第三百六十六話『魔性の咆哮』
魔はより強く純粋な魔に惹き付けられる。彼らにとって魔の濃密さ、そうして純度の高さは力強き者の証明。偉大なる存在である事の証だ。
瘴気を放ち魔を熟れさせ、其れをもって下位の魔を睥睨する。魔種とはつまりそれを指す。
獣の身が魔を有して成る魔獣、妖精かもしくは魔そのものから作り上げられた魔族。どんな生まれにしろ、彼らの思想は一様だ。
――より偉大なる者の下でこそ、偉大なる時代はやってくる。
ゆえにこそ彼らは大魔、魔人を主と仰ぐ。それが幸福への道と信じているから。
そういった思想の在り方は、きっと人間よりも魔性の方がずっと純粋だ。それは知性の差異ではなく、ただ案外と彼らが素直なだけなのかもしれない。
自らが睥睨する魔族魔獣の類を見下ろしながら、統制者ドリグマンはゆったりとした振る舞いで指を上げる。そうしてから手近な魔種に口を聞いた。
「準備はどうだ。不足があるなら遠慮なく言って欲しい。僕には分からぬ所もあるだろう」
馬の如き下半身と、剛力たる獣の上半身を持つ魔族ヴェルグは、随分と紳士的な言葉でドリグマンに応える。
その見上げるほどの巨躯はとても人間の建造物には入りそうになかったが、天井を全て打ちぬいたおかげで何とか顔をあげられていた。
「不足が無いとは言えませン。まず兵の頭数ですナ。人に産ませるにしても時間がかかりますし、人は我々のように戦えませン。鉄で作った槍に剣、兜や盾を用意してやらねば真面にならなイ」
そうして人を真面にする手間を掛けるなら、魔族魔獣の兵共をより増強してやるほうが良いでしょうと、ヴェルグは応えた。
その点に関してはドリグマンも全く同意だった。
魔族魔獣の中にも当然、優劣や力の大小は在る。傍らの彼のように知恵を持つ者がいれば、持たない者もいる。
だがその中で最も低劣な者と比較して尚、人はか弱すぎる。
皮膚を守る鱗も持たず、また敵を削り取る爪牙も持たない。ドリグマンにしてみれば、瞬きをすれば滅してしまうほどの脆弱さ。生物として欠陥があるとしか思えなかった。
兵を産ませるならともかく、兵として使うには余りに面倒な生き物だ。どう考えても、家畜として生きるのが唯一の道だろう。
けれど、だ。ドリグマンの象徴的な眼が、大きく動く。
そうけれど――我らは一度、その脆弱な生物に敗北した。大地の覇権を譲り渡し、その栄華を奪い取られた。それだけは決して忘れてはならない。
その上で、誤りを正そう。ドリグマンは指を軽く曲げていく。その仕草は何かを噛みしめるかのようだった。
ヴェルグは淡々とした言葉で自軍の問題点をあげながら、それでも戦えぬというわけではないと。そう語った。
ドリグマンは頷いて、言う。
「そういえばヴェルグ。君はどれほど時を重ねた。かつての時代を知っているか……聞き方が悪いな。以前の僕と顔を合わせた事はあったかな」
ドリグマンは生真面目そうな、それでいて統制者然とした言葉を選んで言った。そういった言葉遣いが好きだったわけではないが、上に立つ者には相応の言葉が必要だとドリグマンは知っていた。
「いいえ、お会いしておりませン統制者殿。私が生を得たのは神秘の時代が終えてから百年は後の事となりますナ」
そうか、とドリグマンはヴェルグの言葉に応えて一瞬言葉を練った。周囲の魔獣や魔族らは、己が付き従う魔性の言葉に対し、妙な緊張感を持って待っていた。
ドリグマンの口が、開く。その頬が何処か可笑しそうに拉げている。
「ならば一つ言おう。僕らが失せて長い時間が経った。此の中には勘違いするものがいてもおかしくはない」
