第三百六十話『育て親の心を子は未だ知らない』
軋みをあげた空気の中、一瞬の静寂が過ぎた。誰も言葉を発さぬし、誰も身動きを取らない空白の間。
その最中、ナインズは思考に一つ言葉を漏らす。
――こいつは今、何と言った?
育て子ルーギスへと視線を向けたまま、ナインズは紫の眼を傾け喉を鳴らす。
懐古心に温まっていた頭蓋が急速に冷えつき、背骨までもがそのまま氷になってしまったかのような感触があった。
何かしらを言葉にしようと、咳払いをしながら声を整える。その間にもルーギスの言葉が、ナインズの思考の中を駆けまわっていた。
アリュエノの事を忘れてはいないし。その想いにも区切りはつけていない。そんな、言葉。
「……ルーギス。お前も、もう小僧じゃあない。意味は分かって言っているんだな」
慎重に言葉を選んで、ナインズは唇を動かした。もしかするならば、己の話し方が悪かったのではないか。意味を問えば、誤解は解消されるのではないか。
そんなナインズが抱いていた一抹の期待は、ルーギスの言葉に容易く叩きのめされた。
「分かっていますって、そりゃあ。紋章教の人間が、大聖教の聖女と関わりを持つのは宜しくないって話でしょう」
別に大声で言ったりしませんよと語り、全て理解していると言いたげなルーギスの振る舞い。
その言葉を聞いて、そうしてルーギスの眼を見て。ナインズは一つの確信に至った。
こいつは、何も分かっていない。自分の立場も、発した言葉の意味する所も。
己らが何も変わらないなどと言ってしまえるのがその証左だ。
幸福か、それとも不幸なのか。アリュエノとルーギスの立場は、孤児院にあった頃から大きく変貌を遂げている。
片や大聖教の聖女候補、片や紋章教の英雄。明確に対極の位置に彼らはいる。とてもではないが、触れ合える位置にはない。可能であるならば、幼馴染であったという事実すらも隠し立てしたいほどだ。
ましてルーギスが未だアリュエノを想い、その手を取る事を諦めていないなど、紋章教内部ですら言い出せる事ではない。
下手を打てば、紋章教という勢力が二つに割ける。
暫しの間監獄にその身を落としていたとはいえ、ナインズとて何も知らぬわけではない。むしろガーライスト王国で活動していた際には、情報の取り扱いを一手に引き受けてすらいた。だからこそ、よく理解している。
紋章教内部に、ルーギスに不満を抱く輩は未だ多い。しかもその多くは紋章教の上層に属する者らだ。
彼らは敢えてその不満を口にするような不様は晒さない。それが己たちに不利益を与えるとよく知っている。第一、ルーギスに敵対すればそれは即ち聖女マティアに敵対するという事。堂々と言葉に出来るわけがない。
けれども、それは不満を発する切っ掛けがないからというだけ。詰まり不満はただ堪り続ける。
もしも何かしらの切っ掛けさえあれば、彼らは容易く不満を吐き出すに違いあるまい。不満は何時しか嫌悪に、嫌悪は迫害に、迫害は敵対に繋がる。
そうして、敵対は分裂へと姿を変えるのだ。勢力とは、常そうした危険を孕んでいる。多くの組織、勢力、国家は過去そうして分裂を繰り返してきた。紋章教とて、例外ではない。
信者らにとって教義は一つだが、信仰の形は一つではないのだ。
そうして今紋章教が分裂したならば、その先にあるものは明確な破滅のみ。
ナインズは眩みすら覚えそうになって吐息を漏らす。
「お前は……変わったな。いや、成長したというべきか」
言葉の意図をくみ取りかねたのか、ルーギスは肩ひじをついて首をひねる。その様子自体は、かつてナインズが知る頃からまるで変わらない。軽く手首を捻る癖があるのも含めて。
けれど、その眼差しは大きく変わってしまった。
ナインズが知るルーギスという子供は、多少意固地な所はあったが、何方かと言えば自分を押し殺す事が多い子だった。
よく言えば利口で物分かりが良い、悪く言えば期待というものを持たない子。
