第三百三十九話『窮地されど好機』
宝剣の刃がヴァレリィの首先を跳ね飛ばすまでの、瞬きほどの間。英雄殺しの銘が浮かび上がった宝剣が煌き、刃を押し込むまでの僅かな時間。
息を呑むことすら出来ない極小の空白に、其れは放たれた。
風を断絶する音が鳴り、それらを置き去りにして鉄塊の如き重圧が俺の腰骨へと食らいつく。視界の外、右手側の死角から其れは来た。
骨が砕かれるどころではない。体躯そのものが上下に分け隔てられてしまいそうな、その一閃と衝撃。
何だ、これは。俺は今何に攻撃を受けている。まるで理解が及ばない。いいやヴァレリィが何かをしたのか。いや、それとも。
そんな取り留めのない疑問が一瞬の間に脳内に湧き出、そうして消えていく。次々に視界に入り込んでくる情報の渦が、俺に思考を許さない。状況を理解する事すら出来なかった。
だから、右手側から与えられる勢いのまま、本能に従って跳んだ。何もしないよりは、ずっとマシだ。宝剣の先は魔術鎧の端を掠めるだけに終わり、俺の体躯は中空へと投げ出される。
其処に至ってようやく、俺は自分が奴に蹴り飛ばされたのだという事に気付いた。ヴァレリィが左脚を高くあげながら視線を動かしているのが分かる。
馬鹿な。ふざけている。俺は奴の腕を弾き飛ばしその態勢を崩してやったはずだろうに。どうして其処から次の一振りを放てるんだ。
ヘルト=スタンレーでもあるまいに。そういった真似は奴だけで十分だ。
そんな想いと同時に、俺の身体は硬い地面へと投げ出された。好き放題に積もった雪など、何ら助けにもなりはしない。まるで鉄に打ち付けられたかのようだった。随分と長い間、中空に放り投げられていた気がする。
数秒の間、身体は混乱したかのように痛みを発しない。未だ何が起きたのか、四肢は理解していないのだ。そうして次の瞬間に、其れは来る。
胃液が逆流し、身体の内部が破れ血が込みあがった。全身の骨が悲鳴をあげ、筋肉は何者かに無理やり引きちぎられたかのよう。流石に此の身体も今の衝撃には耐えかねたのか、塞がったはずの傷が次々と開いたのが分かる。
最悪だ。不味い。早く、奴から離れなければならない。
「――貴様、呪詛者か。通りで。それゆえの丈夫さ、それゆえの不敵さというわけか」
立ち上がれば腰が破裂するような音を鳴らし、血を吐き出す。身体を傾けながら、その声を聞いた。此の立ち合いに至ってから初めて聞くヴァレリィの声だ。
その人を何処までも見下したかのような声は、酷く癇にさわる。
「悪いが俺の性格は昔から変わってなくてね。見る目が無いっていわれないかい」
呪詛者。時に異端者、祝福を受けた者とも呼ばれるそれ。時代によって様々な意味の変遷を受けてはいるが、それでも根本の所は変わらない。
精霊や妖精、魔。詰まり大聖教が認めぬそれらの祝福を受けた者。呪縛に魅入られた人間を指して呼ぶ言葉だ。といっても、そんな悪趣味な言葉を使うのは大聖教の人間だけだろうが。
まるで使い物にならない腕をぶらさげながら、何とか宝剣だけを握りしめる。指の感覚だけはあったが、しかし剣を振るう事は出来まい。
地面に投げ出された際、肘から落ちてしまったらしい。腕そのものが上がりそうになかった。
さて、窮地だ。どう盤面を押し返す。どうやって、奴を地面にたたきつけてやろうか。不思議な事に、そんな思考が俺の中には溢れていた。だが当然といえば当然だ、敗ける訳にはいかぬのだから。腕が上がらぬ事など関係ない。
死雪の中、眼を動かす。そうしてヴァレリィと一歩、間合いを取った。ヴァレリィがその気になれば即座にで失われるだけの距離だ。
どうにかして、一瞬が欲しい。ヴァレリィの視界を誤魔化さねばならない。
「……そういえば、俺がお味方を傷つけたとか言ってたな。心当たりが多すぎるが、何処のどいつのことかね」
