第三百十九話『余りに遠いその歩み』
監獄ベラの食料保管庫の中は、死雪の所為もあってか随分と肌寒い。上着を着ていても尚肌身に寒気が忍び込んできた。
監獄内の大人数の胃袋を賄うものだけあって、その大きさは相当なものだ。大商人の倉庫と大差はないだろう。詰まりそれは、隅から隅への点検などとても手間がかかってやってられぬという事に他ならない。
運び込まれたばかりの荷台。その一つに手を掛けながら、看守が言った。
「そっちはどうだぁ。何かあったか。もうパンに塗れるのは飽きて来たぜ」
「いやぁ、虫ならいたがな。何もあるわけねぇ。監獄長様の臆病だろうよ」
誰もが明らかに気だるげな声だった。監獄長パロマの言葉であったから致し方なく荷台を改めてはいるが、彼らの気力自体はそれほど旺盛なものではないらしい。
むしろ人目のつかぬ場所での仕事という事で、存分に怠惰を味わってすらいた。
だが、それも致し方ない。元々からしてこの荷物全てを改めるなどというのが無茶というものだ。
何せ商人の奴は荷台にこれでもかとばかりに荷物を詰め込み運んできている。下手に手を出せば全てが崩れだして余計に手間がかかるだけ。本当に全てを確認するとなれば、それこそ朝から晩までかけた大仕事だろう。
今はもう夕飯時だ。そんな手間をかけられるはずもない。
看守の一人はとうとう座り込んで、荷台に放り投げられていたパンを手に指先に掴んだ。気候の所為か妙に固くなっていたが、それでも腹を満たすのには十分だ。
パン生地に歯が食い込み、いつの間にかパンそのものが手の内から消えている。次は出来れば干し肉のようなものが良い。
看守はそう思い、荷台の奥へと指を差し向ける。物陰が蔓延りよく見えはしないが、肉の手触りならすぐにわかる自信が看守にはあった。
今まで以上に懸命に、パンだの芋だのを掻き分けて奥へ奥へと腕をやる。何、誰もみてはいやしない。皆自分のつまみ食いに必死だろう。下手をすればもうとうに保管庫から抜け出してしまった奴だっているはずだ。
そんなものだから。其れを見たのも、たった一人の看守だけだった。
――腕が、伸びていた。荷台の内側から長い指を、此方へと差し向けている。
看守が絶叫をあげる暇は。なかった。指は看守が何事かを発する前に、その喉をへし折るが如き勢いで、締めあげていたから。
◇◆◇◆
さて面倒な、いや不味い事になった。
思わずそう、胸中で愚痴を零れさせる。荷台の中でパンに塗れていた所為か、外に出た後も全身からは妙な臭いが沸き立っていた。
本当は、夜遅くまで忍び込んでいるつもりだったのだが。
肉を締め落とした感触を手から離れさせ、ひっそりと耳を潜めた。周囲には大した音はない。足音や声色を聞くに、精々保管庫の中には後二、三名程といった所だろう。
今のような要領で軽く締め上げられれば手軽で良いのだが。知らず唇が拉げ、吐息を漏らす。頭蓋の裏が大きく痛んだ気がした。
乾いた唇を動かして、呟く。
「出来ればそのままじっとしていて欲しいんだがな。どうにも性分か、一人の方が動き易くてね」
頬が思わずひくついた。それは俺自身への愚痴ではなく、まして周囲をうろついているであろう看守連中に語ったのでもない。
ただただ、荷台の内からするりと抜け出てくる同行者に向けて言ったのだ。彼女はその二つ名に相応しいだけの硬さを表情に貼り付けて、言う。
「今、何か言いましたか。ルーギス殿」
軽く肩を払いながら全身を見せた鉄鋼姫――ヴェスタリヌ=ゲルアに向けて眼を置きながら思わず肘を竦める。
彼女は何を言うでもなく、その唇を強く締め上げたままただじぃと此方を見つめている。
どうしたものか。昨日から、いや以前からかもしれないが、彼女は俺に対して当たりが強いというか。挑戦的というか、そんな態度を取ってくる。
恐らく今回俺への同行を申し出たのも、そんな対抗心が胸の中に欠片ほどあったからかもしれなかった。
それが何とも、彼女が普段見せる冷徹な表情とは余りにかけ離れていて、随分と奇妙なものを見ている気分になる。
無論、理由は理解していた。ただただ、ブルーダーへの親愛がこのような態度を彼女に取らせているのだろう。
