第三百六十八話『決断』
砂石の国。南方国家イーリーザルド。
国境を隣接させるガーライスト王国とイーリーザルドとの情勢は、落ち着きを取り戻したといえど未だ最悪だ。
一つの切っ掛けがあれば、牙を剥き出しにして何時噛み合ってもおかしくはない。今はただ両国内の情勢が其れを許さないというだけ。長きに渡り、両国はそのような関係を続けて来た。
死雪の時代にあっても、それは何ら変わりがなかった。
魔獣災害を理由に両国が協調しあったなどと言う記述は、歴史書を紐解いても易々と出てきはしない。
彼らの間には、紛れもない積み上げられた憎悪と憤激が存在する。雪解けなど程遠いと言えるだけのものが。国家間の感情というものは、それほどまでに強大だ。
けれど一方で、両国共に幾ら憎くとも相手国がそう軽々に失われるものでない事も理解していた。
国力、兵力、富。両国家とも大陸の中では群を抜いている。
もし両国が噛み合う事になれば、勝利の美酒を得た者ですら大きな疵を負わされる事は間違いない。忌々しいが、互いを脅威と認めねばならぬだけの存在だった。
そのような関係が百年以上は続いている。
だからこそ其の一報は少なくない衝撃をもって、耳に入った。
「――ガーライスト王国の王都が、陥落した? それは、どの程度信じられる情報ですか」
日に焼けた浅黒い肌。イーリーザルド特有の重厚な黒色具足を纏わせた女性は、短く纏められた髪の毛を傾けそう聞き返した。
彼女の身に着けた具足や特徴的な色彩の衣服は、イーリーザルドに数ある闘士の中でも、高位闘士のみが身に着ける其れ。立ち居振る舞いの優雅さも、その地位を証左している。
報告者は敬意を示したように膝を付きながら、彼女に言葉を返す。
「三者使いを出しましたが、三者とも同じ情報を得ています。少なくとも、ガーライスト王都が魔獣災害により大きな被害を受けた事は間違いがないかと。如何いたしましょう、テルサラット様」
言葉を一度噛みしめ、イーリーザルドの高位闘士テルサラット=ルワナは顎に手を据えながら頷く。
未だ、その情報の全てを呑み込めたわけではない。けれども無理やり口に含んで、眼を細めた。
ガーライスト王国王都が陥落する。信じがたいが其れは事実と断じよう。では何が起こった。何が起こればあの金城鉄壁が崩れ去るような事態になる。
我らが長年を通じて落とせなかったアレを、誰が落としたのだ。
一つ、心当たりがあった。テルサラットは肩を傾けて思考を回し言う。
「――余り考えたくはないですが。魔人。そう呼ばれる個体が、ガーライストにも現れたと判断しましょう」
魔獣とも魔族とも違う異形。得体の知れぬ事を成す脅威。彼らが名乗ったのか、それとも誰かが呼称し始めたのかは知らない。けれども神代からその異物はそう語られた。
南方国家イーリーザルドにおいても、その異物は足跡を残している。イーリーザルドを構成する七大都市の内一つが、ただ一個体の魔形に半壊させられたとの情報は耳に新しい。
何でも、その個体には闘士のありとあらゆる殴撃が意味を成さなかったと、そう聞いた。魔人とはいかなるものか、どう生まれたのか。それは分からない。けれど人類種にとっての脅威である事は明確だ。
それに、ガーライストの王都をかみ砕くほどの力があるのであれば。テルサラットは知らず喉を鳴らした。眉間に皺が寄る。そうして未だ傅いたままの者に言った。
「ありがとうございます。すぐに、都市統治者――トーラに報告をあげましょう。必要によっては、私が自ら使者としてガーライストに出向きます」
テルサラットは己の臓腑の奥に、重い鉄が入り込んだ気配を感じていた。それは危機感と、焦燥が合わさり溶け合ったようなもの。
正直を言えば、ガーライストの王都が陥落しただけであるならば、イーリーザルドの人間としては留飲が下がる思いを抱いてもおかしくはない。憎悪すべき相手が致命的な傷を負ったなら、本来喝采すべきことだろう。
けれどもテルサラットに至っては、今どうしてもそのような想いを抱く気になれなかった。
それはかつて恩を受けた人間がガーライストの人間であった事が要因でもあるし、それともう一つ。どうしようもない寒気が背筋を這い寄っているのだ。
根拠があるわけではない。ただ一つの思い付き。
――もしかするとこれは一過性の災害ではなく。魔獣による人間領域への侵攻ではないのか。
そんな、一瞬だけ過ぎった寒気があった。
◇◆◇◆
頬を軽く撫でる。その時に至って、己の指先が驚くほど冷たくなっている事にマティアは気づいた。
ふと見れば、手元の羊皮紙に刻まれた文字が歪んでいる。上から軽くインクをなぞりなおし、修正をした。
そうして続きを書こうとすれば、また一瞬意識が飛んだ。
自然とため息を漏らす。喉に冷たい空気が流れて行った。
駄目だ。まるで真面に政務が行える気がしない。考えが纏まらぬからとペンを取ったというのに、これでは意味がないではないかとマティアは眼を細めた。
