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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十三章『大災害編』
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第三百三十八話『祖国の敵』

 監獄ベラの大門を前にして、ヴェスタリヌが俺に向かい唇を尖らせる。幾ら言葉を費やしても言い表せぬであろう幾つかの感情が、その表情には同居しているようだった。


 彼女は素直で実直な性格だが、どうにも今はそれが悪い方向に出ている様だった。


「……貴方が一騎打ちなど、正気の沙汰ではありません。此れでは、命を自ら泥に塗れさせるようなもの。身体の傷が癒えてもいないではないですか」


 彼女の口がようやく言葉を見つけてそう言った。声色は不満と憤激が煮詰まっているかのよう。


 酷い言われようだ。指揮官自ら敵の眼前に命を晒して時間を稼ごうというのだから、激励の一つや二つはしてくれても良いのではないだろうか。


 その行為が良いか、悪いかは別としてもだ。何、命を泥に塗れさせるのはもう慣れたもの。安心して欲しい。


 ヴェスタリヌはその後も言葉を幾つか重ねたが、それでも尚言い足りぬようだった。恐らくは、何かを吐き出せば収まるという類のものではないのだろう。


 けれども、残念ながらそれ以上の言葉を聞き続ける事は出来ない。出来る事ならそのまま援軍を待ち続けたい所ではあったのだが。


「もう血は止まった。俺には十分すぎるさ」


 深緑の軍服から雪を拭いながら、軽く血で滲んだ箇所を指で撫でる。傷自体はまだ確かにあるのだが、血はもう流れていなかった。その異常さは不気味だが、同時に心強くもある。果たして俺は真面な身体に戻れるのだろうかという疑念はあったが。


 冷たい空気が、鼻孔に入り込む。喉が小さく鳴った。軽く指を握りこむ。


 口で十分と言いはしたが、明確に体力は足りていない。身体の多くが失われてしまっている感触がある。


 果たして後、どれほど動けるものだろうか。


 今この時、片手ほどの余裕すら俺にはなかった。いや、余裕がないのは何時ものことなのだが。何時も以上に、何もかもが足りない。


 このありさまで、あの女と敵対するのか。そう思うと、怖気が踵の底から込みあがってくる。


 ヴェスタリヌと、そうして自分自身に言い聞かせる様に口を開いた。


「此れは戦争だぜヴェスタリヌ。傷が出来たから治るまで待ってくれだなんて、敵に言えるわけないだろう。どんな時であれ敵がいるなら、やるべき事をただやるしかない」


 傭兵の姫君なら分かっているだろうと、そう続けた。ヴェスタリヌは唇を拉げさせ、まるで俺を睨み付ける様に眦を上げながら、言う。受け取った言葉は、死雪の寒気に覆われてぼやけていた。

 

「死なれたならば、怨みます。姉と共に、とてもとても怨みます。それこそ一生を掛けて」


 妙に、熱の籠った声だ。勘弁してくれ。カリアやフィアラートじゃああるまいし。そういう物騒なのはもう十分に足りている。


 ヴェスタリヌのそんな脅迫染みた言葉に、返事はしなかった。ただ後ろに向けて軽く腕を振って前へと出る。


 何、彼女なら後は上手い事やってくれるはずだ。俺よりずっと器用で優秀な人間である事は十分に分かっている。


 貴族としての教育故だろうか。軍事の統率者という面で、ヴェスタリヌは傭兵の長なんぞに収めておくのには勿体ない程の行動力と知識を持っていた。


 なればこそ、例え俺が敵将を前にして愚かしい最期を迎えても。それはそれで上手く物事を運んでくれるはずだ。そう信じている。


 腰元に揺らした紫電の宝剣が、嘶くように蠢動した。その様子はまるで何かを予感しているかのようだった。


 監獄の大門が、軋みながら僅かにその口を開ける。視界の先、死雪が覆い尽くす真白の中に、その女はいた。


 馬から降りて此方を待ち構えるその姿は、何処までも堂々たる英雄そのもの。群青色を基調とした魔術鎧が、よく映えている。


 そうだとも。あれは紛れもない英雄だ。かつての頃、彼女がいたからこそガーライスト王国はその息の根を長く繋ぎとめていた。


 ――ヴァレリィ=ブライトネス。かつて魔人のみが殺せた女。魔人にしか殺せなかった女。


 可能であるならば、敵対したいとは思わなかった。いやむしろ、敵対しようなどとは夢にも思わなかった相手だ。考えるまでもなく、戦場での経験もその技量も、全てが俺を上回る事だろう。


 けれども、だからとはいえむざむざと敗北するわけにはいかない。それは、俺と俺を信じる者への侮辱だ。そうして乗り越えて来た者達へ唾を吐く行為だ。


 ああ、それだけは嫌だ。何を差し置いても、嫌だ。


 その言葉を、胸の奥で噛んだ。


 ◇◆◇◆


 その一騎打ちに、始まりの言葉は無かった。


 恐らくは二人が其処に立った時点で、互いにそれが合図だと理解していたのだと思う。何を言うでもなく俺は宝剣を引き抜き、ヴァレリィは魔術鎧から身を刺すような眼光を煌かせる。


