第三百二十四話『双角の魔性』
白の大剣が大きく唸りをあげながら中空を削ぎ落す。刃の顎が魔性そのものを呑み込まんと大きく口を広げた。
同時、刃に応じるかの如く魔性の腕がしなりを作り、拳が直線に振るわれる。
見る限り、それはただの拳撃に過ぎない。指を握らせ、肩を突き出して放たれただけの其れ。本来何ら変哲もないはずの一撃。
――だがその速度と膂力だけが、まさしく人間業ではない。
音が真っすぐに中空を駆けていく。よく耳に響く、空間そのものを抉り取ってしまいそうな音だった。とてもではないが、拳を突き出して作り出せる音とは思えない。
拳は豪速を持って白刃の腹を叩き、そのまま軌道を歪ませる。本来心臓を抉り取るはずの剣先が、右方へと強く弾き飛ばされた。
結果、白は僅かばかり魔性の肩を裂き血を滲ませただけに終わった。
なるほど、先ほど奴の一撃を弾いた際に抱いた妙な感触は、刃を拳に払われるものだったというわけか。なら慣れ親しんでいなくて当然だ。むしろ慣れて堪るものか、そんなもの。
いや、結構。魔獣が常識の外から此方側に入り込んでくるのは何時ものことだ。一々道化の様に驚いていたらとてもじゃあないが身がもたない。
だからこそ、精々元の世界へと帰ってもらおうじゃあないか。
拳は当初の勢いを保ったまま、俺の頭蓋をそのまま食らいつくそうと中空を穿つ。それはさながら放たれた後の鏃のよう。相手を砕いても尚止まるまい。
眼前に拳を見た瞬間。明々白々たる直感が、あった。
此の拳を正面から受ければ、俺の頭蓋はそのまま粉となり、血は驚喜したように中空を汚す。一瞬の最中に、そんな想像が容易く出来た。踵の先から、具体化した死が這い上がる。
反射的に足首を駆動させ、そのまま腰と背骨、首を同時に捩らせる。拳の一部が、頬の肉を抉っていったのが分かった。
頬からは血が躍動しながら吹き出し、宙を舐めていく。咄嗟に白刃を下方に構えながら距離を取り、拳の間合いを切った。相変わらず、あちらから間合いを詰めてくるという事は、無かった。
歯を、鳴らす。知らず眼を細めていた。今みた拳の軌道、その筋。何とも懐かしい。かつて見た覚えのある拳筋だ。瞼の下に浮かんでいるのは、南方国家で拳を振るう闘士の姿。
魔性が振るう剛たる拳闘は、ガーライストで見るものよりそちらに近しい。全くどのような縁であるのか。
「南方から随分と遠くに来たもんだな。たまには故郷に帰ったらどうだい」
双角を誇らしげに頭に飾る魔性は、俺の言葉を受けると笑みを深めて語りだした。
その様子は、本当に友人に語り掛ける様な、快いものだった。ただただ、その眼から放たれる明確な殺意を除いては、だが。
魔性の声が、響く。
「おやおやおや、ご明察。なぁに、多少の因果があって北に零落して来たというわけですよ。何時の時代だって、はみ出し者というのはいるもので」
肩を大仰に竦めながら、何処までも陽気に魔性は語る。言葉はわけがわからぬほどに明るく、重みというものがまるで感じられなかった。だがそれが逆に、奴から奇妙な不気味さを醸し出している。
そんな調子のまま、魔性は続けた。
「昔は此れでも少しは語られるべき存在だったんですよ――ま。今となっては誰も覚えていないでしょうなぁ」
その言葉に魔性は眦をあげる。少し敵方の雰囲気が変わった気配が、あった。反射的に、白刃を握る指一本一本に力を込める。
白剣は宝剣よりも随分と刃が厚く、普段とは勝手が違う。幾度も試しをこなしてはいるが、何処まで身勝手に振る舞えるものか。よくもまぁ、英雄殿は此れを想うがままに振るえたものだ。
剣を構えた恰好で深く吐息を漏らすと、全身の関節が軋むように音を鳴らした。呼気が妙に荒れている。
瞬間、眼前で魔性の影が揺らめいた。
