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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十三章『大災害編』
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第三百四十八話『監視者と急告げる使者』

 監獄の突き当り、監視塔の一番上。その部屋の前に、ヴェスタリヌ=ゲルアはいた。だが部屋に入る事もしなければ、扉を叩くような気配もない。


 それどころか無音のまま扉に耳を当て、僅かに音を拾い始める。そうして、ゆったりとヴェスタリヌは呼吸を潜めた。


 音を立てぬよう唾を呑み込むのにすら気を遣う。少しでも体重をかければ、扉は軋む音を弾ませるだろう。慎重に、それでいて可能な限り近づける様に。


 それだけの事をして僅かにだけ、室内からの音が拾えた。


 その段に至って、己は何をしているのだろうとヴェスタリヌは自問する。尖り切った眦が、すぅと細くなっていった。


 曲がりなりにも地位ある者の娘として育てられ、鉄鋼姫と呼ばれた己が、よもや盗み聞きのような真似をするなど。流石に許されないのではないかと、そう思う。


 許される、許されない以前に矜持の問題ではあるのだが。ヴェスタリヌは耳を扉につけたまま、居心地悪そうに視線を揺らめかせて言葉を探す。


 いや、違うのだ。盗み聞きではない。これは戦略的な情報収集なのだ。軽く顎を撫でながら、ヴェスタリヌは思考を回す。


 何せ此の扉の先では、監獄に根を張っていた魔獣ドーハスーラと、紋章教の英雄たるルーギスが会談を行っている。本来そのような事は有り得ぬこと。


 護衛は十分すぎるほどにいるが、それでも監視は必要だろう。常に情報を収集し、何事か起これば常に駆け付けられる。それくらいの状態にするのは当然の事だ。なんらおかしな事ではない。


 それに実の所、護衛についている者からして少々、懸念がある。


 護衛は、三名。紋章教で戦乙女の如き扱いを受けているカリア=バードニック、戦場魔術を用いサーニオ会戦において名を轟かしたフィアラート=ラ=ボルゴグラード。そうして、ガザリアの女王たるフィン=エルディス。


 そうそうたる顔ぶれではあるが、だからといって安心できるわけではない。


 というのも、彼女らが来てからおかしな事が一つある。些細な事といえばそうなのだが、簡単に切り捨てられぬ事。


 それは、彼女らが此処に訪れてから極端にルーギスが人前に姿を現さなくなった。何かしらの理由を付けて、護衛たる彼女らが彼を一室に匿うのだ。


 傭兵の長であるヴェスタリヌですら、最近彼と言葉を交わした記憶は薄い。無論、あの大怪我を想えば療養は必要なのだが。それにしても厳重に過ぎる。


 ――何事か、起きているのではないだろうか。


 そう疑問を持ったとて自然な事だとヴェスタリヌは断言する。英雄たるルーギスに、重大な何事かが起きているのかもしれないという危惧。


 ゆえに、此の情報収集は正当なものだ。ならば恥じる事は何もない。ヴェスタリヌは僅かにざわめきを覚える胸の奥に対してそう言い訳した。


 決して、彼への関心から盗み聞きを行っているわけではない。


 まぁ、彼への興味が無いといえばそれは嘘になってしまうのだが。それでも姉のように彼への想いを全て曝け出してしまうのは、ヴェスタリヌにとっては容易でなかった。


 それに、姉が彼に覚える想いと己が彼に抱いている思いは、また別のものなのだ。己のものはどちらかといえば、親愛。父を想う様な感情に近しい。


 ゆえに、此れはただ彼の身を案じているに過ぎない。その為の情報収集に過ぎないのだ。


 室内からは先ほどからドーハスーラの声と、彼の声が響いている。流石に内容まで聴き取れはしないが、確かに聞こえた。


 何とも、懐かしい気分に胸が浸る。そう長い間聞いていないわけではないだろうに、妙な安心感がヴェスタリヌにはあった。どうやらルーギスは無事なようだ。


 胸を撫でおろすと同時、もう一つの音がヴェスタリヌの耳に届く。


「……その……何をなさっているのでしょう。ヴェスタリヌ様」


 紋章教の重鎮にして、聖女マティアの片腕とも言えるラルグド=アンが其処にいた。視線の先、渡り廊下の上で立ち尽くすようにしながら、彼女はヴェスタリヌを見つめている。


 ヴェスタリヌは悲鳴をあげなかった自分を褒めたかった。


 心臓は今まで聞いた事もないような轟音を鳴り響かせていたし、背筋には幾筋もの冷や汗が舐めて行ったが。それでも表情だけは固く引き締める。元々感情が表情に出ない性質であったのも幸いした。


