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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十三章『大災害編』
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第三百五十一話『聖女と黄金』

 オリヴィア=ベルチは、大聖堂の中に用意された一つの私室で茶に唇を浸す。


 茶が喉を通ると暖かい感触が臓腑の中に広がっていき、ようやく一息をつけた気がした。緊張に張り詰めていた肌が柔らかさを取り戻す。


 そう、此処数日の彼女の日々はまさしく緊張の連続だった。気を抜ける日など一度たりともなかった。


 政機院での一幕、護国官ジェイス=ブラッケンベリーとの邂逅。それ以外にも幾つもの手を打ち、幾つかは成功し、幾つかは失敗した。


 しかしそのどれもが、オリヴィアの精神を締め付けるものであった事は間違いがない。殆ど眠れぬ夜もあった。それを何とか、乗り越えた。


 彼女は強い女だ。貴族と呼ばれるに相応しい芯を身体に刺している。


 だが、だからといって恐怖も緊張も感じぬわけではない。そういった感性は、きっと強者も常人も同じなのだ。


 成し遂げた数々の事は、大聖堂での己の立場を固め、同時にガーライスト王国と大聖教との手を繋がせる為のもの。それらは全てベルチ家の利益となる事だった。


 大聖堂とベルチ家の繋がりは他貴族より遥かに強い。


 大聖堂はベルチ家を通じてガーライスト王国への干渉強化を望んでいるし、ベルチ家は大聖堂直轄領地での商業利権拡大を望んでいた。


 大聖教の影響が強まれば、ベルチ家の繁栄は更なるものになる。


 だからこそ、オリヴィアは此の災害を利用した。此の災害をもって、大聖堂のガーライスト王国への影響力を増すようにと、事を図った。


 祖国への裏切りだと言われればそうかもしれない。自己利益の為と言われればその通りだ。否定する気はまるでない。貴族とは、自己拡大の為の野心を常に燃やし続ける亡者なのだから。


 それに恐らくは、此れで彼女も満足するだろう。オリヴィアが受け皿にコップを置いたと同時、その彼女は扉を開いて姿を見せた。


 護衛を二人連れて来ているが、それはオリヴィアへの信頼の無さというより大聖堂では当たり前の事とみるべきだった。


 オリヴィアは親し気な笑みを見せて、口を開く。


「久しぶりね。事は、当然のように上手く運んだのでしょう」

 

 扉から顔をのぞかせた彼女、聖女アリュエノは綻ぶような笑顔を見せて言った。その笑顔の出し方は、過去からまるで変らない。


「ええ、オリヴィア。アメライツ国王陛下は、快く大魔ゼブレリリスの対処を大聖教に一任してくださったわ」


 アリュエノは、笑みを浮かべたまま対面へと腰かけ、オリヴィアに微笑みかける。


 それは本当に、ただ無邪気にすら思える笑み。一国に対して、聖女の肩書をもってして圧力をかけた事など何でもないと言いたげだ。


 無論、アリュエノは未だ聖女候補ではあるのだが、それでも神よりの選定を受けた時点で、殆ど聖女と同一だった。その言葉は、並みの上級貴族などとは比較にならないほどに重い。


 此れで、ガーライスト王国は大魔ゼブレリリスに対して積極的な行動は取り辛くなる。無論自衛策は取るだろうが、護国官ブラッケンベリーが正面へと出てくることはなくなるはずだ。


 当然に、大魔ゼブレリリスはその巨体を轟かせ続ける事になる。


 オリヴィアは肩を張りながら、言った。


「此れから大聖堂はどうするのかしら――というより、貴方は」

 

 問いかける様に聞く。


 正直に言うならば、オリヴィアは大聖堂の主権はすでに眼前の聖女の手にあるとみていた。


 教皇が耄碌しているというわけではないが、彼は真から大聖教への傾倒者なのだ。盲信者と言い換えてもいいかもしれない。


 教皇にとって、聖女を前に出来るというだけで光栄の極みに違いない。神話を前にするのと同じような表情をしていたのを、オリヴィアは一度見かけた。


 ゆえにこそ、アリュエノが何かを望めば教皇はそれを成すために行動を起こすだろう。であれば、もうアリュエノに逆らえるものは大聖堂にいはしない。


 問いかけを受けて、茶を口に含ませた後アリュエノは言った。


「そうね。大魔というものは、魔人を引き連れるもの。魔獣の上位種である彼らもまた、ガーライスト王国並びに各国へと被害をもたらすでしょう。その間に、西方への巡礼を終わらせる」


