第三百四十二話『政機院は謳う』
ガーライスト王国王都アルシェが、俄かに騒めきを孕みだす。
其れは雨脚のように徐々に強まりはじめ、そうして何時しか豪雨となりはじめた。噂が不安を呼び、不安が恐怖となり、恐怖がまた新たな噂を作る。
番人ヴァレリィ=ブライトネスへと伝令が走る暫し前、王都には一つの噂が漂っていた。
――魔獣が群れとなり津波となり、災害となってガーライスト王国を向いている。
王城内、政機院。煌びやかに飾り立てられた議場内に、ガーライスト王国の重鎮、そうして上級貴族達が群れを成している。
其処に列席するものは誰も彼も黄金や銀糸にて編み込まれた装いを身に着け、紛れもない繁栄と栄誉とを胸に飾っていた。
此処は高貴なるものの殿堂。そうしてガーライスト王国の政治を実質的に取り仕切る者らの集まり。少なくとも彼らは心の奥底でそう理解している。
そんな、本来はぼそりぼそりとした声しか聞こえてこぬはずの議場が、今日ばかりは様子を違えている。
時に聞こえるのは荒げた声に、円卓を強く叩く音。使用人たちが慌ただしく走っては、ワインや記録皮紙を抱えていく様子が見えた。
胸元に幾つもの勲章を掲げた上級貴族が、唇を固くしながら言う。
「国軍に加え、全貴族私兵の派兵など常軌を逸している。今は死雪。其れにどれだけの国費と人員が費やされる事か。また、南方のイーリーザルド、東方のボルヴァート朝への抑えもある。どうお考えか護国官!」
其れは数多くの私兵と城を有する、ギルレアージ家当主の言葉だった。その鷹のように獰猛な目つきは、この広い政機院の中ただ一人の男を見つめていた。
上級貴族ともなれば、その声の質から身振り手振りまで、全てが完成されたかのような振る舞いを見せる。特に彼は、此処でどのように振る舞えば味方を多く作れるかという事をよく知っていた。
けれど、獰猛な視線も、貴族としての振る舞いも気に掛けぬまま。視線を与えられた細身の男は言う。白い顔が、金を縁取った黒色の衣服に包まれていた。
「国家の為だ、ギルレアージ卿。国家が無ければ卿の領地も特権も失せて消える。そうならない為に肝要なのは戦力の集中のみ。分からぬ事ではないだろう」
その言葉に、一瞬ギルレアージ家の当主は鼻白む。此の男の言葉は何処までも静かで、妙に喉に響いてくるように思われた。一瞬だけ政機院が静寂に包み込まれる。
護国官ジェイス=ブラッケンベリー。国軍の全権を握り、政治の場において尚大きな影響力を誇る者。
とはいえ、彼が政治の場に姿を現す事は珍しい。軍事と政治とは、遠くあるべきだというのが彼の理想であるからだ。
そのブラッケンベリーが、政治の中心地たる政機院に姿を見せている事自体がすでに異常であった。
要因は、ただ一つ。
北西から湧いて出た魔獣群。日に日に被害を拡大させる其れを、紛れもない脅威であるとブラッケンベリーが判断した。
そうして彼は言う。あれは国軍だけで抑えきれるものではない。貴族の私兵をも投入すべき脅威だと。
無論、本来は貴族の私兵も当然に国家の兵である。国王は貴族に領地と特権与え、貴族は国王に仕えた上で兵を擁しているからだ。
ゆえに、全ての貴族は国王の号令があれば、其処に兵を集結させる義務がある。
だが国軍かと言われれば、厳密にはそうではない。ブラッケンベリーが権限を持つ国軍とはつまり、国王直轄の私兵の事。国費でもって養育している職業軍人達を指す。貴族の私兵に対し、彼は権限を持ち得ない。
ゆえに今、ブラッケンベリーは此処にいた。貴族の群れ。虚栄と憎悪、そうして欲望の坩堝に自ら脚を踏み入れ、彼らを飼いならそうとしている。
「北西の魔獣は卿らが思うほどに容易いものではないと私は断じる。兵の逐次投下など愚策の極み。私は即時、守備兵を除いた全兵力の動員を提案する。指揮と責任の全ては護国官たる私が担う」
