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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十三章『大災害編』
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第三百五十話『蠍と人形』

 護国官ジェイス=ブラッケンベリーは、小さく息を吸い肺に冷たい空気を取り込んだ。そうして表情をまるで変えぬまま、眼前の女を見る。


 自然と、オリヴィア=ベルチの緩やかに巻かれた髪の毛が視線に入った。彼女は落ち着いた上品な笑みを浮かべて、此方を見つめている。その様子に、思わずブラッケンベリーは眉を上げた。


 未だ年若いというのに、彼女の顔つきにはそういった素振りがまるで見られない。大人びた、というのとはまた違う。どちらかといえば、洗練された、と形容すべきだろう。


 妙に場慣れをしているような、そんな雰囲気が彼女にはあった。それだけの経験を経たという事か、それとも元来からそういった人間であるのか。少なくとも彼女の父親にあった際には、こういった印象を受けなかったのは確かだ。


 緩やかな線を描くオリヴィアの唇が、開く。


「貴重なお時間を頂戴してしまい申し訳ありません。ブラッケンベリー護国官。どうしても、お話をさせて頂きたい内容がありまして」


 恭しく言葉を漏らすオリヴィアに対し、ブラッケンベリーは軽く顎を引きながら応じる。


 彼の白い顔には情動というものが欠片も見られない。胸の中にある焦燥や苛立ちは、まるで姿を見せていなかった。


 だがその指先だけが、僅かに跳ねる。精神が敏感になったような気配を、ブラッケンベリーは感じていた。


「構わない。が、時間はない。不躾で悪いが、用件を伺おう。卿自ら足を運ぶほどの事なのだろう」


 声の色や態度には含ませなかったが、ブラッケンベリーの脳内には明確な警戒が表れていた。そう、此れは警戒だ。


 鋭利さを伴う視線が、時折オリヴィアの頬を突き刺す。

 

 ――妙に、間が悪い。


 ブラッケンベリーは普段、運命論を信奉しているわけではない。むしろ何か事が起こる度に不幸の前兆だとか幸運の訪れだとかいう占い師の言葉は、彼にとって忌むべきもの。


 軍人の多くは運命が齎す幸不幸を信じたがるが、ブラッケンベリーは可能な限りそのようなものは遠ざけて来た。


 何故なら、指揮官が兵を動かすのは夢想の中で行うのではない。確かな現実で行う物事であるからだ。


 一人の兵士には家族がおり、親がおり子供がいる。愛すべき人間がいるのだ。指揮官は其れを受け止めて初めて彼らへ命令を下す権利を得る。幸不幸に左右されるような思考を持つ者は、指揮官たりえないとブラッケンベリーは信じている。


