第三百二十九話『渦巻く疑念と震える刃』
監獄長パロマ=バシャールを呼称する言葉で最も多いのが、変人という二つ名だった。
疑り深く、何もかもを信じないことが正しいと信じているような人間。懐疑の信奉者。アレはきっと自分自身は勿論、神や魔すらも信じていない。そんな風に、彼は語られる。
そうしてそれは間違いではなかった。端から見る限りパロマというのはそういう人間だ。パロマもそういった風評を聞いて、訂正しようとも思わない。
貴族階級における人間関係とは、誰かが誰かを利用する為に存在している。互助といえば聞こえはいいが、本質は誰かを利用しいずれ蹴落とすためのもの。
勿論実質的な部分はその一言で語り切れるものではないだろうが。少なくともバシャール家はそういった側面をよく見て来た。主に、利用される側で。
父も、祖父もそうしてそれまでの祖先も実直さが何よりの取り得だったのだとパロマは思う。実直、正直というのは美徳と言えるが、しかし美徳というのは欠点の言い換えだ。
人を信じ、そうして裏切られる。戦場で、政治の場で。何度そういった事があっただろうか。貴族階級の間に真の友情などというものはないと、どうしてわからなかったのか。
そんな有様だから、バシャール家は政治の主流からはとうの昔に切り離され、地方貴族として汗を垂らすことを強要されている。
そんな過去から、パロマは人間関係というものをもはや信じていなかった。変人。そういった評判が立てば自然と人は近寄ってこなくなる。人が近寄ってこなければ、その分面倒事も避けられる。
それに、そういった事がなかったとしてもパロマは何かを疑うことを止めようとはしないだろう。もとより彼はそういう性質であったし、それこそが真実を見出す唯一の手段だとパロマは思う。
魔術氷に四肢を貫かれ、床に倒れ伏したままの侵入者――ヴェスタリヌ=ゲルアを見て、パロマは満足そうに頷いた。
四肢からあふれ出た血液の量を見るに、十分に肉を抉った。上手くいけば骨も砕いているだろう。
堂々たる戦斧を床に投げ落としている点から、恐らくその推察は真実に近しい。けれど、必ずしも真実ではないとパロマは思う。
だからその有様を見て尚、パロマは魔術結界を崩す事はなく。また倒れ伏したヴェスタリヌに近づこうとも思わなかった。
そうせずとも、十分な勝機があった。種類と形式を問わず、ありとあらゆる魔術術式をパロマは部屋内には張り巡らせている。
それらは何らかの効果を生むものではない。しかし充満した魔術機構は、ただそれだけで人の体力を奪い取る。魔獣の瘴気を肌に浴びせられているのと変わらぬからだ。
だから兵を此処に入れてはいない。無駄な足手まといになるから。それよりも己一人であった方が十分勝機は高いとパロマは見ていた。
無論、魔術師であるパロマとて魔術機構の影響を避け得ることはできない。今とてじわりじわりと肌先が痺れの様なものを感じている。
けれど、常人より十分な耐性を有していることも、また事実。同じ時間を過ごせば、確実に敵が音をあげる。
だからパロマは動かない。敵が弱るのをただ待っている。その鼻を鳴らしながら倒れ伏す敵を見る視線は、まさしく狩猟者のものだった。パロマとしては不服かもしれないが。
視線の先で、ヴェスタリヌが指先を床に突き立てる。荒い息が離れていても聞こえて来た。その手が、床に零れ落とされた戦斧へと伸ばされるのをパロマは見る。その有様を見るに、もはやあれが信じ切れる唯一の武器なのだろう。それに腰元の剣を引き抜くだけの余力は彼女にあるまい。
しかし、何という執念だろうか。パロマは眼を歪めながら歯を噛んだ。
見る限り眼前の侵入者は未だ年若い。成人はしているだろうが、それでも己の半分に満たぬ年齢だろうとパロマは思う。
己が同じ齢であった頃は、どうだったか。いや思い出すまでもない、ただの小僧に過ぎなかった。疑い深い性根は同じままだが、それでもこの様に執念深く何かを成そうとした覚えはない。
一体、何が彼女を突き動かしているのか。パロマにはそれが疑問だった。
彼女の背景は何か。彼女が志しているものは何か。こんな年若い彼女が命を放り捨てて成そうとする事は、何か。それは一切分からない。
けれど、自らが一つ勘違いをしていた事だけは分かった。彼女は軽蔑すべき夜盗の類ではない。敬意を抱くべき敵だ。名誉ある敵だ。
だからこそ、一切の油断や慢心を許さない。
そんな想いが、ぐるりとパロマの胸を舐めた頃。呻くような声が、聞こえた。伏せったままのヴェスタリヌが、声を震わせる。
「……ガーライストの者は、敵にトドメもさせぬのですか」
血を四肢から吐き出しながら、未だその眼は軒昂だ。何もかも捨て去って、早く楽になりたいと思ったものがする眼ではない。
その手にはのるものか。パロマは顎を突き出しながら、顎髭を撫でた。
