第三百六十九話『帰還』
紋章教北進。
其れは大魔ゼブレリリスの出現後、最初の他勢力に向けた大規模な軍事的行動であったと記録される。紋章教兵七千、ガザリアのエルフ兵六百程。他傭兵等を含め総計で八千強の兵。
両勢力は同盟軍となりガーライスト王国東部国境、オーガス大河を越える。
時節は死雪。紋章教の聖女マティア、空中庭園ガザリアの女王フィン=エルディス。二人の盟主を旗頭とする同盟軍の行軍は、酷く劣悪なものであったと想像される。
死雪は地面に溶け落ち泥となり、泥は靴を殊更に重くする。肌を突き刺す寒さだけでも、兵にとっては重大事だ。寒気に身を任せればただそれだけで容易に死を迎えかねない。
それにくわえ、死雪は大地を魔性の領土に変える。普段より気性を荒くし自由気ままに手足を伸ばす彼らを前に、人が出来ることはそう多くない。
逃げるか、それとも死骸となるか。
ゆえに多くの国家、そうして貴族領主たちは死雪に派兵などは行わないのが常だった。兵の消耗が激しく、そうして事実上何処かの拠点を攻め落とすなどというのは不可能に近しいから。どういう形であれ守勢に分がありすぎる。
だからこそだろう。この時少数の兵でありながら北進を決断したとされる聖女マティア、そうして女王フィン=エルディスの思惑は多くの想像を呼びこませる。
複数の説が立ち上がっては失せ消える。そのような事が幾度も続いた。そうして未だ、纏まり切った定説は存在しない。
何が切っ掛けであり、何が彼女らの背を押したのか。何処までも不明なまま。
紋章教北進。その目的地は、ガーライスト王国王都アルシェ。
◇◆◇◆
中空に広がる大きな旗を見上げる。ガーライスト王国由縁である事を示す枠組みに、三本の槍。生地が仄かな真新しい匂いを振りまいている所を見るに、殆ど使われた事はなかったのだろう。
紋章教やガザリアの旗と混じっている姿が妙に合うのは色合いのお陰か。
すぐ傍らで馬を揺らしながら、呆れたようにカリアが言う。銀の眼が訝し気に俺を見つめていた。
「よもやバシャール家の旗を掲げる事になるとは、生涯は分からぬものだな。紋章教もよく受け入れたものだ」
いわば敵の旗だろうにと、カリアは言葉を継ぐ。
その何とも言い難い渋い表情を見るに、掲げる旗と言うのはガーライスト貴族にとっては大きな意味を持つのだろう。
少なくとも、他家の旗の下で剣を振るうというのは、酷く心地が悪いことであるらしかった。
正直な所、そういった情緒は俺にはよく分からない。旗はただの旗でしかないし、其処に意味が込められているのは理解するが、どうにも実感としては湧いてこない。
此れは貴族として教育を受けた者と、ただ貧民として生まれ落ちた者の差なのだろう。大して羨ましいとは思えない差だが。
口内で言葉を転がし、頬を緩ませながら言葉を返す。
「パロマの爺さんが快く受け渡してくれてな。折角だから使わせてもらおうじゃあないか」
快く、等と言うと少々語弊があるかもしれないが構うまい。俺は問いかけ彼は良いと言った。ならその時点で契約は成立だ。酷な事ではあったかもしれないが。
だが彼は一度俺の身内に惨憺たる危害を加えてくれた。なら一度刃を突き付ける位の事は許されて然るべきだろうさ。
歯を見せ、口元に水を含ませる。水はもはや液体の氷と思えるほど、存分にその身を冷えつかせていた。
「それにカリア、敵だなんて物騒な事をいってくれるなよ。俺達はただ、彼らに手を差し伸べにいくだけだろう?」
そう。何も俺達は荒々しく他国の土地を踏みつけにしようというんじゃあない。
ガーライスト王都の陥落を耳にして、胸を痛めその救援に赴くだけというわけだ。その後ろ盾として、バシャール家の存在がある。
少なくとも表向きの仮面としては、マティアやエルディスによってそういう絵図が描かれている。何、内実が別だなんて事はよくある事。
カリアは俺の言葉を聞くとやはり呆れたように笑みを浮かべながら、言う。腰元に黒緋の剣が揺れていた。
「そうだな。ならなんだ、首謀者の貴様の事は救世主様とでも呼べばいいのか」
頬を思わず拉げさせ、両手をあげて勘弁してくれとそう告げる。何せ、その呼び名が相応しい人間は別にいる。俺なんぞでは荷が勝ちすぎるとも。
それに、実際の所の目的はまるで違う。人を救うだなんてとんでもない。
――目的はガーライスト王国を踏み台に、王冠を紋章教の手元に転がり込ませること。ただそれだけ。
俺が傀儡都市フィロスで吐いた大言は、その大部分がマティア、エルディス。そうしてフィロス=トレイトの手で捏ね回された。らしい。
