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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十三章『大災害編』
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第三百三十五話『戦場の練達者』

 夜闇が掻き消え、朝日に焼ける雪原の中。悠然と佇む監獄ベラをネイマール=グロリアは見つめる。


 監獄の立ち姿は厳粛さというよりも、何処か退廃としたものを覚えさせた。それは此れが一世代前の建築物だからというわけではないだろう。


 監獄ベラは建築の先駆者たる先王が手掛けたものだ。彼の王がそのような拙さを見せるわけがない。


 ならば、原因は中で行われている事にあるのだろうか。白い吐息を、吐き出す。


 ネイマールの傍らで轡を並べながら、彼女の上官たるヴァレリィ=ブライトネスが重い響きを伴って言った。


「あれをどう思う、ネイマール副官」


 色々と必要である言葉を省き、それでいて物を含んだ聞き方だった。ネイマールは短い付き合いでありながらも、自らの上官がそういった言い方を好む人間だと理解している。


 悪気もなく、試す意図もなくこういうやり方なのだ、此の将軍は。


 だから、求められている内容を唇の中で探し、数瞬の間を置いてからネイマールは口を開いた。頭蓋の中ではかつて学んだ建築術の知識が回っている。ネイマールの三つ編みが、ゆらりと風に吹かれた。


「――少なくとも非常の事態は起きているようです。建物の構造上本来いるべき箇所に衛兵がおらず、此れだけの兵が近づいているというのに沈黙が過ぎます」


 勿論、監獄ベラにいる衛兵達の練度が極度に低い可能性もありますが。


 ネイマールがそう付け加えると、ヴァレリィは洗練された動き方で同意を示す。そうして軽く手綱を引くと馬首を返し、兵士達の下へと向かっていく。


 はて、此方の意見を聞いた上で何か行動なり指示なりが飛んでくるものと思っていたのだが。無言とはどういう事だろう。察して見せろという事か。ネイマールは眉を歪めながら思考を駆けさせる。


 正直、こういった面を見ると以前仕えた大隊長殿はとても楽だった。憎々しくはあるが、此方が悩む所があれば明確に指示や誘導をしてくれる。そういう所を思うと、良い教師になるのではないだろうか。


 いいや、あれほど皮肉がきいた教師は御免だが。


 ネイマールは唇を開いて、ヴァレリィの背中に向け言葉を投げかける。ヴァレリィの短髪が、僅かにだけ雪に絡みついていた。


「使者と斥候を出しますか。ブライトネス将軍」


 監獄が有する外壁を見れば、少なからず此方を警戒する人影のようなものは見える。どういう事態にしろ、無人であると言う事はあるまい。ならば接近する前に最低限の情報は得ておくべきだ。


 ネイマールが語った事は、ある意味定石通りの言葉だった。戦場においても、政治においても情報は何よりも価値を持つ。


 地方貴族であり、政治の場において幾度も辛酸をなめさせられているグロリア家の人間として、ネイマールはその事をよく知っていた。そうして、それを有効に活用出来ていない自らと我が家の不甲斐なさも。


 恐らくは、かつての大隊長殿であれば間違いなく己の言葉に頷いたとネイマールは思う。いいやむしろ、そんなもの了解を取る必要もないのでやっておけと、それ位の憎まれ口は叩いただろう。


 だからこそネイマールは思った。かつての大隊長殿とは反りが合わなかった。けれど、此の将軍と己とは、明確に視座が違う。


 ヴァレリィは振り向く事もなく言った。


「不要だ。私と貴殿の意見は合致した。アレはもう陥落している。鉄と血の匂いがする」


 私は其処までは言っていない。ネイマールは口の中でそんな言葉を押し殺しつつ、眼を開く。


 此れは己への信頼か、それとも情報の軽視だろうか。それとも有り余る経験の成せる業か。時折、こういった経験と直感を重視する将がいる事をネイマールは知っている。


 其れが良い悪いは別として、余りネイマールは好きではない。考えが見えない人間はどうしても意図が読み切れなくなるからだ。論理の信者であるネイマールにはそれは耐えがたい。


 ゆえに、次にヴァレリィが発した言葉はネイマールの心臓をより強く打った。


「――即時、攻城戦に移る。敵を踏み潰し、アレを奪還する。半刻で用意を、ネイマール副官」


 眼を、剥いた。思考がヴァレリィの意図を読もうとする前に、ネイマールは口を開いていた。


「どうかご再考を、ブライトネス将軍。敵の数は不明、また我らは多数が騎兵であり、攻城戦の用意も多くありません。兵糧こそ後陣が運んではいますが、それ以上の有利は無いと言えるでしょう」