笑みすらたたえながらドリグマンは言葉を継ぐ。魔獣が、その牙をざわめかせた。一体何が語られるのかと。
「良いか。僕らは此れより侵略にいくのでも、強奪にいくのでもない。そんな野蛮な事は人種にさせておけば良い。僕らはただ当然のように帰還するのみだ。それこそが僕らの王道というもの」
そうとも。己らは人種のように野蛮ではない。粗野な存在ではない。ただ憎悪のみをもって敵と対峙するような蛮たる振る舞いは行わぬ。
ゆえに愛をもって彼らを踏み潰そう。涙を呑んで頭蓋を割ろう。慈悲を胸に抱き、その汚れた文明を洗い流そう。
ドリグマンの胸中には一つの確信があった。かつて人という種に文明や知恵を欠片でもゆるした事、あれは誤りだった。
文明なぞというものがあったから、人はありとあらゆる混沌を孕むようになり、そうして争うという事を覚えてしまった。最後にはとうとう主人たる魔性にも刃を突き付けた。
最低最悪の悲劇だった。ドリグマンは理解する。彼らに文明や知恵といった類のものは必要ない。
ならば、全て滅失させよう。
まず文字を失わせよう。次に道具という概念を破壊し、知恵を蓄えるという事を取り上げよう。
知恵あるものはその子に至るまで廃絶させる。優良なる愚者を残しその種を残し続ける。いずれ全ての人、王族聖者に至るまでが堕し、知恵という単語すら彼らからは失われる。
其れは紛れもない愛だ。彼らの幸福を希う為の愛。己らに逆らい抗って、何を得る所がある。何を幸福な事がある。
強大な魔性に従うことだけが、此の世の幸せの全てだ。それを人という種は、憐れにも理解していない。
「彼らを愛そう。そうして憐れもう。その為に――征こう。もはや盃より水は溢れたよ」
誰にもとめられやしない。そう言いながら、髪の毛の間から見えるドリグマンの大きな眼。
その眼が指す先はただ一つ。かつて世界の中心地であって、己らの所有物であった玉座。野蛮なる者に奪われた栄光そのもの。
ガーライスト王国王都アルシェ。大陸において最大栄華を極める都市。それへ向けて、魔族魔獣の咆哮が、鳴った。
◇◆◇◆
頭の奥を突き刺すような痛みが走る。鈍痛がそのまま頭蓋の内に張り付いているようだった。心臓が妙に熱く脈打っていた。視界も未だぼんやりとしたままだ。
昨晩久方ぶりに酒を傾け過ぎたのが悪かったのだろうか。好む蜂蜜酒だからと無理をして呑むのではなかった。自然に逆らった行為は、そのまま人間の身体を打ち壊すものだ。
何とか重い瞼を開くと、まだ空は暗闇を保ったまま。白みがかるにはもう暫しの辛抱が必要だろう。
駄目だ、胸の熱が止まらない。水は、昨日飲みつくしたな。せめて噛み煙草をと思って、胸元へと手をやった。
途端指先が、焦げたような悲鳴をあげる。咄嗟に腕を振り上げた。指先に当たった何かが、熱を有していた。
眼を固める。眠気と気だるさに覆われていた頭蓋が、知らぬ間に奇妙なほど澄み渡っていた。頬が歪む。
――二片の指輪。俺が宝剣を持って両断した其れが、意志持つように熱をあげている。
其れが何を指し示すのかは、分からない。だが、幸福の予兆とはとても思えない。
嫌な予感がした。とてもとても嫌な予感が。喉を重い唾が這い落ちていく。どうすべきか、もう一度宝剣で叩き割ってしまうか。
そんな事すら思い始めていた頃、扉が軋みをあげて鳴った。余り聞き覚えの無い者の声。その発音からエルフの者だろうことは理解できた。
――ルーギス様。おやすみの所申し訳ありません。エルディス様がお呼びです。至急の要件との事で。
頷きながら、枕元の宝剣を握りこむ。宝剣もまた、妙に熱を帯びていた。
とても、嫌な予感がした。