 そうして、次の瞬間には群青の魔術鎧が白雪の海を走っていた。同時、明確な殺意とそれを成すだけの力を持って得物が振るわれる。


 番人たるヴァレリィが振るうものは鉄剣ではない。其れ一つでは多数の魔物を相手どるのに適していない。かといって騎士がお得意とする馬上槍でもなければ、戦斧やまして暗器の類でもない。それらは魔物の群れを前にしては、余りに繊細に過ぎる。


 無論、必要になれば彼女はそれらを幾らでも用いれるのであろうが。今は違う。


 ヴァレリィが扱うものはただ一つ。魔術鎧そのもの。故に彼女が振るうのは、己の身体。


 本来は鎧は武具ではなくただ人間のか弱い皮膚を守る装甲に過ぎない。けれどもあの魔術鎧に関しては全ての例外だと聞いている。


 流石に詳しくは知らないが、ありとあらゆる武器より優れ、ありとあらゆる防具に勝るのだと。勿論、全ては伝聞に過ぎないが。


 だがそれでも、その無骨極まる武装で彼女が何をしてきたのかは想像に易かった。


 詰まり魔獣の頭蓋から背骨に至るまでの全てを、砕き殺してきたのだ。ただひたすらに。あの魔術鎧にはそれが可能なのだろう。


 そうして今、その愚直な殺意と武威がヴァレリィの右拳に乗って、俺の命そのものを破砕せんと迫っている。


 背筋をうねりのような怖気が早足に駆け抜けていった。刃物を突き付けられた方がよほどましだとすら思われる。


 反射的に腰を駆動させ、足首を鳴らして宝剣をその軌道に合わせた。其れはヴァレリィの拳を弾き、そのまま奴の首筋を斬獲する為の一振り。紫電が唸りと共に一線を描き、群青へと食らいつく。


 描くべき道筋は明確に眼の中に見えている。眼前で、宝剣と魔術鎧が接合した。

 

 ――同時、空間に大きな孔が開いた音が鳴った。其れは紛れもない力と力の衝突音。


 雪上に火花が散り、白の中を煌びやかに彩っていく。其れが、数度。


 宝剣は敵の拳を弾き切ることが叶わない。否、それどころか完全に受け止めきられていた。押し込むこともまるで出来そうにない。


 首筋が粟だつ。此の儘では、死ぬ。態勢を立て直すべく、咄嗟に剣先を引いた。そうして相手を蹴り上げるような勢いで背後へと跳ぶ。


 けれどその時点で、ヴァレリィは腰を回転させ二撃目を発する準備を整えている。僅かに身を引いた俺へと向け、暴風を振り落とすかのようにそれは発された。

 

 瞬間、空が爆ぜる。頬肉の端がそぎ落とされ、血と肉が死雪を覆っていった。歯が痺れたかのように痙攣する。後一歩分拳がずれていれば、その千切り飛ばされた頬肉は俺の頭蓋そのものだったのだと理解した。


 けれどもはや、無事を安堵する間すら俺には与えられていない。ヴァレリィはそのような猶予を許さない性分であるらしかった。


 無呼吸の内、三撃目がもう握り込まれている。間合いを取るような余裕は到底ない。受け止める態勢も整っていない。そうしてヴァレリィの右拳は明確に俺の急所を付け狙っている。


 ヴァレリィの動きは全てが巧く、そうして速い。何もかもが息を呑むような洗練の粋に溢れていた。恐らく俺は彼女の思うままに振り回されているに過ぎないのだろう。


 改めて理解する。身体的にも、技量的にも長期戦は到底望めない。そうなれば必ず俺は敗北する。


 なればこそ、次の一振りで首を刎ねるしかない。俺の勝機とは詰まりその一秒にも満たぬその一瞬だ。


 何、十分に過ぎる。


 反射的に腰を駆動させ、腋を締めて両腕を引き絞る。そうして宝剣の柄を持って、横殴りにヴァレリィの右拳を弾き飛ばした。


 同時、全身の肉という肉が絶叫をあげながら跳ね上がる。骨が、戦場の熱でも覆い隠し切れぬほどに悲鳴をあげていた。


 ああ、構わないとも。ヴァレリィの拳を弾けたのなら俺の全身が打ち砕かれても尚有り余る功績だ。


 もはや感覚すら失われた指先に力を込めながら、渾身の力で宝剣を握りこむ。そうして一切の呼吸なく紫電を波打たせた。


 魔術鎧とは言え鎧である以上必ず継ぎ目がある。首筋は、その一つ。接合部であるが故、強固な造りには成り得ない。打ち砕いてでも必ず殺す。首を刎ねて殺す。


 同時、俺の意志に重なるようにして、其れは確かに聞こえた。


 ――此処で、ただ死ね。祖国の敵。


 耳に、風切り音が入り込んでいた。

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