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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十三章『大災害編』
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第三百十五話『地図の上』

 砂岩と枯れた草の匂いが空気に混じりあい、風にのって鼻孔を突く。


 懐かしい、かつて嫌というほど味わった匂いだった。もう飽き飽きしたと思っていたのだが、今となっては郷愁すら思い浮かべるのは人間の習性だろうか。


 それらの匂いも、惜しみなく降り注ぐ死雪によって近い内に押しつぶされる。今尚死雪は大地をなめ尽くし、支配地を広げんとその身を世界にまき散らしていた。


 瞼を揺らし、小高い丘の上から眼下へと視界を投げる。


 ガーライスト王国と東部都市国家群とを隔てる境界、オーガス大河。本来は流通を促すその大河も、今ではすっかり身を凍り付かせ死雪をうず高く積んでいる。今なら橋を用いずしても対岸まで渡れてしまうだろう。


 勿論、ガーライスト王国の影響力自体は東部都市国家群まで及んでいるし、何処から何処までが明確な国境だのというのは後世の歴史家にしか分からぬのだろうが。


 一先ずの所、此の大河という大きな境界をもってガーライスト王国が領権を発揮してきたのは事実だった。


 今、その国境たる大河の淵を覆うようにして、紋章教兵が身を並べてたてている。


 死雪用の灰色軍装に身を包み、誰もかれもが白い吐息をあげている様が遠くからでもよく見えていた。


 数は三千兵ほど。紋章教という勢力の規模を鑑みれば、これ以上望めないといえる規模だろう。よくもまぁ、此処まで整えてくれたものだ。


 確かにオーガス大河沿いに兵を並べ立ててくれとは言ったものの、死雪の中こうも兵を送り込んでくれるとは流石に想像していなかった。


 東部国境にガーライスト王国の耳目を集めさせるという意味では十分ではあるのだが。


 そんな事を軽く呟くと、即座に溜息をつくような言葉が飛んでくる。寒空が、よく音を届かせていた。


「本当に大騒ぎだったのですよ、ルーギス殿。傭兵である私達の耳にまで入り込んでくるくらいには」


 傍らでそう言いながら、鉄鋼姫ヴェスタリヌ=ゲルアは白い靄を口の周りに漂わせた。


 聞くに、聖女マティアから下された派兵の大命。その命令一つで紋章教軍の重役、ないしそれに伴う調整をこなすラルグド=アンは食事も片手間になるほどの多忙さを極めたとの事だった。