「その必要はない。もう間もなく守り人が戻るからな。君の仲間の首をもって」
魔術結界を維持しながら、もう一つの魔術を用いるというのは案外容易な事ではない。脳内で二つの思考を同時にする事が困難であるのと同じように、魔術も二つを同時に起動させようとすれば片方が疎かになる。
先ほどは完全な奇襲だった。しかし今度は、彼女も必ず機を見計らってくる。己が魔術氷を起動させた瞬間、戦斧を手に取り脆く鳴った魔術結界へと突き立ててくるかも知れない。
考えすぎか。いや違う。彼女は例え四肢が貫かれようとそれをきっと実行する。パロマは己の無能を信じはするが、敵の無能は信じない。
なればこそ、守り人を待つのが最適だ。あの魔性は信じられたものではないが、それでも此の監獄においてあれが敗北する姿を想像できない。
パロマの言葉に反応したように、ヴェスタリヌが呻いた。
「……私の仲間が、貴方の部下を殺すかもしれませんよ?」
パロマは、眼を細めながら首を振った。その眼差しは何処までも鋭い。
「君は、大洪水に人が抗えると思うかね。嵐に吹き飛ばされぬあばら家はあるか。あれは、そういうものだよ」
それを聞いて、ヴェスタリヌは嘆くように嗤った。
「――随分と、信じられているのですね。その部下を」
◇◆◇◆
英雄殺し。そう銘打たれた宝剣は、人間であれば歯という歯を軋ませてしまいそうなほどに鬱憤をため込んで、熱を有していた。ありとあらゆる激情が、その刃を揺らしている。
そうしてそれと同時に妙な落ち着かなさをその刃は有していた。
己が本来あるべき場所に無いという違和感。己の半身というべき存在が己の近くにないという悲嘆。
剣に対してこのような言葉を用いるのは不思議だが、挙動不審とでも言えばいいのだろうか。憤激や悲嘆、動揺等といったありとあらゆる感情が、宝剣の中で渦を巻いている。
――ああ、主め。酷いぞ、此れは。酷いではないか。
思わず宝剣はそんな愚痴すらつきたくなる。主ルーギスは、己を腰元から跳ね除け何処ぞの有象無象に投げ渡してしまった。
そうしてあろうことか、己ではない別の刃――あの白剣を振るってすらいるのだ。
許せる事ではない。許せるものか。主の剣は私だ。ただでさえ、同じように腰に提げられる事すら苛立ちを抑えられなかったというのに。よもや、己を腰から外すなど。宝剣は刃を揺らして不満を表す。
ええい、こんな事なら主に訴え出るべきだった。何等かの形を取って、主に語るべきだったのだ。己以外を信ずる必要などないと。
それは宝剣にとって紛れもない憤激で、隠しようのない苛立ちだった。刃は熱を持ち、暴れる様に震えている。
けれどそれと同時、英雄殺しという名の宝剣はもう一つ、感情らしきものを産んでいた。それは人でいうなら不安に近しいもの。紫電が冷たく煌いていく。
――もしかすると己が腰から外されたのは、主がもう己など不要だと断じたからなのでは。
命と同様なのだと語られた事は慰めになるが、それは本当だろうか。
主があの白剣の持ち主であった英雄を慕っていた事はよく理解している。であればその憧憬をもってして、白剣をこそ自らの武器としても不思議はない。
宝剣は、今までそのような不安を欠片も有した事がなかった。武器を主がどのように扱おうが自由であるし、武器庫に放り込まれていたとしてそれはそれで気軽なものだ。
放り捨てられたならば、次の英雄との巡り合わせを待てばよい。過去、そういった思いを崩したことはなかった。
しかし今は、違う。精神そして肉体において不可逆の同化を成した所為だろうか。最近はそれが、酷く恐ろしく感じられる。主と離れ離れとなっている事など、想像ですらしたくない。
早く此の不安を消し去りたい。早く主の手元に戻りたい。そんな想いばかりが刃を巡っていく。
だというのに此の女は何をしているのだろう。魔術に絡めとられ、床へと這いつくばったヴェスタリヌに対し、宝剣は刃を鳴らして不満を見せる。
こんなもの、主であれば困難にもならない。いいや己がならせはしない。それをこうも容易く敵に追い詰められる醜態を晒すとは。
宝剣は思う。此のヴェスタリヌ=ゲルアという人間は、勇士ではある。だが英雄の大器ではあるまい。歴史に名を残す存在ではなかろう。
ゆえに、宝剣が少しばかりでも手を貸す謂れはなかった。その窮地にも興味はない。ただただ、宝剣の中で渦巻く事は、己の主の事ばかり。
敢えて、一つ気にかかるといえば。
どうやら事態が此処に至って尚、此の女は何一つ諦めていないらしいという事だけだった。
何時も本作をお読み頂き誠にありがとうございます。
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更新についてですが、年末年始を挟む事から次回更新については少々お時間を
頂いてしまいそうです。申し訳ありません。
よろしければ来年もまた、本作をよろしくお願い致します。