 だが今日ばかりは、そういった予兆のようなものをブラッケンベリーは信じたくなった。眼前の女は、何かしら悪い者を運んでくる。そんな直感があったのだ。


 胃の底辺りが、緩く擽られる気配があった。


 以前、政機院での合議の際もそう。僅かにブラッケンベリーの案へと傾きかけたあの場は、オリヴィアの一言をもって風向きを変えられた。


 最後の宣言を下したのが王だとはいえ、場を断ち切ったのは紛れもない彼女。そうして、今もそう。王の下へと赴かんとした直前の来訪。


 護国官といえど上級貴族直々の来訪とあれば、望ましいものでなくても時間を割かぬわけにはいかない。一司祭とは立場が違う。


 今は何よりも時間が惜しいというのに。本当に、間が悪い。


 そんなブラッケンベリーの視線を受け、それでも尚胸を張ってオリヴィアは言葉を転がす。


「要塞巨獣ゼブレリリスの事にございます。護国官におかれましては、彼の魔獣への対応を最優先に行っておられると伺っています」


 感情を漏らさぬまま、ブラッケンベリーは言う。その瞼が僅かに瞬いた。


「当然の事だ。国難に対して動かぬ貴族は貴族でなく、敵を前にして立たぬものは軍人ではない」


 何を問いに来たのだ、此の女は。そんな言葉が思わずブラッケンベリーの胸奥を撫でる。


 紋章教や各国に使者を送った事を問い詰めるのかと思えば違い、政治の話かと思えばまた違う。分からない。何だ。


 彼女は紛れもない上級貴族。その本人が動くとなればその理由は決して多くはないはずだ。ベルチ家の利益が為か。もしくは――より上位の者が関わる時。


 ブラッケンベリーの警戒心が、眼に明確な色を付けた。視線の先でオリヴィアが笑みを浮かべながら、言う。


「――本件から、手をお引き戴きたく存じます。ゼブレリリスは紛れもない大魔と認定されました。であれば、大聖教の敵である事に違いなく。管轄は大聖堂となります」


 此れは教皇猊下、それに聖女様もお望みの事ですと、オリヴィアは言葉を繋ぐ。丸い眼が、真っすぐに己を貫いているのがブラッケンベリーには分かった。


 一瞬の、間。執務室の中、息を呑むような空白があった。


 此の時に至ってブラッケンベリーは気づいた。確信があるわけでもない。何か裏打ちがあるわけでもない。


 だが、その思考を確かに指先で摘まみ上げた。


 ――此の女は敵だ。女の皮を被ったまま、狡猾な蠍の心を抱いている。


 オリヴィアのいう通り、大魔という存在は大聖教が任じ、そうして討滅するもの。救済神アルティウスが大魔を滅ぼした時から、その約定は継続していた。


 流石に約定に従うよう各国を束縛する法が存在するというわけではないが、大聖教の影響を受ける国々はその教義に従う事を誓っている。ゆえに一定の拘束力は発揮することだろう。


 だが、だからといって今、どうしてあの災害を前に手を引けるものか。どうして腰重くまるで動く素振りを見せぬ大聖堂に国の行く末を預けられるというのだ。


 大聖堂の思惑はとうに理解している。此の機会にガーライスト王国に対する己らの影響力を高めようとそういうのだろう。オリヴィアもまた、大聖教の影響下で利益を得るもの。そちらに与するのは分からないでもない。


 だが、其れはもはやガーライスト貴族の振る舞いではない。売国者の振る舞いだ。


 ブラッケンベリーは眦を上げ、軽く肘を伸ばす。思考の奥には幾重もの言葉が積み重なり、その中から最適な言葉を選んだ。


「それは名目上に過ぎない。卿も、大聖堂も私に命令を下せる権限者ではない――教皇猊下であろうと、聖女であろうとだ。私に命を下せるのは国王陛下のみ」


 それに、とブラッケンベリーは唇を大きく開きながら言葉を続ける。


「私はガーライスト貴族たるオリヴィア=ベルチの言葉を聞くとは言ったが、大聖堂使者の言葉を聞くといった覚えはない。それほどに時間を有り余らせているわけではないのだ」


 そう言いながら、音を殆ど立てずにブラッケンベリーは立ち上がる。話は此れで終わりだと、態度でそう語っていた。


 視線は凍て付くほどに固く冷たくなり、発される雰囲気は何処までも敵意を有している。歴戦の英雄が放つ其れは、余りに重々しい。


 オリヴィアは僅かに眉を下げながら、言った。


「国王陛下には、今、聖女様よりお声かけを行って頂いています。きっと陛下には、ご承諾頂けることでしょう」


 そんな声を背中に聞きながら、ブラッケンベリーは眼を一瞬開く。あり得ない。国王たる人間が、そのような判断を下すわけがない。


 今我らが対面しているのは紛れもない国難で、国家は民を護る義務がある。貴族は己の務めを果たす責任がある。


 ブラッケンベリーは、かつて聡明であり、そうして誰よりも賢徳を有していたアメライツ国王の姿を知っている。幾ら老いたとはいえ、彼の王は愚かではないとブラッケンベリーは確信している。

 

 だが、胸の内には、臓腑の底で騒ぎ立てる何かがいた。言いようのない不気味な何か。己は今、取り返しのつかない時間をあの女に奪われたのではないかという、奇妙な予感だけがあった。


 脚を、急がせた。

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