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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十三章『大災害編』
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第三百三十六話『銀縁群青』

 間近で聞くその声は、酷く落ち着いたもののように思われる。とても年相応には思えぬ声だった。ある意味、噂に聞く姿そのままといえばそうなのだが。


「敵影とやらはどれだ。死雪の中、大層熱心な事だな」

 

 ベルフェイン傭兵であり、ヴェスタリヌの副官でもあった男はその声に指をさして応える。心臓が鈍く跳ね打ち、自然と息が荒くなっていた。


 未だ距離があるとはいえ、すぐ其処に二千は数えようかという兵が集まっている。


 対してこちらは三百が精々。監獄という名の要塞を抱え込んでいるとはいえ、十分な数とはとても言えない。


 敵影を指し示した手が知らず震えを起こす。男とて傭兵だ。戦場は幾度も経験してきたし、死が胸先のすぐ近くを掠めたこともある。先ほどまで談笑していた戦友が、傍らで絶命した事は何度もあった。


 けれども、此れはそれらとは別種の恐怖だった。


 圧倒的な数の敵が、己らを殺しに武器持ち迫りくるという恐怖。死がじわりじわりと、蹄の音と共に首を絞めにくる戦慄。


 踵から徐々に、それらが浮かび上がってくるのを男は確かに感じていた。


 本来傭兵があるべき戦場とは、こういう場ではない。傭兵は常に、有利な側か金持つ側に与するものだ。幾ら命を担保に金貨を稼ぐ職業とはいえ、自ら死地に飛び込むような人間はそう多くなかった。


 だからこそ、男の心臓は今までになく戦いている。此の死地を連れ込んできたのは誰だと、思わずそう問いかけたくなった。


 否、分かっている。そのような事問いかける必要もなく皆理解しているのだ。


 眼前の、此の人間。紋章教の英雄が、己らを死地に連れて来たのだ。そう思うと、愚痴の一つも垂れたくなる。だからため息を吐くように男は言った。

 

「悪い情報が二つあります」


 紋章教の英雄、ルーギスは軍服を羽織ったまま、肩を竦めて続きを促す。傍らでは傭兵達の主たるヴェスタリヌ=ゲルアが、彼に付き従っていた。

 

「囚人達ですが、誰も彼も疲弊しとります。歩く事くらいなら出来るでしょうが、兵としては数えられんでしょう」


 男が語ったのは事実だった。囚人達は拷問を受けていない人間でもろくな食事を与えられていない。とてもではないが武器を持って戦うなど出来そうになかった。


 もし戦場に出すのなら、出来るのは肉の壁となって敵の歩みを止めるくらいのもの。物の役には立たない。逃がすにしても相応の時間がかかるだろう。


 ルーギスは男の声に歯を鳴らしながら応える。元から大した期待もしていなかったのだろうか。その剣呑な瞳に動揺は見られない。


 だが、次はどうか。男は胃の中に重いものを感じながら口を開いた。言葉一つ出すのが酷く億劫だった。


「物見が奴らの装備と馬を見ました。装備が、銀縁に群青生地」


 男の声を聞いて、ルーギスはすぐに唇を跳ねさせた。その眼が明らかに、炯々としたものを含んでいる。


「その話、どれくらい確かなものかね。よもや妄想じゃあないよな」


 眉を大きく動かして、男は言葉を練る。ルーギスが何を言わんとしているのかを、此の男は理解していた。理解していたからこそ、軽々には応えたくなかった。


 苦々しく、唇が歪んでいく。


「馬が異様に太い脚をしていたとの事です。間違いなく北方馬でしょう。銀縁群青に北方馬とくれば、もう決まったようなもんで」


 その先を男は口に出さなかった。言葉にしてしまえば、それがそのまま現実になってしまいそうな気がしたからだ。微かとは言え、そうならない可能性に縋りたかった。


 何故なら、彼女が其処に敵としているのであれば。紛れもない、逃れられない死が迫っているのと同じこと。それをよく傭兵達は理解していた。


 恐らくは、ヴェスタリヌも言葉の端からその名を連想したのだろう。表情が険しいものに変わったのを男は感じていた。

 

「……要請した紋章教の援軍がたどり着くとして、日数はどれほどでしょう」


 ヴェスタリヌが、男に向かって言った。男は必死に言葉を選んで、早くても丸二日はかかるとそう言った。


 ただ前線から監獄へと街道を走るだけならば一日で十分だが、此の死雪だ。二日は当然に必要となる。


 それに、ヴェスタリヌが要請したのは監獄を占有するのに必要となる兵のみ。数千を擁する敵兵に対抗できるだけの兵を用意するとなると、更に時間が必要かもしれない。


 だが、敢えて男はその事を言おうとはしなかった。悲嘆に暮れるだけならば、今出揃っている情報だけで十分だった。


 何せ丸二日を待たずとも、もうそろそろ明確に視認出来るほどの場所に、敵はいる。男の心臓がまた、鈍く鳴った。


 思わず、男は憎々し気にルーギスの方へと視線をやる。


 別段、男はルーギスの事を嫌悪しているわけではない。むしろ悪い人間ではなく、話が通じる相手であることも知っている。


 彼の行動は何処までも英雄的で、監獄ベラを鉄鋼姫と共に陥落させた事に対してはもはや言葉がない。帽子ならば幾らでも脱いで敬礼しよう。それが男子たるものの英雄への敬意の表し方だ。


