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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十四章『魔人編』
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第三百七十七話『もはや誰も戻れないその道』

 王都アルシェより吐き出される下水路を辿りながら、鼻孔周りを布で覆う。そうでもしないと汚水の悪臭に鼻がおかしくなりそうだった。


 しかし布の上からでも尚、饐える様な臭いが鼻を突いている。最低極まりない臭いだが、反面俺にとってはなんとも懐かしい嗅ぎなれた臭いでもあった。


 かつての頃は幾度も溝浚い、そうして下水道不備の後始末にも駆り出されたものだ。何せそういった人がしたがらない仕事しか、俺には回ってこなかった。ああ、嫌な思い出ばかりが浮かんでくる。


 本来なら到底使いたい道のりではないが、魔人共に感づかれずに王都の膝元に接見するにはこれくらいしか手がない。最低の手段だが、致し方ない。吐息を深く漏らした。


 そうして暗い下水路の中、先頭を歩きながら口を開く。


「……ガーライストも、ガザリアも。本当に良いのかよ。今ならまだ十分引き返せるぜ」


 知らず背後へ向かって声をかける。どうにも、似たような言葉をすぐ最近聖女様より頂いた気はしていたが、それでも言わざるを得まい。


 背後を振り向くと、薄い黒の中に数名の人間が見える。王都侵入に際し各勢力から選出された彼ら。


 カリアにフィアラートは当然のような顔をして同行を決定していたし、他勢力の兵士らもその胸に決意の心を固めているのであれば俺が口を出すような事ではない。


 なのだが。それでも、彼らに関してだけは別だろう。


 リチャードの爺さんに、エルディス。少なくとも現状、二人はガーライスト軍団とガザリアの頂上にいる存在だ。決してこのような命を何時落とすか分からぬ旅程に組み込まれるべきではないだろう。彼らの周囲を固める兵士も、多少は胸にその思いを抱いているはずだった。


 思わず、二人を視線で追う。リチャードの爺さんは最後尾辺りで肩を竦めながら答えた。老獪さがにじみ出たような表情が、暗闇の中に浮かび上がっている。


「てめぇ知ってるだろう。俺ぁ無駄な事は嫌いなんだよ。それに、人の足元を見守ってるような場合じゃあねぇだろうが」


 他の誰もが多少の緊張を抱えているであろうに、まるで何時もと変わらぬ様子で爺さんは言う。そのふてぶてしさというか、胃に鉄でも張り付けているかと思う様子は是非見習いたい。


 曰く、魔性に踏みつけられた王都の中にも、未だ僅かにガーライスト兵の勢力は居残っているらしい。かつてのように肩で風を切るようなことはできず、魔獣共の目から隠れその息遣いを殺しているのではあろうが。


 俺たちが魔人の寝首を掻こうというなら、彼らの手を借りた方が良い。何せこちらは内部の情報全てが手さぐりなのだから。何処に魔性の連中が陣取っているのかすら分かったものじゃあない。


 そういった内部に留まった兵らと、そうして外部のガーライスト兵とを呼応させるのであれば。当然に指揮官が必要となる。それはよく理解しているのだが。爺さんが直々にする必要はあるのだろうか。


 それほどに事態が差し迫っているという意味か。それとも別の意図を含んでいるのかは分からないが、爺さんの事だから後者なのかもしれなかった。


 そうしてもう一つの問題が、ガザリアの女王たるエルディスだ。


 此方も少数ガザリアの兵士が付き添ってはいるが、それでもやはり正気じゃあない。何せリチャードの爺さんは未だ団の長という事で話は済むが、エルディスは国家の長だ。


 もしも彼女が此処で永遠にその命を失った場合、その先に何が起こり何が始まるかなんてのは考えたくもない。


 一瞬言葉を溜めながら、そう口を開こうとした。けれどそれより僅かに早く、耳奥を擽る声が響く。


 間違うはずもない、エルディスの声。少しばかり離れているはずなのだが、耳元で囁くようにその声は聞こえた。精霊術でも使っているのだろうか。


「何を言ってるんだい。立派な女王になれというのは君の言葉通りじゃあないか。僕は女王として必要な行動をとっているつもりだよ。それに――僕の同行は君にとっても必要な事さ」


 答えになっているのか、なっていないのか曖昧な言葉だ。煙に巻こうという風ではないが、一番大事な事をぼかしているようなそんな気がする。それに俺にとっても必要とは、どういう事だ。


 エルディスは、そんな疑問一つ口に出すことは許さないとばかりに、言葉を続けた。


「勿論、君がここで僕に犬のように待っていろというのなら、僕はそうしよう。大人しく指示されたままにしようじゃあないか」


 どうする、とエルディスはそう告げた。その言葉に思わず睫毛を瞬かせる。


 砦を這い出る時は置いていくなど許さないとばかりにエルディスは振る舞っていたのだが、此処にきてやけに従順な言葉だ。彼女にしては珍しいほど。


 嫌な、予感がする。悪寒そのものがうなじにあった。


 最近感づき始めたのだが。エルディスが従順そうに言葉を捻り始めるのは大抵他の思惑を一つ二つ抱えている。カリアやフィアラートも同様だ。


 どうしたものか。唇の端を歪めながら言葉を探す。思考を回し、脳髄を僅かに揺らめかせた。エルディスの思惑は別としても、一先ず帰らせるべきか、そうでないかを今一度思案する。