執務机の上においた水を喉に通す。それでも尚、感情は羽でもついたかのように浮ついている。
頭蓋の中を波となって渦巻いていくのは、ガーライスト王国王都アルシェ陥落の事。
その影響は余りに大きい。
それを成した魔人と魔獣災害の脅威は、紋章教内に消極論を持ち出させるのには十分だ。特に、未だ紋章教においては大きな被害が出ていない為、無理に関わるべきでないという気持ちが大きいのだろう。
一度最前線である都市フィロスを放棄すべきだとの意見すらある。誰も彼も言葉を移ろわせて、遊戯でもしているかのよう。
聖女たるマティアにはそれらの言葉を統括し、判断を下す権利と義務がある。いわば消極論全てを踏み潰してしまう事だって可能だろう。
けれど、それは紋章教内の元老達との決定的な別離だ。今後表ざたにはならずとも、紋章教内には二つの勢力が存在する事になってしまう。
マティアの頭蓋の中、冷静な部分が其れは成すべきでないと否定する。未だ不安定な中、勢力が分断される事は愚策に過ぎないと。
けれどもう片方――打算とも理性とも言えぬ箇所が、言っている。此れは好機だと。
今ガーライスト王国の内部は崩れ去ったも同義。咲き誇った栄華の花はとうとう枯れ落ち、実も腐らんとしている。
今であれば、ルーギスが語るほどに全てが上手くいかずとも。紋章教の確固たる地盤を切り取る事は出来る。それは紋章教最大の悲願。祖国を持たぬ己らが、安寧の地を持つ事が出来る。
此の好機はきっと、二度と回ってこない。少なくとも己の生涯の中では。
だが、理解もしている。それは余りに危険な道のりだ。薄い薄い氷の上を渡るに等しい。だが、それでも。
マティアは一瞬、疲れ切った眼を休める様に瞼を閉じる。暗闇の中、一人の姿が浮かび上がっていた。
己の英雄。己の剣。マティアがそう言って憚らない彼。最初は忌み嫌っていたというのに、どうしてこのようになったのだろうか。眼を閉じたまま、微笑をマティアは浮かべる。
彼の言葉を、聞きたかった。彼はどう思い、どう判断するだろうか。情けない事だが、その声を今は聞きたかった。
最後の判断は己がする。けれど一つだけ、後押しをしてほしかった。
こん、と遠慮がちな音が執務室の扉を叩く。アンが戻ったのだとすぐわかった。ルーギスを連れてきたのだろう。
どうぞ、とそう呼ぶ前に。鏡へと視線を向け己の姿を見渡す。繰り返しの寝不足の所為で、少々髪の毛が痛んでいる気もする。軽く櫛を通して整えながら、表情を作った。
良し。一先ずは人に会える顔になった。吐息を漏らし、声を強くしながらマティアは入室を促した。
「……その、失礼します」
アンが、遠慮しがちに扉を開き室内へと入る。予想に反して、そこにあった姿は彼女一人だけだった。目を軽く開き、マティアは言う。
「どうしました、アン。彼は起きなかったのですか?」
まだ夜も明け切っていない。昨日は酒を傾けていたようだから、そういう事もあるかもしれぬとそう、想った時だった。
アンが僅かに視線を逸らしながら、言う。
「いえ、そのですね……すでに、エルディス女王とお話をされていて。北進の準備を、すると。そう言っておいてくれと……英雄殿が」
彼女には珍しい、途切れ途切れの言葉だった。気まずそうと言えばいいのか。歯切れが悪いというか。
その態度を見ただけで、聡明たるマティアの脳髄は一つの理解を得た。生真面目なアンの事だ。きっと彼がエルディスと会話をしていたからといって、それだけで帰ってくるという事はあるまい。
当然に、それが終わった後彼に言葉を掛けたはず。ただルーギスは其れを――聞かなかったのだろう。態々己に会う必要まではないと。
予想はつく。彼は一度こうと決めたら、其れを譲ろうとしない。諦めるという事を病的に毛嫌いしているかのように。
だからもう曲がらぬのだと、アンにはそう言ったのだろう。其れは良い。彼らしいといえばその通りだ。
ああ、だが。けれど。
――私に会う必要がないとは、どういう事でしょう。久しく顔を会わせていない分、どうやら私を軽んじているようですね、ルーギス?
そうか、なるほど。駄目だ。
フリムスラトへの遠征の件で、少しは彼も己の管理の必要性を理解していると思っていたのだが。
やはり、何時までも遠く在っては駄目なのだろう。悪戯を成す子というものは、親の目がなければいつでもそれを成すもの。
その全てを矯正するのであれば、やはり傍らにあらねばならない。それに、王冠と剣が離れているというのもおかしな話。
マティアは静かに熱い吐息を唇から出しながら、頬に笑みを浮かべる。
――良いでしょう、ルーギス。ならば間近で今一度、貴方の為に何が必要で。誰の管理が適切であるのか。それを刻み込みましょう。其れが紋章教の為でもあると、断じます。
聖女マティアはこの日一つの決断を成した。紋章教にとって一つの契機。分水嶺とも呼ばれた、その決断。
此れを好機だと、そう捉えていたマティアの頭蓋が。一押しを経て其れを選び取った。
――紋章教によるガーライスト王国侵攻がこの日、決された。