 けれどもだからこそ、男は思ってしまった。此れは、手を誤ったのではないのかと。


 何せ敵の援軍は明らかにその動向が不可思議だ。


 無論、監獄ベラが紋章教の手に屈したとなれば兵を起こすのは当然の事だが、それは本来昨日の今日で行える事ではとてもない。


 然るべき日数を取って、兵が此方へと回される。そのはずだった。此れは明らかに早すぎる。


 少なくとも男は、事前に話を聞く限りルーギスの考えはそういった想定だったのだと理解している。


 敵の動きには時間がかかると思っていたからこそ、敵に察せられぬよう少数にて監獄を陥落させ、後詰を送らせるという手法を取ったのだろう。


 詰まり此れは、明確な事故だ。敵が本来有り得ぬ行動をとり、それが最悪の形で噛み合ってしまった。


 男は心の中で呟いた。


 ――あんたは確かに英雄だ。だがその英雄がいなければ、俺達の姫君がこんな窮地に陥る事もなかったんじゃないのか。


 そんな思いをもって、男はルーギスの横顔を見た。そうして眼を、開く。

 

「銀縁群青に北方馬――番人ヴァレリィ、ヴァレリィ=ブライトネスか」

 

 ルーギスは、まるで悪戯が成功した子供のような無邪気な声でもって、その名を呼ぶ。そうして変わらぬ素振りで口を開いた。彼は血が染み入る軍服を、普段着のように着こなしていた。


「――傑作だ。奴ら自分で自分の墓穴を掘りやがった。アレを十二度も止められるのが、彼女以外にいるものか」

  

 その言葉の意味は、男には理解しかねた。けれども眼前の英雄がまるで何かを喜ぶように、そうして楽し気に笑みを浮かべたのだけは、分かった。


 こうしている間にも、敵はその歩みを進めている。それは刃が首元に近づくのと同じことだというのに、此の英雄は何を考えているのだろう。


 男は、動揺や疑念というよりももっと純粋な心持でルーギスの瞳を見ていた。それは好奇心や、憧憬と呼ぶのだろう。


 少しずつ、少しずつ敵兵が雪を踏みつけにして監獄へとその身を近づける。そうしてある地点で、止まった。もう、監獄から弓が届こうかという際の辺りだった。


 外壁の外に並び立ったのは、銀縁群青。本来北方にて魔獣を相手取っている連中。無論それ以外の兵も混じってはいる様だが、最前線は彼らが埋めていた。


 守備につき、弓を引き絞った傭兵達は誰もが息を呑んだ。傭兵達の中で、銀縁群青は何があろうと相手にしてはいけない象徴だ。


 彼らは片手剣でもって軽々と人を引きちぎり、息をするように馬を駆けさせる。金を稼ぐために戦争をするのではなく、戦場があるから戦争をする職業軍人共。


 果たして奴らは本当に同じ人間なのか。本当に此の弓矢は奴らを射殺せるのか。傭兵達の胸中には、そんな思いすら浮かんでいる。


 その化け物の群れから、一頭の馬が抜きんでた。ゆったりとした足取りで、その所作は何処か優美さすら感じさせる。戦場には似つかわしくない様子だった。


 馬に跨る人間が、恐らくは指揮官だろう。息を呑むほどに鋭い顔つきと、眼をした女だった。


 彼女は、空気を震わせながら言葉を発する。死雪を振り払う、強い声だった。


「即時門を開け。さもなくば、我らは今から貴殿らを凌辱する。貴殿らは一人残らず死ぬ。投降すれば命だけは助けよう。今すぐに選べ――」


 上段から叩きつける声色だった。冷徹で人の喉を鷲掴みにするような言葉選び。その言葉の裏で彼女は、口ごたえも一切の抗弁も許さぬと断言している。


 誰かが唾を呑んだ。そうして、傭兵達は確信した。


 あれが、ヴァレリィ。嵐の代弁者と呼ばれる女に違いない。そう思うに相応しいだけのものを、彼女は有している。


 本来指揮官が伝令の真似事をするなど有り得ぬ事だが、彼女ならばやるだろう。何せ彼女には、弓矢などまるで意味がないのだから。


 誰もが口を開こうとすらしない中、彼だけが言葉を出した。


「――冗談だろう、番人殿。勝ちが決まった戦場で、背中を見せる奴が何処にいるんだ」


 英雄の頬が、犬歯を見せながらつり上がっていた。

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