出来ないのだから、仕方がない。そういう言葉を、本来夢見る事が多い時期にすら口にしていたのを、ナインズはよく覚えている。妥協と諦念を持ち得る人間だった。
あの頃のルーギスであれば、きっと今も割り切ったに違いない。アリュエノの手を取れぬ事を、仕方がない事だと、そう呑み込んでくれた事だろう。
けれど目の前にいるこいつは、違う。ナインズは、複雑なものを頭蓋に抱えながら、ルーギスと視線を合わせた。
その眼からは、かつては見る影もなかった深い自我を感じる。赫々たる矜持を有する者のそれ。
それはきっと、成長と呼べるものなのだろう。子供時代のルーギスが悪かったのだとは言わない。あれはあれで、一つの生き方だ。
けれど、彼が己の思う自我のままに生きれるようになったのであれば、それもまた喜ばしい。
親心としては育て子の成長には感じる所がある。微笑すら、ナインズには浮かびそうだった。
此れが紋章教と何ら関係がないものあれば、だが。今は余りにその意志の向き場所が悪すぎる。もう少しましな所で発揮してくれればいいものを。
ルーギスは、まるで雛が親鳥に付き従うが如くアリュエノに傾慕している。恐らくは己の前でしたあの約束を、この子は未だ固く胸に抱いているのだ。
それは駄目だろう。それは、どう足掻いた所で最悪の結果しか生み出すまい。言うならば自ら棘の突き出た血だまりに転がり込むようなもの。幸福には程遠い。
ならば、どうすべきか。
ナインズはルーギスに向けていた視線を、不自然でない程度に逸らす。彼の背後に三つの影が見えていた。
戦場の乙女と名高いカリア=バードニック、ボルヴァート朝の魔術師フィアラート=ラ=ボルゴグラード。そうして統治者フィロス=トレイト。
皆、ある程度はルーギスと繋がりを持つ人間だとナインズはそう聞いていた。共に在る姿を見るに、友好的な関係を築いているのだとは思っていたが。
その眼を、見る。そうしてからナインズは僅かに、頬をひくつかせた。
烈火の如く眦を燃やしたかと思えば、静かに眼の奥を歪める者もいる。在り方は三者三様ではあるものの、どれもこれも、正直に言えば真面な様子には見えない。
それが意味する所は、一つ。言葉にするのが憚られるほどの情動を、彼女らがルーギスに対して持ち合わせていると言う事だ。ルーギスは、其れに気付いているのだろうか。
火傷をしない程度にしろ、か。
ナインズは己がつい先ほど出した言葉を嘲笑するように、喉を鳴らした。この様子を見るに、とてもそれでは済むまい。ナインズは胸中で溜息をつくように呟いた。
三人もこの様な人間を作り上げるとは、我が育て子は何をしでかしたのだろうか。自らの過去に後悔すら生まれそうになる。
けれど、今は構わない。むしろそちらの方が都合が良い。彼女らであれば、ルーギスを繋ぎとめてくれるかもしれない。
ナインズは静寂が続く室内に、言葉を選びながら音を発した。可能な限り、声が柔らかなものになるように意識した。
「……ルーギス。少しばかり彼女らと話したいことがある。お前がいては言葉にし辛い事もあるだろう。席を外してくれるか」
ルーギスは自分が責め立てられるとでも思っていたのだろうか。一瞬呆気にとられたように眼を開かせると、後ろの三人に視線をやった。
同時、ナインズもまた三人に呼びかける様に視線を合わせる。何も言葉にはしなかったが、意図があるのだという事を伝える様に。
三人もまた戸惑いはあったようだが、けれども頷いてくれた。ルーギスに関連する話であると、そう汲み取ってくれたのだろう。
ナインズは唾を呑み込みながら眼を細める。その怜悧な眼が、今ただ一つの事を目的にして、炯々たる輝きを発している。
――お前の幸福の為だ、ルーギス。真実の喜びは、案外と人の手元にあるものだと教えてやろう。
ルーギスが部屋を出て暫く後。三者に含み込ませるようにして、ナインズは口を開いた。表情には、優し気な笑みが踊っていた。