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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十三章『大災害編』
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第三百二十二話『監獄の魔性』

 監獄ベラの廊下を早足に叩きながら、前方へと視界をやる。


 大がかりな要塞の如き風体をしているというのに、人員は看守や下働きを含めて精々数百に収まるが故か、妙に施設内は物寂しい。


 通常漏れ出るであろう人が生活する音よりも、監獄周囲の水堀がごうごうと騒ぐ音や、風が吹きさすぶ音の方がよほど賑やかに聞こえるほどだった。


「珍しい。ここの水は死雪にあっても凍らぬのですね」


 空気に横たわっていた緊迫感を打ち破るように、ヴェスタリヌが小さく呟く。それはきっと、耳を打つ水流の音を差しているのだろう。


 ガーライスト王国は大陸北部に領土の大部分を有する故か、河川や湖の多くが死雪の時代には凍結した大地そのものへと姿を変える。


 東方との国境であり、ガーライスト王国最大級の河川であるオーガス大河すら、この時節には凍り付きその姿を凍土へと変貌させるのだ。


 その中でごく僅かな例外が、ここ埋葬監獄ベラの不凍堀と言って良いだろう。


 此処の水堀はどうにも奇妙な事に死雪の時代に至っても、水を凍らせることなくうねりをあげて流れ続ける。


 何せ本来此処は囚人を放り込む監獄などではなく、前線との間を結ぶ中継砦だ。いざ敵が攻め寄せた時、堀が凍り付いてしまっては意味がない。


 建築王と呼ばれた先王はそう語り、魔術技能の粋を込めて不凍堀を作り上げたと、そう言われる。


 なるほど、その大部分は、恐らく間違いではない。


 彼の王が造り上げた建築物には紛れもない熱と確かな才気を感じさせるし、一目見ただけで異様さすら覚える。


 だがどうせなら、その才はこんなろくでもないものを造り上げる方向には込めないで頂きたかった。肌を噛む寒気に知らず唇を震わせる。

 