 なればこそ大聖教の影響力は強められる。大聖堂の地位は今まで以上に確固たるものになる。そうすれば、教義が理想とする世界が広がるのだと彼女は言った。


 本当にそれを信じているのだという信仰の狂気が、眼には宿っていた。


 護衛の一人、聖堂騎士ガルラス=ガルガンティアは僅かに表情を固いものにしながらその言葉を聞いていた。少なからず、彼には聖女の言葉に思う所があるのだろう。

 

「魔人ね。神話の世界だわ、本当に。御伽噺と言い換えてもいいけれど……各国にも?」


 ふと、その言葉に長い睫毛をオリヴィアは立てる。


 大魔、そうして魔人によりガーライスト王国に被害が出るのは当然の事だが、周辺諸国にも被害が出るとは、つまりどういう事だろう。


 魔人というものは、地の底から湧いて出てくるものなのだろうか。

 

「魔人とは、そういうものだから。適性ある者が選ばれ、造り上げられるものよ、オリヴィア。大魔と近しい、遠いというのは余り関係がないの」


 アリュエノは当然といった風に、そう語る。神書か、そういった類には書き連ねられているものであるらしい。


 オリヴィアは小さく頷きながら、アリュエノの大きな瞳を見た。その黄金の瞳は一切の邪気なく此方を見つめたまま。何処か親しさすら浮かべている。今、己が語った事など忘れてしまったとでもいうように。


 オリヴィアとアリュエノは、大聖堂で共に修道女としての日々を送った事があった。其処では何かしらの諍いも、そうして騒動もあったけれど。

 

 何時しかアリュエノは親し気にオリヴィアとそう呼ぶようになり、オリヴィアもまた同様だった。


 けれど、だからこそオリヴィアには思う所があった。唇を濡らしながら思考の端に、一つの疑念が浮かぶ。


 ――それにしても、誰なのだろう。アリュエノの姿をした此の女は。


 口にはしない。そのような軽率さをオリヴィアは持ち合わせていない。表情には柔らかな笑みを浮かべ談笑に応じている。


 けれど、やはり疑問には思ってしまう。オリヴィアの知るアリュエノは、健気であり何処までも懸命に最善を求め、それでいて芯の強い少女だ。


 その彼女が消えてしまったわけではない。だが、時折アリュエノは今のように成る。


 酷く遠くを見ているような、まるで芝居でも演じているかの様に言葉を漏らす姿を時折オリヴィアは見た。


 その様子はアリュエノという身体の中に、二つの魂が同居しているとでも言うかの如く。


 此れが、聖女というものなのだろうか。聖女というものは、その身体に神を抱き留めるという。神へと成るものを聖女というのなら、此れは正しい姿なのかもしれない。


 其処に多少の懐疑や、憂慮はあるものの。それでもオリヴィアはアリュエノとの関係を止めようとはしなかった。


 今オリヴィアが大聖堂と友好に関係を構築出来ているのは紛れもなく彼女との縁のお陰であったし、それにオリヴィア自身アリュエノを好ましく思う。彼女の瞳と声、そうして本来の性根は、何よりも好きだった。


 だからこそ今のこの様子は少し、不安だ。護衛がついている以上、おかしな事にはならないだろうが。


 そう思い、ふと、オリヴィアは視線をあげる。アリュエノの護衛は、何時も決まった人間がやっていた。聖堂騎士ガルラス=ガルガンティアと、その副官のような男。


 しかし、今日はガルラスと、見慣れぬ人間がその傍についている。彼は一言も発さないのはともかくとして、酷く冷たい表情と眼をしていた。まるで熱というものを有さぬかのよう。毅然とした表情といえば、確かにそうなのだが。


 何か、少しばかりの違和感がオリヴィアの喉を擽る。だがやはり、言葉にはしなかった。


 ――その護衛は、アリュエノと同様。黄金の瞳と頭髪を持っていた。

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