第三百十七話『喉元を這う悪寒』
死雪の時代の間、各国の街道という街道は随分と静かになる。
死雪が降り注ぐ間は貴族や商人の多くはなりを潜め、蓄えた富で贅沢を謳歌するものだったし。普段出稼ぎに忙しい庶民も田舎に帰って大人しく酒を傾けるのが常だった。
誰もかれも、それこそ魔獣以外はひっそりと息を殺す。死雪とはそういう時代だ。
そうして、そんな中に意気揚々と街道を踏みつけようという人間は、精々二種類しかいない。
度を超えて欲深い商人と、稼ぎ時とばかりに腕を振るう傭兵だ。
がたり、ごとりと、雪の中を揺れながら商隊の馬車が幾つも走っていく。周囲には十数名の傭兵が並走し、馬車の中にも相応の人数が詰め込まれているようだった。
これ等を雇うのには相応の金がかかるものだが、商隊を率いる商人には十分に見合うだけの打算がある。
今回の取引先は、監獄ベラ。中には数百名を超える人員に、その数倍の囚人がいる。詰まりそれら無数の胃袋を満たすための食物が必要だった。
当然囚人の胃に入るものなど安物に過ぎないが、そんなものでも死雪の中運び込まれれば価値は数倍に跳ね上がる。黴の生えたパンだって構いやしない。
いや、むしろベラに押し込まれている旧教徒には十分すぎるだろう。
例え法外な値段をつけたとて、他に食物を運び込める商人などそうはいない。ゆえに監獄側も此方の言い値で食物や資材を買わざるを得ないのだ。
全く、此れ以上に良い商売はないと商人は思う。
勿論、魔獣に襲いこまれる危険もあれば、何時全てを失うか分からない危険もある。同業者がそう成った話は何度も聞いた。
だが、商人は思う。それは自分ではない。例え自分だとしても今ではない。いいや死ぬまでそんな目にあって堪るものか。
そんな風に思った、頃合いだった。先頭の馬が大きく嘶く。蹄が暴れる音が鳴り、馬車が軋んだ。
また雪が馬の眼にでも入ったのだろうか。そんな呑気な想いが皆の脳裏に走った、瞬間。
馬車を轢いていた数頭の馬の首が、血を纏って弾け飛ぶ。投げ斧が、馬肉を嬉々として食い取っていく。
殆ど同時に暴音が、鳴った。
――ォ――ォオ゛――ゥオオオッ!
途端、傭兵共の眼が見開かれる。随分と聞きなれた音が耳に響いていた。
声とはとても思えぬ叫び。具足が跳ね鉄を叩く響き。幾つかの蹄と人間の群れが地面を叩き割る音。
聞き逃すはずもない。人が、人を襲う時の音だ。
傭兵共が手の中で武具を、握り込んだ。
◇◆◇◆
雪中に、鉄を勢いよく振るう音がした。単色で染められていた死雪の世界が、ぼんやりと赤みがかっていく。
赤はより強い鮮血となり、雪を溶かして大地に染みわたっていった。
それが、幾度か続いた。
耳に当たるのは剣戟と、そして躊躇ない悲鳴の音。肉が裂け骨が砕ける嫌な感触が手の中一杯に広がっていく。
鈍色の空の下、降りかかる雪を跳ね飛ばすような絶叫が暫くの間、馬車を中心になり響いていた。それは人が襲われる時の音。
「助けてくれッ! 見ろ、もう腕が折れて戦えねぇ――!」
眼前の男は身なりを見るに、明らかに傭兵然とした風だった。装備の質を考えると、恐らくは此の男が商隊の護衛をしていた傭兵団の頭目といった所だろう。
それが膝をつき、明確におかしな方向に折れ曲がった腕を見せて何事かを叫んでいる。
眼を、大きく開く。宝剣を真っすぐに振り上げたままの恰好で、言った。
「――死んで良いと思ったから傭兵になったんだろう、お前は。なら俺の顔を見ろ。よく怨んで死ね」
紫電の線が、宙を裂く。
矢を穿つほどの勢いを刃に乗せて、傭兵の頭蓋を割った。血飛沫が嫌というほど弾け飛んだが、それもいずれ雪に覆い隠されるだろう。雪中に死雪蝶が瞬いているのが見えた気がした。
ふと周囲を見上げると、剣戟や悲鳴の一切が鳴りやんでいた。どうやら全てが終わったらしい。
「まるで賊にでもなった気分ですね。ルーギス殿は随分と手慣れてらっしゃいますが、経験でも?」
ヴェスタリヌが此方を見つめ、戦斧を肩に置きながら言った。その眼には、呆れに近しい色が浮かんでいるのが良く見える。綺麗な頬に血が跳ねていたが、恐らくそれは返り血だろう。