 万が一此処で感情を露わにしてしまえば、其れはいやしい思いをもって盗み聞きをしていたのだと白状するようなものだ。極めて、冷静であらねばならない。


 今日アンが此の監獄を訪れる予定があったのは覚えていた。視察と、使者の役目を兼ねてと聞いている。夕方と聞いていたのだが、随分早くについたようだった。


 本来彼女はもはや使者を成すような役にはない。それよりも成すべき事は幾らでもあるからだ。


 だが、ルーギスを相手にする際は彼女の話が一番通じるのだとか言っていたのをヴェスタリヌは何処かで聞いていた。それだけの信頼関係が、彼女らの間に築かれているという事なのだろう。


 冷静にと努め、扉から耳を離しながらヴェスタリヌは小さく喉を鳴らす。思考は荒れ狂うほどの羞恥を覚えていたが、声は可能な限り平時のものを捻りだした。


「……いえ。ルーギス殿が魔獣と会談を、などと言い出されましたので。見張りを行っていたのですよ」


 間違いではない。此処までドーハスーラを連れ出したのは己であるし、万が一の事を考えて見張りを行うのは至極全うな思考であるはずだ。けれどもヴェスタリヌは僅かにだけ、アンから視線を外していた。


 何かに感付いたのか。それとも触れるべきでないと思ったのだろうか。アンは表情を固くしたまま、頷いて言う。


「聖女マティアより、英雄殿に言葉を預かっています。何を置いても早々に、お話をさせて頂きたく」


 ヴェスタリヌはその言葉に、僅かに眦をあげた。何を置いても。紋章教の重鎮たるアンがいうのであれば、それは間違いなく軽いものではない。言葉以上の重みが伴う内容に違いあるまい。


 なるほど、ゆえにこそ共も連れず一人で監獄の奥へと来たのだろう。そう思い、ヴェスタリヌが扉を軽く叩こうとした、瞬間だった。

 

 ――抑えつけてカリア。私が縫い留めるわ。大丈夫よルーギス、痛みは感じないわ。ただもう動けなくなるだけだから。


 そんな、耳をやけに擽る声がヴェスタリヌ、そうしてアンの耳朶を突いた。


 室内にいるフィアラートの声だった。その内容は妙に物々しい。其れと同時に、カリアやエルディスと思しき声色が響き、そうして何より大きくルーギスの声が室内から荒々しく漏れ出てくる。もはや、耳を立てる必要もないほどだった。


 この先で何が起きているのだろう。


 扉を叩こうとしたヴェスタリヌの指が自然と、止まる。果たして今扉を叩いて良いものなのだろうかと、そう自問したのだ。何か酷い事に巻き込まれる様な、そんな気がした。


 アンは、何が起こったのか分かるのだろうか。頬をひくつかせながら、重々しい吐息を漏らしていた。


 数瞬の後、音が止み。そうしてゆっくりと扉が軋みながら口を開く。ルーギスが、その身に他の者の腕を絡ませながら、顔を見せた。


 そうして、眼を動かしヴェスタリヌとアンを見て言う。


 何だろう、随分と疲れ切った顔をしているようにみえたのは、気のせいだろうかとヴェスタリヌは思った。久方ぶりに正面から聞く声は、妙に胸に染みた。


「そんな死人でも見るような目で見てくれるなよ――何だ、また面倒事が起こったのか、アン」


 ルーギスは、アンに細まった目を見せて言う。お前が来ると大抵厄介な事が起こるからなと、冗談めかしてそう続けた。


 アンは、そんな言葉を受けて苦笑を浮かべ、言う。


「英雄殿に言われるとは思ってもいませんでした。そういった事柄を惹き付けるのは英雄殿の役割でしょう。ですが……そうですね、今回は面倒事と言って違いありません」


 一瞬唇を指で抑えながら、言葉を選ぶようにアンは言った。


 ――至急の要件となります。ガーライスト王国より、紋章教に使者が参りました。

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