第三百五十三話『魔獣災害』
死雪が降り注ぐ中、長く纏められた髪の毛を中空に揺らした姿が視界に映る。よくよく見おぼえのある、だが本来はガルーアマリアにあったであろう、その姿。
「――随分と、久しぶりに顔を見た気がしますね。ルーギス。また傷を増やしたのですか、全く」
傀儡都市フィロスの雄々しい街門。その門前でもって、紋章教の聖女マティアは優美な笑みを見せてそう言った。
その笑い方は彼女にしては妙に緩みが多く、悪戯を成功させた子供のようにすら見える。
そんなマティアの顔を見て、死雪の寒気に歪んでいた瞼が大きく開いた。馬の手綱を、指先で強く握りしめる。
恐らくは傍らで馬を並べていたアンも、俺と同じような表情をしている事だろう。
使いを寄越した際、確かに誰かが出迎えに来るであろうことくらいは聞いていたとも。だが其れでもだ。紋章教の長とも言える聖女様が、態々門前まで姿を見せるとは聞いていない。
此方にはカリアやフィアラート、それに同盟君主たるエルディスがいるのだから、聖女様直々のお出迎えがおかしいとは言わないが。それでも建て前は監獄ベラに収容されていた紋章教徒を護衛してきただけだ。
それを想うと、随分と過大な歓迎ではないだろうか。そう語ると、マティアは唇をつり上げて言葉を返す。
「人の不意を突いて相手を慌てさせるのは、貴方ばかりの得意事ではないのですよ。奇襲される側の心を理解するのも、たまには必要でしょう」
マティアは悪戯げに唇を波打たせつつ、言う。その表情と言葉は何処までも柔らかい。
そのはずなのだが。
マティアの眼をみて、知らず頬がひくつく。その瞳の奥に、酷く鈍い色があった。暗く、それでいて決して安らかな笑みを浮かべていない瞳。
秘められているものは静かで、それでいて確かな憤激だ。
意味を容易く読み取れたのは、きっとマティアが俺に対して欠片ほどもその浮かび上がる情動を隠す気がないからだろう。
不味い。しまった。何時もより根が深そうだ。
その根にあるものが何なのかは、すぐに感付いた。俺がヴェスと共に監獄ベラに踏み入った事に違いあるまい。それしか理由がない。
そう言われてみると、監獄ベラの一件について手紙では詳細を殆ど伝えていなかった。まぁ、俺の意図はある程度書いていたはずなのだが。
マティアが此方へと近づいてくるほど、その眼の色が強くなる、そんな気がしてならない。
思わず、背筋を逸らして顔を引く。後ろ暗い事をしたのではないかという気持ちが、肘の辺りから湧き上がってきていた。
どう言い繕ったものかと唇を歪めていると、マティアはやはり笑みを浮かべたまま言った。
「――何にしろ、此処は冷えます。早く彼らを中へ。死雪の中立ち尽くして風邪をひくのは、馬鹿らしいでしょう?」
その言葉と同時、今度は本当にマティアの表情と眼が緩んだ。聖女として常にある程度表情を引き締めているであろう彼女にしては、珍しいほど。
マティアは俺の背後へと視線を飛ばす。視線の先にあるものは数台の馬車だ。
馬車の中にあるのは、監獄ベラに収容されていた紋章教徒達。殆ど身動きがとれぬ重傷者を除いては、多少窮屈な想いをさせてでも一斉に馬車でフィロスへと移動願っていた。
流石に、この死雪の中彼ら全ての防寒具を用意するのは困難だ。その点馬車の中であれば最低限寒風は防げるし、人が寄り集まっているがゆえに凍死もそう起こらない。
マティアが馬車へと潤むような視線を向けたのを見て、そこでようやく彼女の意図を理解した。彼女は何も俺達を出迎えに来たのではない。彼らをこそ、迎えに来たのだ。
埋葬先と呼ばれた監獄ベラ。其処へと乱暴に放り込まれ、それで尚信仰を捨てなかった彼らを。
各地で紋章教徒として生き、ただそれだけで監獄に送られた彼ら。尊厳を踏み潰され、思想と信仰そのものを否定されて尚抗った彼ら。理不尽に迫害を受け、石投げられ苦渋を噛み続けた彼ら。
聖女マティアは、きっとそんな彼らの為にかつて旗を掲げた。救いを与えられぬ同士の為に、聖女と成ったのだ。
なればこそ、その帰還を自らの身をもって歓待することは当然だろう。もしかするとそういう点が、紋章教徒達の敬意を集める所以なのだろうか。
全く、立派なものだ。俺にはまるで真似できそうにない。何せ俺は極めて利己的な人間に違いない。
今回とて、囚人の中で言えば身内であるナインズさんさえ救いだせれば、俺はそれで良かったのだろうさ。
其れすらも、きっとナインズさんを想っての行動というわけじゃあない。俺が、俺の為に助けたかっただけなのだ。所詮は、自分を満足させる為の行いでしかない。
そんなものだからどうにも罪悪感のようなものが頭蓋の中を渦巻いてきて、未だ真面にナインズさんと話も出来ていなかった。
