第三百八十二話『死の一瞬』
――銀のナイフが、音すら貫いて中空を裂いていた。
勢いよく投げ飛ばされた其れ。銀ナイフは明確に魔人ドリグマンの頭蓋を貫くべく空を裂く。一、いや二本。一本の影に隠すようにして放たれた二本目は、首筋に狙いをつけていた。
ドリグマンの眼が大きく動く。
上手い小細工をするものだ。ドリグマンは素直に嘆息した。こういった芸当が出来るものは魔性には少ない。武具を扱う者が少ないというのもあるが、例え扱えるものでもこう上手くは出来ぬだろう。
何せ、必要がないからだ。このような稚拙な細工は、持たざる者しか使わない。
肌に噛みつく間際まで近づいた二本のナイフを、ドリグマンは指先で掴みとる。そうして、思い切り握り込んだ。
途端鉄が砕ける音が鳴り響き、破片が床板に叩きつけられる。その行いはまるで玩具を扱うようですらあった。捕らえられた人間達が、息を呑み悲鳴をあげる。魔人には傷の一つも残っていない。
当然の事だ。ただの人間が作る鉄の武具では魔人に傷をつける事など出来はしない。魔人とは、大魔とはそういう種。人間では抗えぬ者らをそう呼ぶのだ。かつて古代の時代にも、鉄一つに傷を付けられた覚えなどドリグマンにはない。
「統制者殿ッ!」
馬の下半身を嘶かせ、ヴェルグが吠える。蹄が強く床を叩く音がなり、木板が軋む。元より厳めしい彼の面構えが、余計に威を増していた。動揺、そうして焦燥が声に色を付けている。彼は全く感情的な魔性だった。
しかしそれも仕方があるまい。この有様では。
黒。そうとしか言えぬ霧が周囲一体から噴き出し、ドリグマンやヴェルグの視界を覆っていく。周囲の魔性共が叫びに近しい声をあげたのが聞こえた。まるで首でも締め上げられたかのような声。
――奇襲。敵の規模は。呪術。同族。宝石ではない何か。
幾つかの単語がドリグマンの思考を過ぎったが、すぐに拭い去る。今必要なのは、今己に求められているのはそうではない。
統制者としてすべきことはただ一つ。
「総員――」
ドリグマンの大地を舐めるような低い声色が響き、周囲を覆う。混乱した魔性共の正気が、僅かなりとも取り戻された。掌が開かれ、二か所を狙い打つ。
ナイフが投げ打たれた窓際、それに白髪の少女。
この狙いすましたような手際。まず間違いなく白の少女は外の人間と手を結んでいる。そうして陽動の為の動きだというのなら先ほどの無謀なふるまいも頷けた。実に納得がいく。
人を助ける為に命を放り投げるという存在など、いるわけがない。
だが、となれば宝石の権能は今人間の手の内にあるという事になる。それは余りにも宜しくない。ならばもう、打つべき手を打つしかあるまい。
そうしてただ全てが手元にあるが如く、ドリグマンは掌で眼前の空間を薙ぎ払い握りつぶした。端からみればただ空を薙いだような其れ。
「――我に続け。断然殺せ」
その二言だけを、言う。
同時、絶叫が重なり合うような轟音。兵舎の窓、煉瓦、外壁に至るまでの悉くが弾け自壊する。ドリグマンが薙ぎ握りつぶした先の空間、その何もかもが注がれた力に耐えかねるが如く破砕していく。
それこそ呪術黒霧さえも、相反する存在を忌避し霧散した。まるで性質の悪い夢でも見ている様なその光景。だが事実として、その崩壊は此処にあった。
ドリグマンの視界が、僅かに晴れる。人間を殺した感触は手中になかった。ならばまだいるに違いあるまい。
否、いた。
紫電色の軌跡がドリグマンの大きな眼に映る。悪い事に其処はもう間合いだった。互いに刃を伸ばせば心臓を貫け、手を伸ばせば首がへし折れる地平。
全ては織り込み済みというわけだ。人間らしい手だと、そう思う。見開かれた人間の眼が見えた。
