第三百四十六話『彼女の失意と選択』
大英雄アルティアの死。下手人は彼女が唯一愛した者、オウフル。
何故オウフルがアルティアを殺したのか、未だにドーハスーラは理解が出来ない。
長年旅路を共にした仲間であり、アルティアの信頼を勝ち得ていた彼。決してオウフルとて、アルティアを嫌っていた素振りはない。むしろ誰よりも信頼していたはずだ。理想を共有し、共にあろうとそう誓いあっていたはず。
ドーハスーラもそんな彼らだからこそ、盟友として共にあった。魔獣でありながらも、彼らの気高さに敬意を払った。その価値があると断じたのだ。
その男が何故裏切り者となり、背信者の汚名を被ったのか。欠片たりとも想像が出来ない。当時、最もあり得ないことだとすら感じたのを覚えている。
それはドーハスーラだけの事ではなかった。当時生存していたアルティアの盟友達、その誰にもオウフルが成した凶行の意図は理解できていない。
だが、オウフルに問いただす事は誰にもできなかった。彼は、アルティアを殺害した後自らもその命を絶っていたから。何が起こり何があったのか。何処でボタンが掛け違え、全てが台無しになったのか。誰にも分からない。
もしかすれば、アルティアはオウフルにだけ何かを語ったのかもしれない。それはオウフルにとって、アルティアを殺すに足る何かだったのかもしれない。
もしくは――オウフルは最初から最後まで、アルティアを殺すことが目的だったのか。
何にしろ、アルティアの死の原因は最後まで隠蔽された。
当然の事だった。語れるはずもない。建国の大英雄が、閨で愛する者に殺された等と。そんな事を堂々と語れる事が出来るはずがなかった。
ゆえに彼女の死は、長い間過酷な戦いを続けたが故の自然死という事になった。幸福な最期であったという事にした。
それはきっと、真実を知る者ら全ての祈りであり願いだったのだ。誰よりも苦痛を背負い、誰よりも傷を受けながら突き進んだ彼女の最期は、幸福であって欲しかった。例え記録の上であったとしても。
そうして、人類が最も偉大であった時代は終わりを告げる。アルティアの死を以て統一帝国の岩盤は軋み始め、亀裂を立てた。
絶対的な支柱であった大英雄の不在。それは抱えきれぬほどの野望を持つ諸王には耐えがたい誘惑だ。未だ全てをアルティアの威光に頼り切っていた時代であったのも痛手だった。
束ねていた諸王の幾人が独立を掲げ、人は自ら統一に背を向ける。アルティア時代には手を握り合い笑みを讃え合った人間達が、剣を以て語り合うようになった。
――アルティア以外の皇帝は、皇帝ではない。
それが、当時誰彼の口からも語られた。ドーハスーラはその時人間の心という奴を改めて理解した。
彼らは圧倒的な強者によってこそ束ねられる。そうして強者が不在となれば、己こそが強者だとそう語りだすのだ。
アルティアが築き上げた帝国は、彼女の死後十数年の内に失われた。けれど、何も残らなかったというわけではない。
人間は大陸の覇者となり、自らの足で地を歩く自由を得た。文明と文化を築き上げられる幸せな時代を享受した。
アルティアの語る、全ての人間が統一された旗の下にあり、誰もが救われ誰もが幸福である時代とはならなかったが。それでも、精霊に支配され、竜に睥睨され、巨人に統括された時代よりは良いのだろうと、ドーハスーラはそう思う様になった。
アルティアや仲間であった人間以外をドーハスーラは気に入っていなかったが。それでもかつての如く忌み嫌おうとは思わない。
そうなるとアルティアが失われた後、彼には行うべき事がなにもなかった。憎むべき敵も、信じるべき主もいない日々。酷く虚しい生が続いた。
だから、故郷であった南方で全てを終えようと思っていた、あの頃。
その時に聞いた声を、ドーハスーラは生涯忘れない。