何とも、情けない。マティアの前に立つと、余計にそんな想いが沸き上がってくる。軽く、息を漏らした。
俺の背後、馬車の様子を見に向かう為、マティアは馬を前へと進めさせた。
すれ違う合間。僅かにマティアと視線が、あった。その唇が波打つ。
「ルーギス、すべき話は幾らもあります。ですが――今は両手に抱えきれぬほどの感謝を」
それは含むもののない。何とも、素直な言葉だった。一瞬眼を大きくしながら、言葉を受け止める。そうして肩をすくめて言った。
どうにも、頬が擽ったい。
「前にも言ったろう。自分が望むようにしただけさ。俺はそれだけの事しか出来なくてね――」
「――ならば、貴方と私の望む所は同じと言う事ですね。私の英雄」
相変わらず、瞳の奥には燃える様な感情を浮かべていたが。それでも、酷く綺麗な笑みを浮かべて、マティアはそう言った。
全くやめてほしい。こちらは、手放しに褒められるのに慣れていないというのに。両手を軽くあげて、返事をした。
◇◆◇◆
「まずは、手札となっている情報を整理致しましょう」
もはやお決まりの語句を並び立てるように、都市フィロスの一室にてアンが言う。
元々はそれほど多くの人間が集まる場ではなかったのだろう。やや手狭な空間に、聖女マティアやエルディス、カリアやフィアラートの他にも紋章教の主だった面々が顔を連ねていた。
かつて此の都市の統治者であったフィロスも、俺の対面に居座っている。
しかしどうしてだろうか。片眼鏡を付けた白眼が、何時もより妙に険しく此方を見つめている気がする。俺は特段彼女に何かした覚えはないのだが。
「ガーライスト王国より紋章教へと使者が参った事は周知の通りでしょう」
内容自体は大したものではなかったがと僅かに言葉を濁しつつ、使者が雑談として語った事が本旨であったと、アンは言う。
其れは、ガーライスト王国北西部に姿を現した要塞巨獣ゼブレリリスの事。そうして、各国に表れた魔獣災害の事。
それらは意志持ってただ人を食らい、そうして文明を踏み潰し続けていると、使者は語った。そうしてあくまで雑談としてではあるが、使者はこう付け加える。
必要であるならば、此の大災害に対し、各国が手を取り合う必要もあるやもしれぬと。
その差出人がただの一貴族であるのなら本当にただの雑談で終わるのだが。喜ぶべきか悲しむべきか、そうでは無かった。ゆえに、こうして面々が顔を突き合わせる事になっている。
使者を出した人間は、護国官ジェイス=ブラッケンベリー。ガーライスト王国の英傑にして国家の盾そのもの。
その名を聞いた途端、カリアが明確にその眼付を強めたのが分かった。銀眼が奇妙な程に顰められ、珍しく緊張すら湛えている。
本来はガーライスト王国の騎士階級であったカリアには、護国官という名前の重みが誰よりも感じられるのだろう。少なくともこの場において、実感としてその名の重みを感じていられるのは、カリアと後はフィロス位のものか。
俺とて名とその意味位は知っているが、其れでも実感までは肩に背負えない。
アンが面々の反応を確かめながら、言葉を続ける。
「各国の情報を取り集めた所、使者が語った所に誤りは欠片もありません。ガーライスト王国はゼブレリリスと名付けられた要塞巨獣によりその膝をかみ砕かれ、各国にも魔獣災害の牙が突きたっています」
内頬を少しばかり噛みながら、言葉を探す。知らず指先が、寂しそうに噛み煙草を探していた。
死雪の時代というものは、魔獣共が自由気ままに闊歩する不幸の時代。
その中では当然、ある程度魔獣災害というものは起こりうるもの。
村や集落の一つ二つが、気まぐれに吹き飛ばされるなんてのは、ありふれた悲劇でしかなく。誰も大して気に留めやしようとしない。
何時も我が物顔で領地を歩き回る貴族共も、この時ばかりは見て見ぬふりだ。死雪ゆえに仕方ないのだと、そう言い訳して。
それほどに、死雪とは最低最悪の時節だった。
其れを踏まえて尚、余りに災害の規模が広がり続けているとアンは語る。
「魔獣災害は、本来ただ魔獣の群れが目的もなく動き回るだけのもの。いわば平時より魔獣の行動範囲が広がっただけのものにすぎません。ですが、今回は何かに率いられるかのように、都市や集落を呑み込み続けています」
紋章教の面々の内、顔に罅のような皺を刻んだ男が、率いられるとはどういう事かとそう返す。しわがれた声から受ける印象とは反対に、随分と率直な言いぶりだった。
アンは頷いて応えつつ、未だ確定したものではないがと前置きしてから言った。
「魔獣、魔性の者共を率いる存在が在るのだと、そう聞いています」
――魔人。そう呼ばれる存在が各国に姿を見せていると。
その言葉に、腰元の宝剣と白剣が僅かに傾いた。蠢動するように、鉄が鳴る音がした。