肩を竦め、宝剣から血を拭った。
「さぁな。だが人間、後ろ暗い事の三つや四つはあるもんさ……いや、五つかな」
言って、肺の底から存分に空気を吐き出す。戦闘の高揚が抜けていくと、全身に痺れる様な痛みが走っていった。
何かしらの傷を付けられたわけではない。ただただ、未だフリムスラトでボロ衣となった身体が癒えていないだけだった。まぁ、こんな様子でも動いてくれるだけましというものだが。
損害はどうかと聞くと、ヴェスタリヌは俺を真似た様に肩を竦めて負傷者が数名、とだけ言った。固い性格だと思っていたが、案外素は軽いのかもしれない。
死者は無し、結構な事だ。
とは言っても此方が三百ほどの数を引き連れている中、数十名に対し奇襲をしかけたのだから当然なのかもしれないが。
腰元に宝剣を戻し、白剣と共に揺らしながら大地を見つめる。雪が積もった街道の中に、はっきりと足跡が残されていた。
どうやら、生き残った商人は見込通り監獄ベラへと逃げ込んでくれているらしい。此の後も上手くいってくれると良いのだが。
瞬間、喉の辺りにぞわりとするものを感じて、眉を顰める。
嫌な、予感がした。何かがあったというわけではないのだが。どうにも、俺という人間の思惑が上手く運んでいる時というのは、得てして良くないものが眼を覚ます気がする。
そうして知らず知らず思惑違いの方へと結末が転がっていくのだ。ガルーアマリアの時も、ベルフェインの時だってそうだった。
ヴェスタリヌが俺の横顔を怪訝そうに見つめて言う。
「商隊から食物を奪って、兵糧戦ですか。中の囚人から先に死にますよ、惨たらしいルーギス殿」
何が切っ掛けか知らないが、ヴェスタリヌの中での俺の評価はよろしくないらしい。元々何処か清廉な部分がある彼女と俺とでは、反りが合わないのは仕方がないといえばそうだ。
商隊が置いていった荷車の幌を指先で軽く開けてみると、それだけで幾つかの食物が零れ落ちてくる。随分と無理な詰め込み方をしているようだ。これでは中に何が積んであるかの確認も一苦労だろう。
指で、唇を撫でる。頬を拉げさせながら、ヴェスタリヌに向かって言った。
「勘弁してくれ、死雪に長期戦が出来るかよ。その為に商人を逃がしたんだ」
そうだとも。何のために、商人を生かしたと思っている。監獄ベラの看守や兵共に、存分に伝えてもらう為じゃあないか。
唇を開き、言葉を継いだ。
「奴ら、早けりゃ即、遅くても明日の朝にはひっくり返って監獄から飛び出てくる。ご苦労な事にな」
死雪の時代というものは、ただでさえ食物が不足しがちだ。特に村落からも離れた監獄となれば、余計に。
なら命がけで食物を運び込んでくれる商人はまさに生命線。流石にすぐさま餓死者が出る様な杜撰な管理はしていないだろうが。賊に奪われた荷物をみすみす見逃す程の余裕はあるまい。
取り返すさ。取返しにくるとも。商人が伝えてくれるはずだ。そう簡単には運びきれないほどの荷を持ってきたと。賊は運ぶための馬を皆殺しにしたのだと。
「傭兵を集めてくれ。此れからの段取りをよく覚えてもらいたい」
俺の言葉に、ヴェスタリヌは目を細めて語る。その眼の中には少しばかり、懐疑の念が含まれている様だった。
「構いませんが、酷い筋書ならば私は賛成をしませんよ。しっかりと説得をしてください」
それは、元々監獄ベラを襲撃するという事には消極的だったヴェスタリヌらしい言葉だ。
一人や二人を救出するならばともかく、監獄自体を打ち壊してしまうなど無茶がすぎると、そう言われたのだったか。
元々嫌われているのもあるだろうが、以前共にベルフェインへ侵入した際随分と無茶をした所為か、どうにも信用というものがないらしい。
そんな事を告げると、ヴェスタリヌは当然だとばかりに、言った。
「当たり前でしょう、ルーギス殿――貴方はまだ、私の言葉にすら答えていないではないですか」
それだけを口にして、ヴェスタリヌは背を見せた。戦斧がふいと回され、血が死雪の中を舞っていた。