 何せ紋章教軍は死雪の間遠征を行う事など欠片も想定していない上、装備すら真面に整っていない。加えて遠征地で飢えず凍えぬ為の補給路の確保だって必要だ。


 それら全てを一から、しかも何ら備えがない中で成さねばならない。なるほど、そこにどれほど壮絶な時間と手間が必要なのか。想像すらしたくない。


 アン殿は恨み言のように貴方の名前を呟いていました、とヴェスタリヌは小首を傾かせながら言った。


 知らず、唇の端を歪める。渇きからか、鈍い痛みを走らせる喉を指で撫でた。


「十分すぎる心遣いに頭が下がるね。次会う時が怖いくらいだ――それで鉄鋼姫様、ベルフェイン傭兵の方の準備は大丈夫かい」


 口元に白い靄を作りながら、そう問いかける。何せ時間がなかったのは紋章教兵にしろベルフェイン傭兵にしろ同じであるはずだ。


 ヴェスタリヌは毛皮を所々に備えさせた鎧に身を包みながら、唇を跳ねさせた。


「ええ、勿論。我々は何時であろうと万端です。ベルフェインの傭兵は、例え身体が柔らかい寝床についていても、夢では戦場に出向いているものですから」


 その言葉には、ヴェスタリヌの凛然とした雰囲気が張り付いていた。一切の揺らぎがない音色は、その声の裏に一切潜ませるものがない事を示している。


 素晴らしい、何処までも頼りがいのある御言葉だ。ベルフェインの荒くれを一身で取りまとめているだけはある。


 今回は彼女らに存分に働いてもらう事としよう。何せ死雪に最もその身を振るわせるのは、国軍や商人ではなく命を代価に商いをする傭兵と相場が決まっている。


 噛み煙草を口に咥えさせると同時、ベルフェイン傭兵が陣を構えた辺りから歓声のようなものが響いてきた。


 この寒風吹きさすぶ中を少しでも快適に過ごすための工夫、という名の酒盛りでもしているのだろう。相変わらずのようで何よりだ。


 ふと、思い至ってブルーダーの事を口に出した。ヴェスタリヌの姉であり俺の友である彼女は、ベルフェイン傭兵とその行動を共にしている。


 今は都市フィロスにて受けた負傷を癒す為ガルーアマリアにその身を落ち着けているはずだが、やはり少しばかりその身は気にかかっていた。


 どうにも、かつての頃一度彼女を失った事は俺の胸に少なからず穴を開けているらしい。


 ヴェスタリヌは俺の言葉を受けると、ひっそりと視線を強くしていく。


 体内に存在する感情を齎す機関に、俺の何気ない問いかけが触れたとでも言いたげだ。いや、そんな不穏な事を聞いた覚えはないのだが。


「……容体は随分落ち着きました。今回の同行は流石に断念頂きましたが、もうすぐ身体は動くようになるでしょう」


 固い言葉を漏らしただけで、ヴェスタリヌは唇を閉じた。表情も何処か憮然としたものになっている。


 その様子を見るに、もしかするとブルーダーも今回の派兵に付き合うとでも言いだしたのかもしれない。ブルーダーという人間は、何処か自ら危難へと果敢に飛び込むのを良しとしている節すらある。


 そういった傾向を美点と呼ぶべきか、悪癖と称するべきかは少々判断に困るが。ヴェスタリヌの態度を見るに、そういった点から多少姉妹間に衝突でもあったのかもしれない。なら、余り触れてやるべき話題ではないだろう。


 ヴェスタリヌの言葉に、軽く頷いて返す。まぁ無事であるなら結構な事だ。また機会を見て美酒でも差し入れにいくとしよう。

 

「それで、いい加減我々が成すべきを教えて頂きたいですね、ルーギス殿。傭兵達に仕事を与えねば、私は彼らを率いる資格を失いますから」


 近くの寒村でも揺さぶるのですか、とヴェスタリヌは軽く声を跳ねさせる。未だ、彼女らには其処の所を伝えていなかった。


 別段彼女らを信用していないというわけではなく、ただただどう伝えたものかと思案していただけなのだが。


 噛み煙草を一度唇の上に起き、独特の香りを鼻の先で転がした。数度言葉を思考の中で整えたが、馬鹿らしくなってやめた。


 どう取り繕おうと、やる事はただ一つだけだ。ヴェスタリヌに視線を投げかけて、噛みしめる様に言う。


「ヴェスタリヌ、傭兵の成すことは古今から決まってるじゃあないか。ただそれを成すだけさ」


 眼を開き、唇の端をわざとらしくつりあげた。


 傭兵というものは時代と地域によってその姿を大きく変えて来た。時に貴族の私兵のような扱いであった時もあれば、山賊とそう変わりない時代もある。


 国軍という概念が無かった頃には、各地に点在する傭兵が国家の兵そのものだったとも聞いた。


 だがその時代から今に至るまで、変わらぬ傭兵の伝統がある。


 ――それは詰まり、襲撃と略奪。戦う事と奪う事。


「ガーライスト王国には埋葬地と呼ばれる監獄があってな。随分古くから働いてるご老人だ。良い加減もう役目を終えて貰おうと思う」


 ヴェスタリヌが、その睫毛を高く上向けたのが分かる。少しばかり思う所があったのだろうか。普段そう言葉に迷う姿を見せない唇が、数度揺らめいて何を言うべきか探している。


 数秒の逡巡を見せてから、彼女は言った。


「それは、監獄から誰かを救出するという意味と受け取っても?」


 ヴェスタリヌの呼吸が、僅かに荒くなっている。白い靄が大きくうねり宙に投げ出されていった。


 その問いかけは真意を掴みかねているというより、何かを確認したいという風の言いぶりだった。


 此方を真っすぐに見据える眼を見て、言う。


「勿論。だが、それだけじゃあない。言っただろう、幕引きをするのさ」


 唇を波打たせたまま、言葉を継いだ。ヴェスタリヌがもの言いたげにしているのが印象深かった。指を軽く握りこむ。


「埋葬監獄ベラはもはや紋章教に対する迫害の象徴だ。アレがある限り紋章教徒と大聖教徒の立ち位置は決して変わらない。迫害される側と、迫害する側のままというわけだ」


 例え此方が少しばかり噛みついてやった所で、頭の中に深く根を張ったものは覆せない。強者と弱者の関係は得てしてそういうもの。


 もしそのままの関係が永遠に続くなら、もう紋章教と大聖教は何方かが地上から姿を消すまで食い合うしかなくなってしまう。


 何せ人というものは一度得た利益や優位というものを、そう簡単には譲り渡そうとしないものだ。だから彼らは何時までも紋章教を足蹴にし、紋章教を迫害し、己の優位を証明する。


 そうして監獄ベラは、その象徴そのもの。


「だから、もう潰してしまうしかない。成す事はそれだけだヴェスタリヌ。簡単さ、ただ監獄が一つ、地図の上から名前を消すだけだ」

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