第三百三十三話『善でなく正義でもなく』
魔術結界の一片が枯れ落ちるのを見て、パロマ=バシャールは息を呑む。全力で走り抜けた後かと思うほどに、心臓が動悸を打ち鳴らしていた。背筋を冷たいものが這って行く。
それらは紛れもない動揺の跡だった。隠し切れない情動がパロマの全身を覆い尽くしていく。一つの言葉が、強い痛みを伴って脳裏を走っていた。
背信の落し子、悪徳の主、大悪ルーギス。ガーライスト王国においてはもはや知らぬ者の方が少ない、その忌み名。
その相手が今、此処に来ている。此の埋葬監獄ベラに。
本来であれば取り合う必要もない戯言だ。疑り深いパロマとて、無暗に心が跳ね動く事はなかっただろう。単独行動を好む人間であるとは聞いているが、紋章教における重要人物がこんな場所に態々入り込んでくるはずがない。
そう、本来であれば。何も理由がない。
だが今此の監獄には、ルーギスなる者が自ら踏みいってくるかもしれぬ理由があった。理由といっても、パロマにしてみれば酷く矮小なものだが。少なくとも彼を連想させてしまう一つの要因がある。パロマは眦を忙しなく動かした。
――それは、彼の育て親たるナインズが此処にいるという事。
パロマはルーギスなる者の人柄を知らない。冷淡な人間であるかもしれないし、そうでないかもしれない。
けれどもし、情に厚く感情的に動く事を肯定する人間であるならば。そうしてその彼が、唯一の身内とも言える人間の居場所を知ったならば。
激情に狂い小勢力をもって監獄内に入り込む事も考えられるのではないか。
それはただの疑念だ。小さな、それでいて本来は考察にも値しない考え。
だが数年前であれば、紋章教がここまで勢力を拡大する事すら考えられなかった。そんなものはあり得ない事だった。あり得なかったはずの事が、今起きている。そうしてそれを引き起こす要因となったのは、彼だ。
ならば、あり得ないの一言で全てを済まそうというのは余りに馬鹿げている。パロマは心臓を打ち鳴らしながら考えを巡らせる。背筋を怯えに近しいものが走っていった。
それに加えて、もう一つの情報がパロマを追い詰める。己の精神に直接伝わってくるその声。使い魔の声だ。
「……分かった」
古式なものではあるが、パロマは使い魔との間に魔術契約を成している。その契約を通せば、全てとは言わないが互いの状況を読み取るくらいは出来た。
その契約が今語っている。使い魔は何者かに敗れ、酷く疲弊し、此の儘であれば数時間を待たず消滅する。それが疑いようもない実感を伴って、魔力の端に伝わってきた。
それはパロマが持つ最大の矛が、失われたという事。そうして同時に使い魔を討滅するだけの力をもった敵がいるという事に他ならない。
どうすべきか。パロマは頭蓋を唸らせながらそう自問する。
無論、まだ結界を前に粘り続ける事は出来る。一角が打ち破られたとは言え、全てを打ち崩すだけの体力は眼前の彼女に残っていまい。なら看守共が掻き集まるだけの時間耐えきれば、疲弊した彼女を討ち取る事は可能かもしれない。
だが。
「私の敗北だ、降伏する。代わりに負傷者の救助を優先させてくれたまえ」
そう言って、パロマは魔術結界を解いた。部屋内から魔性の気配が急速に引いていく。もはや此処は異界ではなく、ただの部屋でしかなかった。
眼前の彼女が、呆気にとられたように一瞬表情を弛緩させてから言う。
「良いのですか。まだ余力は残っているでしょうに」
パロマはその場に座り込みながら、言葉に応えた。
「良い、悪いではないよ。確かに、上手くいけば君一人を討ち取る事は可能だろう。もしかすると君の仲間だって斬り殺す事が出来るかもしれない」