ブラッケンベリーの断言に対し、馬鹿げている。たかが魔獣だと、貴族らの大部分がそう語る。
たかが魔獣。此れはある程度の位を持つものにとっての共通認識と言っていい。魔獣とは脅威ではあるが、いわば夜盗と変わりはない。適切な対応をすれば、何ら恐怖はない存在だ。それよりも、他国の軍の方がよほど凶悪と彼らは考える。
ゆえにブラッケンベリーの言葉に賛同しようというものは少数だった。特に上級貴族ともなれば、その傾向は顕著となる。
その中で一人、一際大柄な男が両手を振るい議場へ声を響かせた。
「私はブラッケンベリー護国官に賛同致しましょう。軍とは必要な時、必要な場所に投下されるべきもの。抱えるだけでは無用の長物となり得る」
声の主は、上級貴族たるロイメッツ=フォモール。彼のその言葉に、少しばかり議場がざわめき、音を立てた。
上級貴族であり、政治的分野において大きな地盤を持つロイメッツの言葉は、他の貴族の言葉より遥かに重い。
反対派の主軸であってギルレアージ家も、ロイメッツの言葉には眼を剥いた。というのも、別段ギルレアージ家はロイメッツと反目しているわけではない。むしろ常日頃は手を取り合い利益を共有しあう事すらある。
それは互いに、話が分かる相手だと理解しているから。馬鹿げた事を言いだす人間ではないと信用しているからだ。
「……フォモール卿。私は正道を主張しているつもりだ。卿は何をもって全軍の出動が必要とされるのか」
言葉を唇からひねり出し、ギルレアージ家当主はそう言った。ロイメッツほどの男が、護国官の言葉にただ乗せられているとは考えづらい。
其処には何らかの思索と、そうして打算があるはずだ。人間、いや貴族というものは例え国家の危機に至っても、打算と謀略というものを止めようとはしない。むしろそんな時であるからこそ、手足をばたつかせようとするのかもしれなかった。
「北西大地は我らガーライスト王国の土地でありながら、その半分が大聖堂の直轄地となり、また半分は魔獣の足元に踏みつけられている。我らの自由となる土地はないに等しい。その上、死雪となれば暴れまわる魔獣を前にして国費は出血を続けるばかりではないか」
ロイメッツが、元々大柄な身体を振るい、議場全体に語りかける。その言葉の節々には熱が灯り、周囲の耳へ自然と入り込んでいった。
此の男は、政治の場で度々こういった姿を見せる。扇動するのではなく、他人の共感を友とする方法を得意としていた。
「故に今こそ出血を厭わず魔獣共を叩き付けるべきであろう。死雪であればこそ、他国も大きな動きは見せられまい。その間に――我らは失地の一部を回復する。此れはその為の機会だと私は考えている、ギルレアージ卿」
失地回復。その言葉はガーライスト人、特に貴族の心にはよく染み入る。幼少のころから、心に刻み込まれ続けているからだ。両親から、教師から、周囲全てから。
かつてガーライスト王国は、偉大な帝国であった。数々の王国を併呑し、繁栄という名の美酒を嗜み、栄耀栄華の全てが其処にあった。西方から東方に至るまでを領土とした。
帝国の名を――アルティア。アルティア統一帝国。人類が最も偉大であった時代。
しかし栄誉とはいかなる時においても、いずれは崩れ去るもの。
偉大であった最初の皇帝が失われた後、国家は分断され、領土は失われ、当時のアルティア王都であったガーライストも帝国から単なる国家に成り下がった。
その時の事を、未だガーライストの貴族達は忘れられない。
例えそれが遥か過去の事であったにしろ、己らはその偉大なる者の末裔なのだ。至上たる帝国の子孫であるのだという想いが、彼らの魂に染みついている。