――ドゥー。私は誤っていたみたいだね。もう一度、やり直そうか。全てを塗りつぶし、世界という絵画を描き直そう。
ドゥー。ドーハスーラを指す愛称。それを呼ぶのは当時の仲間たちだけで、そうしてこうも親し気に語るのは、一人だけ。
けれど、その声質はどこまでもかつてとは違っていて。心臓を鷲掴みにされるような感触を、今でもドーハスーラは覚えている。
◇◆◇◆
「――アルティアは滅びてなぞいませんでした。ありとあらゆる魔性を殺した彼女の魂は、もはや魔性そのもの。大魔の主たる存在になって、存続し続けてしまったというわけで」
ドーハスーラは遠い彼方を魔眼の中に映して言う。口調は彼特有のものだったが、声色がどこか寂し気なものに聞こえたのは気のせいだろうか。
それらの言葉に頷いて応えつつ。それで、と。続きを促した。巻角は軽く傾き、彼の瞳が細まっていく。
「此処から先は大したことはありませんよ。アルティアの魔魂は、尚此の世に影響を与え続けました」
原始的宗教組織を大聖教へと造り替え、信仰をもって人の統一を成さんとした。恐らくはその流れ、神として人の口を通ずる上で、彼女の名前は大英雄アルティアから男性名である救済神アルティウスへと変貌したのだろう。
アルティアは思い知ったのだと、ドーハスーラは語る。
人は国家による統一なぞされない。彼らは誰彼も個の蛮たる望みと欲求の為に事を成し、全の事など何一つ考えない。威光と力で抑えつけても、いずれは必ず滅びが来る。
ならばもう、統治など出来ない。支配するしかない。
何も成させず、何も思考させず、ただ望み願う思想だけがある。平伏し知恵を捨て、赤子のように何も出来ぬようになり。学びは死に、書物は焼き捨てられる。
其処でもってようやく、人は支配を知る。統一は成る。誰もが救われ、誰もが幸福である時代が来る。その時、彼らはこう願うのだ。
――願わくばこの手に幸福を。
そう、ドーハスーラは語り。愉快げに唇を開いた。
「ただそれだけですよ。その中で俺は、此処を護る様に命じられた。後に英雄が来るまでの間、ずぅっとね」
彼の言葉を噛みしめつつ、頬杖を付く。瞼が妙に熱かった。
言葉を練りながら、それは指輪を護るためかと口を開けば、彼は軽く眼を見開きながら答えられないとそう言った。指を、軽く折り曲げる。
駄目だ。理解が及ばない。
情報が頭蓋の中に幾つも詰め込まれ、乱反射を起こしている。何が正しくて何が正しくないのかをどうにも処理しかねているのだ。
アルティウス――アルティアの過去。その目的は一言で断じきれないほどに壮絶だ。もとより人の一生は一言で語り切れるほど易くはないが。
だが、それにしたって呑み込むには棘が多すぎる。無論、ドーハスーラが全て真実を語っているとも限らないし、情報の脚色や欠損がある可能性はあるのだが。それでもだ。
「――信仰での統一なんて言っても。酷く気が遠くなる話よ。それに、大聖教徒の中にだって知恵の排斥を嫌っている勢力はいるでしょう」
フィアラートが、何とか言葉を探したようにいった。それはきっと正論で、アルティアの思想を斬り捨ててしまえるはずの一言。
けれど俺の頭蓋の中には嫌な予感が一つ、あった。それはいくら何でも、悪い想像が過ぎるんじゃあないかと自問する。
だが同時に、直感があるのだ。背筋を痺れる様に這う、それ。余りに醜悪で腐臭のするその想像。ドーハスーラは、フィアラートの問いと俺の予感に応ずるように、言う。
「簡単な話でしょう。お前ら人間は、何時だって窮地になれば統一される。以前はそうだった。なら、もう一度そうすれば良いだけですよ」
それこそ、全人類が抗しがたい災害でも前にすれば良い。全ては丸く収まる。誰もが救われ誰もが幸福な時代が来ると、ドーハスーラは語った。
眦が、震えたようにしながら上がったのが、分かった。
死雪蝶が、窓の外に見えていた。