口髭を揺らしながらパロマは噛み砕くように言う。その声の節々には、少し寂しさが混じっている様に思われた。
「だが、その前に何人が死ぬ? 私の使い魔を打ち倒す相手だ、数え切れぬだけ死ぬだろう。君が相手でもね。その後待っているのは囚人の反乱だ。人員の補充を待たずして、此の監獄は支えきれなくなる」
ただでさえ、人手の多くが兵として搔き集められている時代だ。看守などに回せる人間をどれ程呼び集められる事か。その点において、パロマは王都政治の手腕をまるで信用していなかった。逆に、全ての判断を保留し何もかもに時間をかけるという点においては、信じているとも言えるが。
だから、此処での抵抗など無意味だと断ずる。思わず深いため息がパロマから漏れた。胸の奥には幾ばくかの安堵と、疑念。
本当に此れで良かったのか。もしかすると最後まで戦い続ける事こそが至上だったのではないのか。
勇ましく限界まで全てを尽くして戦い続ける。それは美しいとパロマは思う。多くの者はそれが出来ない。保身がある、狼狽えがある。理性がどうしても現実の壁の厚みを感じてしまう。
若さゆえか、それとも彼女が元来持つ性質か。眼前の傭兵はそれを成した。その姿は何処までも尊い。パロマは羨ましいとすら思う。
やはり彼女に倣い、己もそうすべきだったのだろうか。パロマの口元に、似合わない苦笑が浮かんだ。
「私の無能の為だけに人を殺すような事はしたくない。それに……長い付き合いの者もいる。なら私一人が恥を晒して首を落とされる方が賢明だ。馬鹿なのは良いが、愚かにはなりたくない」
その言葉は、パロマにとっては見栄のようなものだったのかもしれない。僅かにだけ言葉の端は震えていた。胸中には確かに恐怖がある。指先はかじかんだように痺れていた。
眼前で彼女が、頷きながら言った。
「ではご同行願いましょう、パロマ=バシャール殿。貴殿の英断に敬意を示し、ヴェスタリヌ=ゲルアが貴殿の身分を保証します」
パロマは小さく頷く。恐らくはそれが、埋葬監獄ベラが明確に紋章教の足元に下った瞬間だった。
◇◆◇◆
陰気な場所だ。尋問室が並び立った廊下の前に至って、そう胸の内で呟いた。立地が薄暗いとか湿気が多いだとかそういう話ではない。ただ空気が一つ、周囲より重くなっているような気配があった。
恐らくそれは、方々の檻から聞こえてくる嗚咽や荒い息が原因だ。粘着質な雰囲気が肌に絡みつき、どうにも嫌な気分になってくる。
それだけで此処で尋問とやらを受けた紋章教徒の囚人が、どういう扱いを受けていたのかがよく分かった。
「――此処かい。何とも重々しい面構えだ事で」
看守が立ち止まった尋問室の前で、呟く。言葉を、可能な限り冷静さを保つように努めた。声が荒げたものにならぬよう、敢えて低い音を出した。
頬が、震える。聞こえてくるのは女の嗚咽と、微かな笑い声。眼が知らず細く歪んだ。
看守は僅かに顔を青くして頷いた。まるで自分が責め立てられているとでも思っている様だった。
ヴェスタリヌが監獄長たるパロマを捕虜にしてからは、随分と話が早かった。通常であればもう少し話が拗れる事もあるかと思っていたのだが。看守長とそう呼ばれた人間が小競り合いの中で命を落としていたのも大きかったのだろう。
誰もが大人しくパロマの言葉に付き従った。看守にしろ囚人にしろ、命令を聞くことに慣れた者はそれ以外の視野が酷く狭まるのが常だ。俺にだって、そういった部分は少なからずあるのだろう。
そこから外に配置させていた傭兵共を引き入れるのも、看守共を監視下に置くこともヴェスタリヌに任せた。彼女は幼少から受けていた教育の為か、物事を段取りよく進める能力に優れている。俺なんぞよりよっぽど上手くやってくれる事だろう。
