第三百六十一話『甘美なる想い』
フィアラート=ラ=ボルゴグラードは歪な高鳴りを覚える心臓を何とか宥めつかせながら、自室のベッドに倒れ込む。頬は僅かに火照りを覚え、呼気はやけに荒い。
彼女の冷静沈着たる思考が、今ばかりは大渦となって頭蓋の内を駆け巡っていた。とてもではないが、暫くは落ち着きを取り戻せそうにない。
思考を荒らしまわっているのは、つい先ほど話を終えたばかりの内容。
ルーギスの育て親たるナインズの言葉が、未だ妙な重みと熱を伴ってフィアラートの胸を占有している。
――すまない。私の育て方が悪かったらしい。もう少しばかり、世渡りを覚えさせるべきだったな。
ルーギスが部屋を出てすぐ、ナインズのそんな言葉から話は始まった。
だが、正直を言えばその辺りの事をフィアラートはよく覚えていない。優しい言葉であったことは、理解しているのだが。内容までもはまるで頭に入っていなかった。
何せその時は落ち着いて話を受け止める余裕などフィアラートには欠片もなかったのだ。ルーギスが語った事を、未だ胸中に受け止めきれていなかった。
ルーギスの言葉。其れは、あの魔女――大聖教聖女アリュエノの事を未だ彼が忘れられていないという事。
彼の口から其れが発された瞬間、フィアラートは己の黒眼が耐えようもない熱に覆われたのを理解していた。
身体が端から冷たくなりはじめ、臓腑の底から込みあげてくる哀しみとも憤激とも分からぬ感情に、嗚咽すら漏らしそうになる。人は想い一つで、自ら喉を焼き爛れさせる事が可能なのだと、初めて知った。
そんな状態であったから、正直フィアラートにナインズの言葉をゆっくりと咀嚼する余裕などまるでなかった。ただ真面に立っているというだけで精一杯だ。きっと端からみればその姿は酷く弱々しいものであったに違いない。
けれどナインズは、そんなフィアラート、そうしてカリア、フィロスらの心情をも推し量ったようにして、語った。
彼の成長は喜ばしいが、それでも断ち切らねばならないものというのはあると。ゆえにあくまで提案でしかないがと付け加えて。
――己の子が出来れば、奴も多少は落ち着くだろう。男というものは夢想家だが、赤子を見て地に足を付けていくものだ。
子供。子孫。子息、息女。言い方は様々だが、つまりそう呼ばれる存在。
その者達を、ルーギスとの間に。
一瞬、反応が鈍った。頭の内側から金槌で打ち付けられたような感触があったのをフィアラートは覚えている。
詰まり、ナインズが何を言っているのかといえば。そういう事で。
困惑とも期待とも言えぬものが、一瞬の内にフィアラートの胸から溢れ始める。喉が、思わず詰まった。
それすらも見透かしたように、ナインズは言葉を続けた。
何も子供を利用しろというわけではない、ただ、ルーギスに切っ掛けを与えてやるだけだと。誰しも、変わるには区切りと節目が必要となる。ならば早くに与えてやった方が良い。遅かれ早かれ、子は出来るのだから。
ナインズの唇が含みを持たせて、それでいて何処までも優し気につりあがっていくのを、フィアラートは見ていた。
――昔奴が風邪を引いた際、薬代わりに蜂蜜酒を呑ませてやった事がある。それ以来随分と好むようになってな。夜にでも共に呑むと、とてもよく眠れるだろうさ。
脈絡のない話ではあったが、ナインズが何を言わんとしているのかは、その場にいた誰もが理解していた。他にも幾つか会話があった気がしたが、とてもではないが覚えていない。
フィアラートはベッドに横たわり、自らの額に細い指を置きながら呼吸を整える。未だやけに、呼気が熱い。
彼との間に、子を成す。
無論、フィアラートとて望まぬわけではない。もしも彼との間にそれを望め、そうして一つの家足り得たならば。それはどれ程の幸福だろう。いいや、どれ程の、とすら言えぬものに違いない。
フィアラートの両手には余るほどの甘美な想い。だがそんな想いと同時、胸中にはどうしようもない恐怖もあった。
彼と共に在ろうとした時、己は果たして彼に受け入れられるのだろうか。
もしかすると彼は他の者の手を取り、己は手酷く拒絶されるのではないだろうか。そうなった時己はどんな表情を、すれば良いのか。少なくとも、真面でいられる気はまるでしない。恐らくはどうにかなってしまうのだろう。
不安や期待、そうして葛藤。それらの情動がうねりとなってフィアラートの胸部を這いまわっていく。やはり、まるで思考は纏まらない。ただ重い石が、体内にあるのだけが分かった。
けれど、だからといって足踏みが出来るわけではない。フィアラートはベッドに横たわったまま、黒い眼を細めた。
何せ、ナインズから薫陶を受けたのは、己一人ではないのだ。後、二人いる。
その内の一人、統治者フィロス=トレイトがどう動くかは未だ明確には分からない。けれど、恐らく今は押し留まるのではないだろうか。
ルーギスが手を取った一幕があったとはいえ、フィロスという人は性急に物事を進めるのが好きな性質には思えない。むしろ、ああいった秩序や正義を是とする人間は、順序をこそ大事にするものだとフィアラートは理解していた。
ゆえに多少の戸惑いはあれど、彼女はすぐに何かを動かすということはないだろう。
けれど、もう一人。カリア=バードニックは違う。中空を揺蕩う銀髪が、フィアラートの瞼の裏に映り込んでいた。
もう彼女とは短い付き合いではない。それゆえによく分かる。彼女という人は何かを想ったならば、すぐさま行動に移せる人だ。
彼女の脚には翼でも付いているのかと思うほど。其れがフィアラートには、どうしようもなく羨ましい。
己はどちらかと言えば考え込んでしまうがゆえに、何も行動が出来なくなる性質なのだとフィアラートは理解している。カリアほど行動的に、そうして気高く生きれたならば、どれほど人生は輝きで満たされるだろうか。そんな想いすら、フィアラートは頭蓋の内に潜ませていた。
彼女は今回どういう形であるにせよ、何等かの行動に移すだろう。それは間違いがない。
ならば、己はその時どうする。頭を抱えてベッドに包まり、また彼が迎えに来てくれるのを待つのだろうか。
そうして誰かと彼の子を、此の眼で見るのか。黒い眼が拉げ、フィアラートの歯が唇を強く噛んだ。痛みすら感じぬほどに、身体が熱い。
それだけは承服できない。出来るはずがない。カリアにも、エルディスにも。そうしてマティアや幼馴染を名乗る女にも、彼との未来を引き渡せるはずがないのだ。
彼女らには、他に肩書も輝かしい才能もあるではないか。他に生きていく道だって当然にあるはずだ。
けれども、己は違う。フィアラートはシーツを強く掴み込む。細い指が、僅かにベッドに食い込んだ。
私が望み、そうして私として生きられるのは。ただ一つの道しかない。彼の隣しかないのだ。
黒い眼が、揺蕩いながらその色を強くする。室内に降りた暗闇の中でなお、深く、濃くなっていくのが見えた。
――私は貴方でないと駄目なのに、貴方は私でなくても良いだなんて。酷い不公平だとは思わない、ルーギス?
余りに酷い格差というものだ。ゆえにこそ、それは正さねばならない。
フィアラートの頬に笑みが浮かび、朱が指していく。吐息が、何か情動以外のものを帯びていた。