バシャール家という名分。フィロスに協力的である貴族の領地を行軍路とする事の黙認。補給路の確保。周辺各国への働きかけ。そうして兵の用意。
それらの為に駆け回る彼女らは、朝と夜の境目すら忘れているのではないかと思うほどだった。
当然俺も幾度かそれらに付き合わされたのだが、教養や知啓という面で言えば彼女らに敵うはずもない。殆ど任せきりになってしまってまるで面目がなかった。教育の差というのは、何とも悲しいものだ。
「……でも本当。マティア、それにエルディスも。良く承諾をしたものね。一度何かで躓けば、全てを失いかねない行軍だと思うけれど」
フィアラートが黒髪を揺蕩わせ、何処か固く尖らせた声で言う。緊張感と、そうして僅かばかりの暗然さを含めた言葉。
その言葉は悲観的というわけでなく、一切の間違いがない。むしろずっと理性的な言いぶりだろう。
幾らフィロスに協力的とはいえ、ガーライスト王国の一部貴族共も未だ完全な味方というわけじゃあない。此方の形勢が崩れれば、俺達の背に易々と弓矢を引くだろう。
加えて死雪の中の行軍は最悪で最低だ。一国の軍勢が魔獣の大規模な群れに襲われて半壊した、なんて例は過去幾らでもある。
王都を陥落させた魔人とやらも依然その明確な正体は不明。小規模な群れだという情報はあるが、それ以外は得体が知れない。
懸念要素は軽く数えただけでも雑草の如く生い茂っているというのに、此方はと言えば一度でもしくじればそれで終わり。周囲全てが敵になる。薄氷などというものではない。
もし後世に人間が生き延びて、歴史の学者なんてのがいればこう語るだろうさ。
正気じゃあない。
だが、正気じゃないのは最初にガルーアマリアを陥落させた時から同じだ。それに、案外気を逸しようとも成さねばならない事は世にあるもの。
必要であるのなら、正気なんて幾らでも捨てて見せよう。
何せ紋章教は所詮泡沫勢力。混乱に乗じ一都市や二都市を強奪するだけでは意味がない。いずれ大災害そのものに食いつぶされる。
今一歩退いて延命をしたとして、ただじりじりと綿で首を絞められるような日々が続くだけ。そんなのは御免だ。
ならばもういっそ全てを失うか、全てを手に転がり込ませるしかない。
良いじゃあないか。その手始めに、まずは王冠を頂こう。フィアラートの黒眼を見て、言う。
「荒れ狂う嵐の日にも、上手い過ごし方はあるもんでな。ま。上手くやるさ」
俺としちゃあ、後世吟遊詩人が詩でも作ってくれればそれで満足だがね。そう付け足しながら、肩を竦めた。
其れに、奴が俺と同じ立場なら。きっとこれ位の事はやってのけるさ。
銀髪が、傍らで揺らめく。その頬には深い笑みが浮かんでいた。
「想像の恐怖は眼前の恐怖より遥かに恐ろしいというからな。何、安心しろ。必要ならば私が貴様の望む栄光を全て掴み取ってやる」
カリアの言葉に反応するように、黒眼が傍らで強く跳ねた。馬が呼応するように、嘶く。フィアラートは語気を強めながら言った。
「そうね。別に今から全てを投げ出してしまっても、私は構わないのだけれど。ルーギスは何処へ行こうとルーギスでしょう。栄光とはまた別よね、カリア?」
僅かな、間。息が詰まるというか、二人の間に俺がいる所為か、妙に言葉の棘を感じてしまう。流石に気のせいではないと思うのだが。それにしたってこうも露骨に言葉の牙が交わされるのは珍しい事だった。
何か、二人の間にあったのだろうか。感情を露わにするような何かが。何となしに、脳髄の奥に過るものがあった。それが何なのか迄は、分からなかったが。
暫く無言の時が続き、そうしてふと視線を上げる。その先にやや小高い丘が見えていた。自然と、頬を緩める。そうして肺の底辺りから息を漏らした。
何とも懐かしい。かつて幾度も通った事のある丘だ。まるで変っちゃあいない。
其処に来てようやく郷愁のようなものを、胸の奥辺りで感じ始めていた。身体の芯が暖かくなるような、それでいて情動がこみあげてくる感覚。
正直な所、俺にこのようなものがあるというのは意外だったのだが。案外と、悪くないものだ。
――随分と酷い遠回りだったが。ようやく帰ってこれた。ガーライスト王国に。
本来はカリアをガルーアマリアに見送り、そのまま帰ってくるはずだったのだが。何がどう捻れ曲がったのだろうか。
ああ、だが。悪くない遠回りだったさ。得たものも無くしたものもあるが。それでもなお、悪くはない。
熱い吐息を漏らし、同時に眼を細める。そうしてから、視線を強めた。
懐かしの丘の上、複数の兵のようなものが見えている。宝剣を、知らぬ内に傾けていた。