それに俺は、先に済ませねばならない事があった。此処に収監されている一人の人間の事。此処に来る事を決めた要因の一つ。
先ほどから、奥歯が噛み合わない。妙な気焦りが胸の中に生まれていた。
正直に言えば、俺はこの事に関しては可能な限り考えぬようにしていた。俺のよく知る育て親の事だ。きっと要領よく無事であるに違いないと思っていたし、想像するような馬鹿々々しい事が彼女の身に起こるわけがないと思い込もうとしていた。
それが正しいのか間違っているのか何てのは分からない。けれどそう思わばねば、俺は俺自身何をするか分からないという確信があった。気が気でなくなるとそう思ったのだ。
だから最初此処に収監されているという話を聞いた時から、それについて誰にも語らなかったし、名前を出す事もしなかった。育て親だという事すら、言わなかった。恐らく彼女が俺の身内だと知っているのは、マティアとアンくらいのものだろう。
目の前で重々しい鉄鍵が落とされ、扉が軋みをあげて口を開く。瞬間、鼻孔に酷い血の匂いが張り付いた気がした。眼を、見開く。
「何だ、誰だ!」
扉が開くと同時、中から男の声が弾き跳んできた。言葉に焦った風はない。地下に作られた此処には未だ監獄内の喧噪が伝わり切っていないのだろう。
無言のまま、視線を室内に這わせる。暗い、酷く暗い部屋。だが俺の眼にはそれでも中がよく見通せた。見通せてしまった。
ナインズさんは何人かの男に囲まれたまま、何かしらの台に抑えつけられていた。その全ての指は血を吐き出して裂けている。爪はない。脚はおかしな方向に曲がっていた。そうして酷く汚れている。
ああ、なるほどそういう事か。
「おい、誰だよてめぇ。急かしに来たのか。尋問には尋問の流れがあるんだ、慌てて貰っちゃ困る。それに尋問室の権限は俺が貰ってる、簡単に中に入ってもらっちゃ困るぜ」
鍵を開けた看守が何事かを言う前に、尋問具らしき何かを片手に持ってそいつは言った。見た所鉄槌をより凶悪に改造したものだろうか。
そいつが何か言葉を続ける間、俺の心中では荒々しい情動が煙をあげて吠え続けていた。気をつけてやらねばそれが今にも喉から吐き出されそうだ。
監獄長パロマ=バシャールから、請願を受けていた。此の監獄に起こった全ての事は、己が指示を出した事に過ぎないと。ゆえに看守達の身柄は保証して欲しいとそう言われた。それはきっと紛れもない彼の誠実さから出た言葉だ。素晴らしいとすら思う。
恐らく、ヘルト=スタンレーであればその言葉を受け入れたはずだ。何の躊躇いもなく、全てを胸の奥に呑み込めてしまうだろう。
けれど実に残念な事に俺はヘルト=スタンレーではない。
彼のような英雄たらんとは思えど、その人間性はまた別だ。何せ俺は、善意の人でも正義の主人でもない。そんな綺麗な身分ではあり得ない。何せこの身は泥の父と溝の母から生まれたのだ。
今更綺麗ごとを胸に飾ろうなんて、思った事は一度たりともない。
「看守、彼らに事情は説明しなくて良い。一つだけ頼みたいことがある」
俺に同行していた看守に向かって言う。眼の先でナインズさんと視線があった。その紫色の眼が、僅かに見開く。
看守が震えた声で応答した。声を、押し出す。指先が鳴っていた。
「此処には、君と俺。そうして俺の育て親以外、誰もいなかった。それで、いいな?」
腰にさげた剣を、揺らした。看守は無言のままに頷く。一歩を前へと、出した。眼前の男が眼を向いたのだけが分かっていた。
そうして全ては、何事もなく終わった。