失地を回復し、いずれはかつての栄光を取り戻す。それこそが、ガーライスト貴族達の胸底にて共有される一つの理念だ。無論、それが夢物語に近しい事は誰もが理解しているが。
だが、それゆえにこそロイメッツの言葉は少なからず貴族達の胸を撫でた。確かに金はかかる。死雪ともなればそれは莫大な出費になるだろう。
だが、その先に見返りがあるならば。栄誉が与えられるのであれば。それも良いのではないか。
そう、僅かに天秤が傾きかけたその時。もう片側の皿を抑えつける者がいた。
「――お待ちください。議論が性急を過ぎると思われます。事が重大であればこそ、より慎重に足元を探るべきでしょう」
女の声だった。震えたような所はなく、むしろ議場そのものを睥睨するような声。未だ若い身でありながら、堂々とした素振りで彼女は言う。
「それに、全ては国王陛下がご決断なさる事。臣下である我らが過ぎた議論をするべきではありません」
女の名は、オリヴィア=ベルチ。上級貴族でありながら大聖堂に融和姿勢を見せ、大聖堂直轄地の商業利権を獲得するまでに至ったベルチ家の息女。
未だ年若い彼女が此の政機院に出入りし、堂々たる振る舞いが出来るのには大きく二つの理由がある。
その一つは、本来の当主たる彼女の父が長く病床にあり、代理を取り仕切れるだけの才覚を持った者が彼女しかいなかった事。そういった面で言えば、まさしく彼女は優秀だった。
だが如何に優秀であったとしても、脆弱な基盤しか持たぬ者が発言権を得るほど政機院は粗雑な場所ではない。それに年若き者の言葉を、元老達は嫌うものだ。
詰まり要因は、もう一つの方にあった。
――それはオリヴィアが、聖女たるアリュエノと懇意である事。
聖女という存在は、ガーライスト王国において尚影響力を大とする。大聖教嫌いを標榜するものですら、その点には触れようとしない。
ゆえにこそオリヴィアは、この場で本来持たざるはずの発言権を有していた。鈴が鳴るような声が、議場に響き渡る。
「――国王陛下、如何いたしましょう」
オリヴィアの声に、誰もがその顔を上げる。議場の者らより一段上の場に、その王はいた。
ガーライスト王国の頂点。国王アメライツ=ガーライスト。長く垂れ下がった白髪の中には深く刻み込まれた皺が幾つも見えている。
アメライツ王は治世王と尊ばれ、一代にしてガーライスト王国内の法と裁判制度、治水を整備しなおした。まさしく名君と、そう呼ばれた。
今となっては、全て過去の事に過ぎないが。
老いか、それともまた別の何かか。名君の慧眼は暗く変わり果て、ついには目の前のものすら見えているのかすら分からなくなってしまった。その姿には、治世王と呼ばれた頃の姿は欠片も見えない。
老王を前にして、議場の誰もが沈黙する。そうしてゆっくりと掠れた声が零されるのを、待っていた。老王の皺が深く、刻まれる。
「……ブラッケンベリー」
その名を呼ばれ、護国官ブラッケンベリーが恭しく頭を垂れる。そのまま老王は数秒考え込んだようにしながら、言葉が続けた。
「お前が王都を離れること、罷り通らん。お前は国家の盾、立場をよく考えよ。北西魔獣には国軍の半分をあて、半分は王都の守りとする。必要であれば、諸侯の協力も仰ぐように」
言葉はそれだけだった。議論の全てを斬り捨てる様に老王は言い切り、ひじ掛けに体重をかける。それはもう語る言葉は、ないという事。
そうして此の政機院において、国王が判断を下した物事に対しもう一度議論を重ねる事は許されていない。
貴族諸侯。ブラッケンベリーに至るまでの全てが、頭を垂れ。その言葉に従う事を宣誓した。数々の思惑と道理が、今此処に砕け散る。
ただオリヴィア=ベルチだけは、その頬に緩やかな線を描いていた。