「水を凍らせぬように、懸命に誰かが掻きまわしているんだろう。そう思うと憐れなもんだ」


 肩を竦め、そんな風に答えた。ヴェスタリヌは大して気分を害した様子はなかったが、呆れた様に吐息を漏らす。どうやら俺との受け答えにも随分と慣れてくれたらしい。


 それが喜ばしい事かどうかは、よく分からないが。


 自然音を耳に拾い、時折看守の血を垂らさせながら、北塔の根本へと足を向けた。奇妙なほどに、監獄の中は静寂だ。何となしに、背筋が粟だつ。


 ふと、嫌な予感がした。


 何故こうも、看守共はその数をそろえていないのだろう。先ほどから対面する看守共は妙にまばらだ。


 何故こうも、易々と監獄の中をうろつきまわれるのだろう。もう少しばかり監視の目があって良いのではないか。


 運が良いと言ってしまえばそれまでだ。しかし、俺は幸運の主に見放されていることには十分に自信がある。無根拠な悪寒が、背筋をゆっくりと撫でていった。


 とうとう眼前には北塔へと続く渡り廊下が映り込む。此処を渡ればもうそのまま監獄長室を目指し、北塔をただ踏み歩くだけ、そんな地点だ。


 そこで脚を、止める。指先が痙攣し、跳ねた。


 ヴェスタリヌが不思議がるように、俺の横顔を見つめていた。生真面目そうな眼が、どうしたのかと俺に問いかけている。


 だが、そんな視線の一切を気にする暇もなく。俺は腰元の宝剣へと指を滑らせる。吐息に熱が籠り、白い靄となって中空を撫でていった。


 理屈は分からない。何故かという事もまるで不明。しかし奇妙な確信だけがあった。


 ――今、渡り廊下で大口を開いて俺達を待ちわびている奴がいる。


 依然、渡り廊下には何者の姿も見えない。けれども壮絶な嫌悪感が、錘となって臓腑にもたれかかってくる。


 忘れるはずもない、幾度も嗅いだことがある匂いが、渡り廊下には蔓延っている。何、傭兵であるヴェスタリヌが気づかぬのも無理はない。


 此れは、紛れもない魔性の匂いだ。


 それも、鼻孔に入り込んだが最後脳髄を鷲掴みにしてしまいそうなほどに濃密な。


 冒険者時代、そうしてかつての旅路の中で、幾度か感じたことがある。とてもとても嫌な匂い。


 しかし此れにこうも敏感に反応出来たことはなかった。成長と言って良いのか、それとも俺自身が何処か変質してしまっているのか。


 蠢くように震えを起こす宝剣を握りながら、一歩、進む。ヴェスタリヌを背後においたまま、もう一歩、進んだ。


 それだけで、よく分かる。もはや此処は異界だ。魔性の胃袋の中そのものだった。


 まるで水中をもがきながら進んでいる様な息苦しさ。許容量を軽く超えた魔が、胃袋の中に押し込まれている。


 一歩、進む。二歩目、三歩目。


 瞬きすら忘れていた。肺はその機能を失ったかの様に呼吸を止め、肌はいやというほどにひりついている。


 四歩目、五歩目――六歩目、七歩目、八歩目――来た。姿なきその眼は、俺ではなくヴェスタリヌを向いている。


 呼吸をする間もなく、反射的にヴェスタリヌを跳ねのけ、腕を振りぬく。関節に走る鮮烈な痛みを押しのけて、紫電が線を描かせた。


 濃い紫色が中空に明滅し、眼前にまで迫った其れを反抗すら許さずに撃ち落とす。ヴェスタリヌの眼が大きく見開いていたのが分かった。

 

 ――ギァ、ン。


 嫌な残響音が、耳を突いた。鉄と鉄がこすれ合った音では決してない。手に残る感触も、柔らかいものに触れたかのような気持ち悪さがあった。


 何だ、これは。僅かに、眉を顰める。


 距離を詰める様に半歩前へと出ながら、宝剣を斜めに構え直す。


 脅威の正体はもう、眼前にあった。まるで床や天井から忽然と現れたとでも言いたげな様子で、人の形が渡り廊下の上に立っている。


「そんな敵意を露わにしないでくださいな。此れでも、気持ちよく、未練もなく綺麗さっぱり死ねるように調整はしたんですよ。それをまぁ、上手く弾いたもの。いやいやこれは褒め言葉だよ。兄さん、人間にしては――」


 場に似合わぬ底抜けに陽気な声。それを惜しげもなく放り投げるのは、大きな巻角を二振り頭に備えさせた子供だった。


 いや、恐らく子供というのはその見た目だけの話だろう。その本質がどのようなものであるのかはまるで分からない。


 何せその声の一つ一つは妙に憂いを帯びた大人のようであって、子供が発する無邪気さというものが皆無に近しい。


 それにその巻角や完成されきった造形を見れば、人間から程遠い存在であるのは確かだ。


 魔性が、実に不思議そうに言葉を継ぐ。


「――ン。いや、やっぱり人間だ。うん、人間にしては上出来極まる。どう造り上げたのか大いに気になる所だよ、兄さん」


「そうかい。なら一つ拍手でも欲しいもんだ。出来るなら敬意を表して道も開けてもらいたいね」


 軽い口調でそう言いながら、宝剣を構えたまま更に半歩前へと出る。それだけで俺に与えられた重圧が、より密度を増した気がした。


 いいや、気がしただけでなく、きっとそれは事実だろう。


 巻角を備えた魔性が目線を歪めながら此方を、見ていた。その眼が本当に俺を見ているのか、それともまた別の何かを見ているのか、どうにも分からない。


「俺はまるっきり問題はないんだがね。どうやら監獄長殿はお前らに随分とお怒りらしい」


 俺と比べて随分と小さな肢体が、素手のまま構えを取っている。端からその姿を見れば、まるで脅威など持たぬ子供にしか見えぬのだが。


 対面すれば、よく分かった。


 その節々から、魔獣特有の凶たる意が満ち溢れている。眼の端からは暴威とも言える圧迫感が吐息をもらし、その短躯が見かけ通りの存在ではない事を語っていた。


 宝剣を傾けながら、傍らのヴェスタリヌに呟くように言う。


「ヴェスタリヌ。どうやら面倒な輩に眼をつけられた。悪いが先に走り込んで、監獄長の首端を掴んできてくれるか」


 正直な所、今此の魔性が語ったことも全て素直に受け止められるわけじゃあない。しかし、かといって此の儘此処で二人そろって足止めをされてしまえば、それはただ死を待つのと同義だ。


 今まで無気力同然に振る舞っていた看守共も、幾らなんでも争いあう様な騒ぎ事を行えば、必死に駆け付けてくるだろう。


 そうなれば、幾ら剣を振るった所でそう意味はない。此方の戦力は二人、相手は数百。話にもならないのは明白だ。


 なればこそ、早々に目的は遂げなければならない。監獄長の身柄を取り押さえられれば、状況がどう転がれどある程度交渉という奴も上手くいく。いいや、いかせるさ。


 だが、ヴェスタリヌは俺の言葉を受けて尚、その体躯を動かそうとはしなかった。むしろ全てを跳ねのける様な雰囲気すら発して、こう言った。


「――それは出来かねます、ルーギス殿」


 そう語ると同時、ヴェスタリヌはその戦斧をくるりと回し、肩に担ぐように構え直した。

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