、蜂蜜酒の味を舌の上に思い出していた。
「しくじったのはむしろ俺だな。あの野郎にまんまと上を行かれた。魔人が無茶苦茶なのは知ってたがよ、もう少し加減ってものを知ってもらいたいね」
そう言葉を並べながら、語気を強めるルーギスを見てカリアは銀眼を軽く緩める。彼の言葉に返事をしつつも、胸中では全く別の事を考えていた。場違いだとは分かっているのだが。
此処にはルーギスとカリア以外の誰もいない。途中で他者が会話に割り入ってくる事も当然ない。こういった状況は、最近では随分珍しい事となってしまった。
近頃は彼の周囲には常に誰かがいた。それはフィアラートやエルディスであったり、もしくはマティアや他の者でもあった。
逃走路にいながらおかしな事だが、今のように落ち着いて話せる時間など本当に珍しい事だ。カリアは愛おしさすら込めて口を開く。
「それで、その加減を知らぬ化物とどうやって戦う。どうすれば殺せる――殺せるのだろう?」
決まりきった答えを問うように、カリアは聞いた。自然と微笑が頬に浮かんでいた。カリアの頭中には、未だ二人で旅をしていた頃。今思えばとてもとても幸せであった頃が、思い出されていた。
ルーギスは一瞬肩を傾けさせてから、言う。
「――そりゃあな。殺せない存在なんていやするかよ。英雄も魔人も大魔も、神様だって死ぬ時ぁ死ぬんだ。必ず殺すさ」
敗走を喫しているというのに、全身がぼろぼろであろうに、生き生きとした声でルーギスは語る。何処か実感すら籠ったその声に、カリアは不思議なものを感じながらも頷いた。
それが例え根拠の無い言葉であったとしても。彼が言うのであれば其れはカリアにとって信ずるに足る。余りある執着をその背中に擦りつけながら、銀眼を開くと同時にカリアは声を出した。
「そうだな。では、貴様の言葉の通り殺すか。殺して見せよう」
銀の視線が、ルーギスの肩から覗いて下水道の奥を貫いていた。彼もまた其れを見ている。
カリアの四肢は未だ痺れ十分には動かない。黒緋を、原典を用いれるかも曖昧だ。
だけれども、彼が言うのだ、殺せると。
ならばそれは真実にせねばならない。熱い吐息を吐き出し、全身に巨大たる者の血液を巡らせてカリアは銀眼を煌かせる。そうしてその指先が上がろうとした瞬間、視線の先から声が届いた。
「……殺すだの殺さないだの。最近の人間って、すぐ物騒な言葉を使うのね。そういうのって、野蛮っていうのよ。知らなかった? それとも知ってて使ってるのかしら。それならドリグマンの奴みたいで余計に辟易だけれど」
ああ、最低な奴の名前出しちゃったわ、と彼女は言った。
白い髪の毛に、当初とは違う色彩の薄い眼。そこにいたのは、レウと名乗ったはずのその少女。彼女はその右腕から悍ましいほどの血液を垂れ流しながら、尚声を尖らせて言った。
その顔色は青白く、息は荒々しい。明確な疲労が見て取れた。けれども声は溌剌としたまま、身体の異常を感じ取っていないかのよう。足元がふらついているのが見えている。
「あんた達は……人間、人間よねぇ。なら人間の直し方くらい知ってるわよね。なら此れ、直しなさい。私はあの軍属妖精様をすり潰しにいかなきゃならないのよ」
――統制者ドリグマンと同種。魔人。宝石バゥ=アガトスは物を直せと命じるように、そう言った。