僅かな荒れを見逃すまいとでも言う様に、空を抉りぬく音がする。拳が影の尾を残しながら、宙を駆けた。
一撃、二撃、三撃。殆ど無呼吸のまま駆け抜ける衝撃を、白刃を傾けて払いのける。拳の姿はやはり見えない。ただ音と影だけが其処にある。
それは何とも酷い光景だ。至近距離から十分に絞った弓矢を延々と浴びせられているに近しい。しかも相手は態々矢を番える隙がないというのだから最低だ。
弓矢と違う所といえば、ただ一つ。
弓矢は当たり処が良ければ生き延びる事も出来るが。此れは真面に当たればその場で肉が弾け、骨が砕け散って死ぬことだろう。
本当に、面倒だ。だがそれでも、退くという選択肢は失われている。なればこそ、成すべき事は一つだけ。
小さく、吐息を吸い込む。影の線を視界に収め、其れを斬り、払いながら間合いを計った。
まだ、違う。まだ、待てる。後三つ――二つ――そうして、一つ。奴の拳が、俺の二の腕を僅かに抉り取っていった。血が、跳ねる。
――それが契機だった。
身を傾けさせながら足先を、半歩ほど前へと突き出す。拳が手元に戻るであろう一瞬を狙い撃ち、白線を中空に線を描かせた。
大剣の顎が魔性の首に狙いをつけ、唸りをあげて暴威を振るう。空を裂く音が、耳を打っていた。
敵はどう出るか。肉の身体では早々そのまま受けきるという事はしないだろう。迎撃をするにしても其れはもはや相打ち覚悟、致命の一撃は避けられない。
ならば、避けるしかないわけだ。前、左右、後ろのどれかに。
刃を避けんと前に駆けこんでくれば、残した脚でその鳩尾を抉りぬく。左右に逃げれば、そのまま二振り目をもって首を刎ねる。
その光景はもう、俺の眼に妙な実感を伴って見えていた。そうしてきっと、奴にも見えている。
だからきっと、奴は後ろへと身体を跳ばす。そう信じた。半歩出した脚をもう一歩前へと、踏み出す。
後ろへと跳んだ魔性の首筋を目がけ、刃が伸びる。もうそれを止めるモノはなにもない。魔性の眼が、見開かれているのがよく見えていた。
――瞬間、鉄塊が肉と皮を食い破り、血が吐き出される音がした。
白の剣先が紅に染まりながら、半円を描いて中空を断絶する。手の内には嫌な感触がじんわりと響いていた。
そうして体内で吠える様に主張してくる四肢の痛みを抑えながら、言う。
「首を裂いたんだ。ならそのまま死んでくれるくらいの可愛げは見せて欲しかったんだがね――」
「――嫌だ嫌だ。此れだからお前は通せなかったんですよ、面倒臭い。魔獣だって痛いものは痛いんですよ?」
首筋から夥しいほどの血液を漏らしながら、濁った声で魔性は言う。渡り廊下を血の道筋が這っていた。
追撃は――駄目だ。もう態勢を十分に整えている。いやもしかすると、首筋一つ斬り裂かれるのは織り込み済みだったのかもしれない。
白剣を払い、絡みついた血液を跳ねのける。首で駄目なら、次は心臓か頭蓋と言った所だろう。魔核を抉りだしてやらない限り、魔獣というのは死ねないものだ。
なら、死ぬまで殺すしかない。
全身にしがみついてくる疲労感を噛み潰すように、言う。吐息を整える時間が欲しかった。
「まるで、ヴェスタリヌだったら問題はない、とでも言いたげだな」
双角の魔性は、噴き出した血液を自らの頬に浴びながら、語る。首から血を垂れ流したまま陽気に言葉を語る姿は、まさしく異形のそれだ。
唇が、動く。
「ええ、そう言ったんですよ。あのお嬢様なら問題ない。俺の主人は案外と性根が強い人でね。気に入っているんだ、人間にしてはね」
まるでわざとそうしているかのように渡り廊下に血を払いながら、魔性は語る。象徴たる双角が、緑光のようなものを滲み出させていた。
「だから――あのお嬢様も、お前も、此処で死ぬ。目的は何一つ果たせず、死ぬ」
魔の極光を双角から吐き出し、両目を大きく見開きながら、魔性は語った。