 敵は魔人。ありとあらゆる英雄と勇者を殺す者ら。不安はまるで尽きない、それは例え万の軍がいたとしても同様だ。


 正直なところ、出来うるならエルディスの力を借りたい。それが生死の境を分け、その為に明日の朝日を拝める事になるかもしれない。


 それほどに事態は逼迫している。しているの、だが。やはり、駄目だ。


 もはや彼女はかつての頃のようにただの個人ではない。自由きままに動ける身分ではないのだ。彼女の背にはガザリア全エルフの命が乗っている。


 その彼女を、此の様な場で危険に晒す事はあり得ない。例えエルディス自身が肯定をしていても。


 ――ああ、悪いが帰ってくれ。土産は一番良いワインを用意するさ。


 そう言葉を口の中で練り唇から漏れ出させようとした、瞬間。眼を見開く。


 唐突に肺が重くなり、身体の芯を冷たい何かが這った。喉が痙攣し、暗闇の中でこそ目立ちはしないが発熱でもしたかのような汗が首元を流れていく。


 痛い、とは違う。異様なまでの倦怠感と呼べば良いのだろうか。魂の奥底が指先を絡め取り、脳髄を縛り上げるようなそんな感覚。呼吸が、どうしようもなく重い。


「……お前、何かろくでもない事をしただろ、エルディス」


 周囲の人間に気付かれぬ程度の小声。歯をわずかにだけ浮き上がらせる挙動で言う。


 恐らくもはや声にすらなっていない。空気を振動させるだけの吐息でしかなかっただろう。其れだけの事をするのにも、妙な疲労感があった。


 エルディスは俺の言葉を掬い取って、言葉に笑みを乗せる。俺が何を言うかなど、分かっていたというようだった。


「酷い事を言うじゃないかルーギス、全く嫌になるね。僕はただ精霊具装に纏わせている加護を少し弱めただけ。今まで君らに纏わりつく魔性を払っていてあげていたけれど、其れをなくしただけさ」


 なるほど、エルディスが言いたいことは分かった。


 確かに大なり小なり魔性の気配、奴らが発する瘴気というものは人の身体を浸食する。魔力が身体に入り込めばそのまま病となる冒険者病なんかが良い例だろう。


 特に、魔人様なんてのが間近に近づけばその分体力は早急に失われ、魂は軋みをあげる。其れはかつても経験した事であったし、当然に受け入れる覚悟はしていたのだが。

 

 ――かつての頃はこれほどまでに、異様な倦怠など生んだであろうか。まるで魂が縛り上げられるような感覚など、俺はかつて味わっていただろうか。


 それとも、以前の旅路でもエルディスが俺が理解もせぬ間に魔性を払ってくれていたとそういうわけか。僅かに、眼を歪める。前へと進める足がもはや上がりづらくなってきていた。余計な事を考えている暇はなさそうだ。


 首を跳ねさせるように、頷く。


「分かった。分かったよ。ついてきてください女王陛下。そうしないと動けやしなさそうだ。呼吸すらままならなくてね」


 そう告げた途端、身体の節々から鈍さや倦怠が抜け落ちていく。むしろそれ以前よりも調子が良いほどだった。エルディスの満足したような声が、耳に響いていた。


 最初からこのつもりか。こうなれば、もうどうしようもあるまい。魔人の膝元で剣を振るうのにエルディスの、精霊の加護が必要であるのなら選択肢など最初からあってないようなものだ。


 そこに至ってふと、思う。


 では何故、エルディスは俺に選ばせるような真似をしたのだろう。それならば最初からそう告げれば良いものを。魔人との相対に必要であるのなら、多くの者が苦肉の策としてもエルディスの同行は飲み込んだはずだ。


 先ほど同様に少しばかり嫌な予感のようなものが、思考の裏あたりに張り付いていた。けれどどうしても其れが、言葉にならない。


 数度曲がり角を経由し、もはや時間の感覚が薄れそうになった頃合いで、ようやく下水路の出口が視線の先に見えた。複数ある出入口の中でも、裏街に通じ最も目立ちにくい箇所のものだ。


 据えられた石蓋を慎重にずらす。その先に何者もいないかを確認しながら頭を出した。その瞬間に頭蓋が割られる想像が頭を過ったが、幸いにして何もない。


 身体を這い出させ、物音に注意しながら周囲を見渡した。街並みは、それほど大きくは変わっていない。何とも懐かしい、我が故郷の王都裏街。崩れかけた石壁も、汚れきった街道もそのままだ。


 ああ、けれど。一つだけ明確に違うものがあった。それは、匂い。


 下水路の悪臭すら飲み込んでしまいそうな、濃密な血液の匂い。それが何一つの遠慮をせず、都市全体に行きかっていた。


 覚えがある。かつての頃は王都ではなかったが、このような血匂を好んだ魔人は俺が知る限り一体だけ。


 ――統制者ドリグマン。


 その名が、瞼の裏に浮かんでいた。

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