いや全く正しいことだ。我が事ながら、俺は俺自身をさして全うな人間だとはとても言えない。冗談じゃないとすら思う。そんな人間を親類から引き離したいと思うのは、きっと正常な感覚だ。
だから、その尖り切った視線や吐き出された情動くらいは受け止めてやるのが道理というものだろう。
それからは大した会話もないまま互いに音を潜め、周囲の様子を探っていく。俺の頭蓋の中では、さてどうやってこの絡まり合った糸を解そうかと懸命に思考がその指先を動かしていた。
何といっても本来、監獄ベラへと入り込むのは俺一人の予定でしかなかった。いやそれにしたって、出来る限り選び取りたくなかった選択肢だ。
可能であるならばおびき出した兵どもを踏み潰し、守る者がいなくなった監獄にそのまま牙を突き立ててやりたかったのが本音だった。
少なくとも、正面から堂々と、なんてのは御免だ。
というのも此の監獄ベラという仰々しい建築物は、元々前線と王都とを繋ぐ中継砦であった影響か妙にその造りが堅牢になっている。
監視塔が周囲を見張り、深い水堀に囲まれた構造の所為で内部に入り込むための道はたった一つの可動橋のみ。
なるほど、砦として用がなくなったなら、何かに再利用したくなるのはよくわかる構造だ。造り上げた先王も報われることだろうさ。
攻め入る側としては堪った者ではないが。せめてもう少し手心くらい加えて欲しい。秘密の抜け穴でも教えて欲しいね。
だが、何にしろ正面から堂々と門扉に立ち入ることが出来ぬのなら、精々暗がりに紛れて入り込むしかない。そういった手法には慣れたものだ。何せ上等な教師がいてくれた。
寒気にかじかんだ指の先を軽く歯に噛ませ、折り曲げながら言う。
「ヴェスタリヌ。外の傭兵共は、欠片ほども心配はいらないって事でいいんだよな」
俺の言葉に対し、ヴェスタリヌは少し自慢げな響きすら言葉に含めて返す。
「当然じゃないですか。自分で何一つ考えられない兵なんて、私は率いていませんから」
そいつは何よりだ、そう言いながら腰元の宝剣へと手を置いた。足音が二つ、ゆっくりと此方へ近づいてきている。
その妙に不規則な音の出し方から見て、何か大きな荷物でも運ぼうとしているのだろう。例えば、手にもち切れぬほどの食料だの、酒だのだ。
影が視界に入る。ゆらゆらと揺られながら、まるで陽気さを露わにしたかの如き様子で歩いてくる。音を立てぬよう、少しばかり息を吸った。
しかし態々荷台の中を調べに来るような連中であるからして相当に用心深い集団なのかと思っていたのだが。此の様子を見るにそうでもないらしい。ただの気まぐれなのだろうか。
結構、そのままでいてくれれば歓迎だ。
歩きうろつく影が、俺のものと重なった。
瞬間、宝剣の姿が長く伸び、そうしてそのまま影を貫いていく。手の内に血を吸い上げる感触があった。
それとほぼ同時、ヴェスタリヌの戦斧が空を裂いて、眼を見開き声を轟かせんとした看守の頭蓋と顎を一振りで叩き割る。相変わらず、肉だの骨だの一切合財を叩き割る重い一振りが其処にあった。
もう、足音は何処にも無かった。ただ食料保管庫の中に歪な静寂だけが横たわっている。
「それで、此処からの道筋はお考え済みなのでしょうか――?」
ヴェスタリヌが、囁くようにそう言った。確かに、彼女が俺に同行するとなったのは最後の最後だ。お陰で大した説明も出来ていなかった。
大仰に頷き、可能な限り余裕ぶって見える様に表情を作り上げながら、言う。
「――なぁに、安心してくれよ。相手の腹の中で悪だくみするのは得意分野でな」
頭蓋の裡で存分に思考を回しながら、唇の先を撫でた。何であれ、もう相手の懐に入り込んだのは確かというわけだ。
ならばもう、成すべきを成すだけ。後は其れが俺に出来るかどうかといった所だろう。
――それこそ奴なら、難なくやり遂げてくれたのだろうが。
ああ、なればこそ、俺もやらねばならんのだろうさ。宝剣から血をふき取り鞘にしまい込みながら、対にしたように腰にさげた白剣を撫でた。
さて、まずは一歩と行こうじゃあないか。立ち止まるのはもう飽き飽きだ。