口を開き、眼を大きくして言う。何とか右手を宝剣に沿えた。見せかけだけでも、正常を装わねば。
だがまぁ、恐らく意味はないだろう。ヴァレリィは紛れもない歴戦の猛者だ。俺の状態などとうに見抜いているに違いなかった。それこそ、下手をすれば一騎打ちの前から。
だから俺の悪態など何の意味もなさず、そのまま頭蓋を砕かれてもおかしくはなかった。それこそが騎士道だと言わんばかりに。
けれどどうしたことか、ヴァレリィは一瞬眼を細めてから口を開く。
「リチャード=パーミリス。彼は貴様の師だろう。どうして彼を裏切った。それもよりによって旧教徒なぞの手を取って」
聞きなれた名を聞いて、眼を丸める。冷たい空気が口の中に入り込んできた。
ヴァレリィのその言葉には、紛れもない熱が詰まっている。闘争の最中にさえ冷徹に振る舞っていた女が、その言葉を発する時にだけは正気ではなかった。
あの爺さん。此の女と何があったんだ。爺さんと比べれば随分と離れた年頃だろうに。いいや、我が師であるならば何を起こしていてもおかしくはないのだが。それでも、正直どうかと思う。
だが、まぁ。どのような関係であったとしても。爺さんの存在が、此の女の魂を揺り動かしてくれたのなら、感謝してもしきれない。雪を一歩、踏む。
「なんだよ、顔見知りか。隅に置けないな、爺さんも」
殆ど掠れた声で言う。言葉を発する度、喉が裂けたような痛みを覚えていた。
「理想を誓い合った仲だ。共に祖国を偉大にすると誓った。最後だ、応えろ。どうして彼を裏切った」
語る口は冷静そのもの。言葉の色も鋼鉄だ。けれどそこには確かに、情動が潜んでいる。
やはりだ。此の女の逆鱗は其処だ。
ヴァレリィ=ブライトネスという人間は、完璧だ。かつてのヘルト=スタンレーに近い煌きすら見せている。紛れもない英雄で、吐き気のする高潔さ。恐らく本来付け入る隙などまるでない人間だろう。
けれど、此処に一つだけ逆鱗を見せている。あの偉大な竜ですら、触れられれば情動に塗れ怒り狂うとされる其処。ヴァレリィにもそれがあった。
そうしてどんな人間であれ情動に揺さぶられるのであれば、それは俺にとって案山子と同じだ。
「人聞きの悪い言い方はやめてくれよ。誰が裏切ったっていうんだ。俺は俺に都合が良かったから爺さんを利用した。爺さんも同じさ、俺と爺さんはそういう人間なんだ」
口の中で言葉を練って、言う。視界の端に、視線を寄せていた。
「なぁ、ヴァレリィ。お前まさか――爺さんに利用されてる事に気づいてないのか? 憐れなもんだな、同情するよ」
瞬間、怒気が頬を焼いた。距離を取っているというのに、それでも十分に感じられるだけの底知れない憤激。其れが直線に俺を貫いている。
間違いがない、凡人には持てぬだけの熱量が其処にあった。ヴァレリィの眼が見開かれ、その犬歯が鋭く尖りを見せる。
彼女の眼はもう、殺意しか秘めていない。魔獣が持つ凶たる意志にすら匹敵するに違いなかった。そうして、その意志をもってヴァレリィは、言う。
「楽には殺さんぞ、大悪」
群青が、雪中を駆ける。一瞬もすれば、彼女の拳は俺を突き刺すだろう。それを躱す余力も、受け止めるような真似ももう俺には出来ない。
けれども、此の一瞬だけは買えた。今まで油断なく周囲にも気を配っていたヴァレリィは、今この時俺しか見ていない。
ああ、此の一瞬が欲しかった。そうとも、俺は大悪だ。だから此処で無駄な騎士道に従ってやる意味もない。
背後へと、本当に倒れ込むような勢いで跳ぶ。それだけで十分だった。視界の端で、魔術の極光が駆けている。
――天蓋を貫け。炎の蛇よ、世界を溶かし怨敵を骨も残さず食らい尽くせ。
世界を歪めながら、炎を渦巻かせた蛇がヴァレリィへと顎を開いたのが見えた。