第三百三十話『魔眼を冠する者』
視界が明滅する。全身を貫く激痛に、喉は血か胃液か分からぬものを逆流させた。舌に気色悪い感触が広がっていく。
かつて全身を杭で貫かれ殺されたという、血を啜る魔性の血族。吸血鬼と呼ばれた連中は、きっとこんな心地だったんだろうとそう思った。今ではもう絶滅したとの事だったが。
肉の中に本来ありえぬ異物がある嫌悪感。異物は血の流れを押しとどめ、悪意をもって逆流させた。それがまた、鮮烈な痛みとなって体躯を襲う。傷口を荒い雑巾で拭われるような感触だ。
肉を抉られる気色悪さ、血を吐き出す解放感、自身の身体が千切れたかと思わせる四肢の激痛。それらが寄り集まって俺の脳髄に一つのものを想起させた。
詰まる所、死だ。単純な死亡。肉体の喪失。意識の縺れ。それを確かに本能が感じとってしまった。
ああ、俺は此処で死ぬのだと。一瞬でもそう思ってしまった。
反射的に唇を強く噛む。忌々し気に、悔し紛れに。血の香りが混じった息を吐いた。心臓が熱く鳴った。
誰が死ぬというのだ。此の俺がか。
自身に問いかける様に、胸中で呟いた。自然と頬が歪んだ笑みのようなものを浮かべていた。
馬鹿らしい。死んでなるものか。死に絶えられるはずがない。
振り下ろす途中で止まってしまった白刃に、再び力を籠める。腕に突き刺さった骨か杭のようなものは、うねりをあげながら肉にねじ込まれた。
もはや、腕には感触があるのかすら分からない。
それでも止まれるはずがなかった。何も馬鹿らしい衝動からこう言っているのではない。此れは冷静な理性の言葉だ。
血を全身から吐き出しながら、それでも尚ありったけの尊大と、可能な限りの傲慢を含ませて言った。
「……いいか、魔獣。役者が違うんだよ」
声はへしまがった気がする。どうやら口の中に血が溜まっていたらしい。それでも尚留めることなく、言葉を続ける。
「俺を殺したいなら、アルティウス本人でも連れてこい」
考えてもみろ。誰に俺が殺せるというんだ。そうだとも。あのヘルト=スタンレーですら。真に刃を交えて俺を殺せなかった。大神殿で、俺は何の因果か息絶える事が出来なかったのだ。
――ならばもう、誰にも俺は殺せない。俺の結末はもう決まっている。脚本にそう書きこんだのだ。
左腕の筋肉のみに力を込め、奥歯を軋ませながら噛み込む。眼前に、双角の魔性の頭蓋が見えている。
理解している。此の骨杭はこいつの魔具の一つだろう。でなければ床や天井から唐突に物が生えるだなんて事はあり得ない。
であれば、此れは何等かの術式で魔具を呼出しているに過ぎないはず。なら当然の如く俺を張り付けにするには術式を維持し続ける必要があるという事だ。
――つまり、こいつは今動けない。なら、簡単に打ち殺せるじゃあないか。鼠を捕らえるより容易な事だ。
全身を軋ませ、自ら骨杭を肉に食い込ませながら、白刃を再び勢いを持って振るう。
何てことはない。奴の頭蓋はもう目の前。振り上げたまま、重力に沿って刃を振るってやればそれだけで魔獣の頭蓋を打ち砕ける。
事がこうなった以上、頭蓋を砕かれる前に俺の四肢を引き裂けば魔獣の勝利。それ以外は俺の勝利というわけだ。単純で素晴らしい。
もはや俺の黒々とした血を存分に受け、白とはとても言えぬ威容を示しながら刃は鈍く空を裂く。肉の一部が千切れる音がした。手元には魔性の頭蓋の一部を斬獲した感触が確かにある。頬が、歪んだ。
瞬間、強い衝撃が腹部を打つ。敵意を持った攻撃ではなく、ただ敵を弾き飛ばす為の衝撃だった。
だがそれでも十分な一撃だ。眼を開いた時、俺の身体は渡り廊下の端に跳ね飛ばされていた。知らぬ内、俺の全身を突き刺していた骨杭は消え去っていた。
結構。どうやら、我慢比べには勝ったらしい。知らず両眉があがり、笑みが頬に浮かんでくる。随分馬鹿をやったが、価値のある馬鹿だった。
顔をあげて双角の魔性を、見る。奴は眦に明確な嫌悪を浮かべて言った。さも、胸の底からため息を吐き出すよう勢いで。
「……予想がつきましたよ。ええ、ええ。お前がオウフルの眷属ですか。名前はそう、ルーギス」
敵意に塗れた言葉だった。無理やり感情を抑えつけ、それでも尚溢れる感情を震えさせている声色。その額からは血が吐き出され、頭蓋の一部が損失した事を示している。
眼を揺らす。似たような言葉を数度耳にした事があった。それは、傭兵都市ベルフェインで、そうして大神殿で。あの忌々しいアルティウスとやらの口からだ。
奴はアリュエノの口を借りて確かに言った。俺を指して、オウフルが手を握った人間と。
「たまに聞くな。よくは知らんが。俺がそうだとして、何か不都合でもあるのかよ、なぁ?」
オウフル。それは紋章教の最高神の名前だったはず。聖女マティアが時折口から零すのを、何度も聞かされた覚えがあった。
其れと俺が何時いかなる関係を築いたというのかは分からないが、ただ一つだけ思い当たるものがあった。
あくまで乱暴な勘に過ぎないが、それでも俺が神を騙る連中と邂逅したとならば一つしかあるまい。
――貴様に機会を与えてやろう。全てを塗りつぶし、人生という絵画を描き直す機会を!