紛れもない殺意。殺すという意志。強固な自我。それらが一つなって眼の中を波打っている。ドリグマンはかつて一度此れを見たことがある。そうして、この雰囲気を感じた事があった。
反射的に、ドリグマンは腕を構えた。人間に刃を向けられる事に対して、沸き上がる屈辱でも燃え盛る憤激でもなく、ただ違う事が浮かんでいた。
――そうかアルティア、君か。
酷く懐かしい。そうして忌まわしい名を、胸の裡で呟いた。
◇◆◇◆
一瞬。永遠を凝縮した時間がそこにあった。それ一つで全てが決まる瞬きの間。黒い霧が魔性共を捻じ伏せていられるのは僅かな時間のみ。
宝剣が唸りをあげ、魔人の首を食らわんと紫電を煌かす。剣先が荒々しい半円を描き、空を断絶した。速く、ただ速く。俺に出来るのはただそれだけだ。
同時、魔人の掌が眼前に見えていた。その白目が大きい眼が冷たく凍るように此方を見据えている。
それだけで、死の気配が全身を覆いつくしていく。汗とも涙とも言えぬものが毛穴を這い出た。何せかつての頃は、此の視線を直接受けた事などない。
死地。否、明確な死が今俺の眼前にある。濃密な血と断絶の気配。
直感した。人間は死を特別な事のように語るが、こいつは違うのだ。こいつの目の前には当然に死が横たわり、こいつもそれを受け入れている。それこそが自然だと。
避けなければ、至極当然に死ぬ。その直感があった。
眼前に迫る掌に、反射的に身体を捩らせた。左脚を引いて半回転し、宝剣の狙いを奴の首から腕へと変え振りぬく。その為の軌道はもう見えていた。呼吸は死んだかのように止まったままだ。
一閃が宙を薙ぐ。足首を駆動させ腰へ、腰から肩と腕に力を走らせた全霊の一撃。それは間違いなく魔人の左腕を捉えていた。
――血流が吹き出、奴の左腕が千切れ飛ぶ。ナイフでは傷も見せなかった魔人の皮膚が、今宝剣にその身を許していた。
その態勢のまま、床を突いた切っ先を返し、奴の左脇腹から右肩にいたる一線を視界に描く。腰が痛むほどに回転しながら、背骨を鳴らした。そうして、天を目がけて宝剣を振りぬく。
再び肉を、骨を抉り砕いた感触。それが手中に広がり続ける。紫電の輝きを血の赤が汚し、魔人の半身がぐにゃりと拉げた。
息を吐きも吸いもせぬまま、再びもはや肉塊とも思えるそれに向け、宝剣を振り上げた。
同時、その肉塊が言う。
「――そうか。その剣に至宝、アルティアの眷属か君は。懐かしいものだよ」
拉げた唇から吐かれるそれは、平時と何ら変わらぬ落ち着きをもって放たれた。肉塊が黒く黒く染まり、そうして。
何かが、眼前に迫る。
次の瞬間、天と地が反転した。俺の身体そのものが、大地に引き付けられる力を喪失したかのようにきりもみし何処かに叩きつけられる。
骨と肉が砕かれぐちゃりと混合するような音が鳴った。
「返してもらおう。我が至宝、それが幸福というものだよ、僕にとっても、君にとってもな」
千切れた腕が肉塊に合流し、そうして再び魔人の姿を成していく。血が肉が、奴を中心に新たな形を作り上げていった。
化け物め。そんな言葉が口を漏れそうになる。デタラメにも程がある。心底から恨み言が出そうだった。どんな魔性とて、身体を引き裂かれれば死ぬのが常道だろうに。
しかし、この結末自体は半ば予想していたことだ。奴は大地に在る限り、決して敗北をしない。大地は奴を祝福し、全ての恩恵は奴の手中にある。
ああ、だからこそ――奴はかつての頃二度も、空で殺された。
天井を、黒緋の色が薙ぎ砕く。轟音がなり響き、屋根そのものが吹き飛ぶかと思わるような剛撃。
空から落ちながらそいつは、巨人すら思わせる威をもって長剣を振りかざす。僅かな声が、聞こえた。
――狂い悶えろ。
銀髪が跳ね動き、魔人が手の平を掲げていた。