 喉を張った声だった。危機感と、それでいて焦燥に満ち溢れた言葉。


 本来であれば、副官と言えど将軍に反論などすべきではないのかもしれない。経験も知恵も、ネイマールに比べヴァレリィは数段上を行くだろう。元よりネイマールとて、その程度のことは理解している。


 けれど、それでも口を開かざるを得なかった。どう考えても、ヴァレリィの言葉は理屈に反している。戦場の正義が彼女の言葉の中にあるとはとても思えない。


 確かに監獄ベラは前線との中継地ではある。其処を敵に攻め落とされたのであれば奪還は必要な事だ。だが、それでも用意というものがある。何より監獄ベラは攻め難く守りに易い構造だ。


 ネイマールは恐怖していた。そんな場所に、此の将軍は本当に突貫をしてしまうのではないかと。


 それを証明するように、ヴァレリィの言葉を聞いていたはずの騎兵や、彼女に付き従っている人間が誰一人として彼女の言葉に異議を挟まない。


 ヴァレリィはネイマールの言葉を聞いて、意外な事に不快な様子を見せなかった。それどころか一瞬眼を揺らめかした後、頬の筋肉を緩めた。視線はまるで懐かしいものでも見るかのよう。


「貴殿はリチャードに似ているな。あの老獪が、私の副官として貴殿を推したのも理解できる」


 それは果たして褒め言葉と受け取れば良いのか。それとも侮蔑なのだろうか。


 一瞬、ネイマールの頭中にそんな思いが浮かんでいた。ヴァレリィの表情を見るに、恐らくは前者だとは思えるが。それでもあの大隊長殿と似通っていると言われて、素直に喜べない気持ちがネイマールにはある。


「リチャードは私より数段巧いし賢しい。それは事実だ。恐らく奴も、貴殿に近しい事を言うだろう。所詮、私は戦働きしか能の無い女だからな」


 ネイマールにとって、ヴァレリィの言葉は衝撃的だった。


 ヴァレリィ=ブライトネスという人は、理由あって軍中では低位に甘んじてはいるが、その勇名は他国にも轟くほど。紛れもないガーライスト王国の英傑だ。


 その彼女が、僅かとはいえ他の誰かに劣っている事を易々と認めるなどというのは、どうにもネイマールには信じがたかった。いいや案外、本当に個を持つものとはこうなのだろうか。


 ヴァレリィは、唇を小さく開いていった。


「だがな、ネイマール副官。戦働きにおいてを言うならば、此の世界に私を超えるものはいない。その程度には、私は私を信奉している。見ろ、ネイマール副官」


 外壁の上を指して、ヴァレリィは言葉を重ねる。ずっと寡黙であったはずの彼女の口が、妙と思うほどに饒舌になっていた。


 まるでそれは、何かの熱に当てられたかのよう。いいや、違う。ヴァレリィは何かに当てられたのではない。彼女自身が熱源なのだ。


 周囲の兵は、彼女の言葉に応ずるかの様にその呼気を荒くしていた。


「数名が見張りに立ってはいるが、どれも狼狽した様子を隠しきれていない。少なくとも防衛に慣れた兵ではなく、十分な指揮が取れる師もいないという事だ」


 ネイマールは喉が大きな唾を呑み込んだのが分かった。まるで耳から熱が入り込み、身体中に染みわたる気配があった。


 此処に至ってネイマールは理解する。どうしてヴァレリィが英傑たり得るのか。


「それに、本来此処まで敵が接近すれば指揮官は相応の態度を取らねばならない。それを奴らは怠っている」


 他者を呑み込んでしまいそうな程の強大な個。周囲の心臓を沸騰させる膨大な熱。そうして何よりも兵を惹き付けてやまないのは、ヴァレリィが持つ圧倒的な将才。


 今までの冷淡な声とは比べ物にならないほどの、楽し気な声でヴァレリィは言った。唇が彼女の胸中を代弁するかの如く波打っている。


「――確信したぞ、ネイマール副官。監獄ベラを攻め落とした者は戦闘の練達者であって、戦場においては素人だ。征くぞ、今は情報よりも速さを重んずる。敵に一時の思考も許すな。叩き潰せ」


 ヴァレリィが有す魔術鎧が、主人の言葉に共鳴し蠢動した。

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