敵とも味方とも取れぬあの黒、あの影。奴だ。
俺が奴の手を握ったのは、紛れもない事実。それをして眷属だと呼ぶのならそうかもしれない。
奴がどうして俺の手を握る事になったのか、その気まぐれの理由は分からんが。あれがオウフルと名乗る存在であるならば、アルティウスや魔性の言葉もまぁ分かるというものだ。
双角の魔性は顎を揺らし、その小さな体躯を前へと傾けながら言う。その眼には正真正銘の敵意が色めきだっていた。
「流石、俺が知っている彼とよくよく似ています。その凶暴な眼も、命を顧みぬ有様も。まるでオウフルが今一度、生でも受けたかと思いましたよ」
魔性の体躯に、有り余る力が注ぎ込まれていくのが分かった。言葉の在り方は丁寧そのもの。けれど、彼も俺と同じでもう止まる気などない。
さぁ、考えろ。思考しろ。意識を止めるな。
先ほどは馬鹿な事をした。まるでヘルトの如く敵に対し直進的な一撃を敢行など。価値はあったが、それでもやはり俺には少々段階が早すぎる。
であれば考えねば。考える事が俺の武具だ、小賢しかろうと、無様であろうと。俺はそうして生き残ってきたんじゃあないか。いや幸いだ。どうやら血を抜いて良い具合に冷静になったらしい。巷で流行しているだけはある。
「それで、アルティウスと対立するのはオウフルの考えのままという事ですか。いや憐れなもんですな。そこだけはオウフルとまるで違う。彼は愚かでしたが、人の言葉をそのまま飲み込むような奴じゃあなかった。俺の言葉も、アルティウスの言葉もまるで聞きはしなかった」
魔性の言葉に耳を揺らしながら、眼を細める。
骨杭を今一度全身に突き刺されるのは駄目だ。もう相手も十二分に警戒をしている。其処からの一振りなんて何が有ろうとさせてくれないだろう。
ならば、その前に奴の頭蓋を叩き割るしかない。首を裂いた所で意味がないのは経験済みだ。
その為に、どうするか。何が最適か。口を開き、足首を軽く曲げる。
「憐れだぁ? 笑わせるなよ魔獣。何時だって、俺の一生を品評するのは俺だけだ。人生の苦しみ、楽しみ、その両輪はどちらも俺が回している。オウフルとやらじゃあない」
白を斜めに傾け、前へと突き出す。そうして一本の線を、眼に浮かべた。何時もの通りだ、まるで宝剣が共にある気すらしてくる。
さぁ、殺すとしよう。もう策は出来ている。策とはとても呼べぬ、貧相なものだが。それでも俺には十分だ。
魔性は双角と両眼に薄緑の極光を煌かせながら、忌々し気な口調で言った。
「俺はそんな名前ではありませんよ――」
蒸気すら吐き出しそうな、熱の籠った言葉。白い靄が、その全身から発されるような雰囲気があった。
「――魔眼のドーハスーラ。零落したと言えど、アルティウス以外の人間に跪くほど俺は惰弱ではない」
魔性としての本性を剥き出しにしながら、彼――ドーハスーラはそう言った。




