第三百十四話『悪辣たる老獪と静かなる嵐の邂逅』
ガーライスト王国王都。
その煌びやかな中心市街からはやや離れたフォモール家の別邸に、嵐はいた。それは実に愉快げに、声をひらつかせて話す。
「酷い有様だな。いや貴殿のような悪党にはお似合いとも言えるか。悪党にはいずれ振るった剣が自らに戻ってくるものだ」
嵐の代弁者、ヴァレリィ=ブライトネスはそう語りながら全身の筋肉を緩ませる。ゆったりと自らの唇に指を当てながら、気軽に眼前の人物へと声を掛けていった。言葉は幾らでも喉から零れ出てくる。
普段そこまで口数が多いとは言えない彼女にとっては何とも珍しい事に、今日は舌が妙に滑らかだった。
「とうとう老いが回ったか、それとも酒で頭が焼き爛れたのではないのか」
唇から放たれるのはまるで固い石でも投げつけるかのような辛辣な言葉の数々。しかし奇妙な事にそのどれもに、親しみのようなものが込められていた。
さもそれが親愛の証だとでも言うようだ。
ヴァレリィの言葉の礫を受け止めつつ、それをそのまま歯で噛み砕くように、対面に座る悪辣リチャード=パーミリスは口を開いた。
「馬鹿を言えよヴァレリィ。俺が老いるのは此の身体が死ぬ時だけだ」
腹の傷口に大きな包帯を巻いたまま、リチャードは笑みを浮かべて語る。
老齢ゆえかその身体の節々には未だサーニオ会戦での傷跡が姿を見せていたが、それでもその怜悧狡猾さを思わせる表情は健在のようだった。
喉に注ぎ込まれた酒が軽々と胃に収まっていく。心地よさそうにリチャードは眼を細めた。
数度、他愛もない会話があった。旧交を深めるというような内容とはまるで言えない、礫を飛ばしあう様な会話。
だがそれこそが、彼らの通常の会話であるらしい。互いにその距離感が最適だと理解しているようだった。
「――耳を疑ったぞ、貴殿が戦場で膝を付くとはな」
ヴァレリィは自らグラスにワインを注ぎながら、言う。普段であれば己の手で酒を注ぐというような事はしないが、今日この時ばかりは使用人も己達が居座る部屋には近寄らぬよう言い含めてあった。
何せ本来互いに多忙の身。偶然賽子が同じ目を出す機会がなければ、言葉を交わすこともままならない。
だからこそそういった偶然が重なった時には、二人で酒を飲み交わすのを常としていた。と言っても互いに喉に通す酒はまるで別のものなのだが。
リチャードはヴァレリィの言葉に顔の皺を深めながら、応じる。妙に浮ついた声だった。
「何を隠そう俺もさ。此の歳になって未だ闘争心というもんは消えてねぇんだと実感できたぜ。カ、ハハッ」
口惜しくてたまらねぇよ、そう語るリチャードの姿を見てヴァレリィは思わずワインを口から零しそうになる。舌の上を柔らかい感触が襲っていった。
リチャードの表情は言葉とは裏腹に何処か笑みすら湛えている様であって、とても口惜しいだとか悔しさを噛みしめているようには見えなかった。
いいや、事実それを胸の中に抱いているのは確かかもしれないが、それを表情に出すほどの素直さなどもう彼は持ち合わせていないのだろう。
それは、ヴァレリィにとっては嬉しい事だった。
もしも、もしもではあるが。此の悪辣が悲痛に暮れ沈み込んでしまっていたならば、きっとヴァレリィはどんな言葉を掛けてよいか分からなかったに違いない。
慌てふためいて、本来口に出さぬはずの言葉すら漏らしていたかもしれないのだ。とんだ不様を晒すことにならず、知らずヴァレリィは胸を撫でおろしていた。
リチャードの表情を見つめながら、口を開く。
「確かルーギスとか名乗る無法者だったな、相手は。今も随分と元気に暴れまわっているそうだ」
その所為で私も暫くスズィフに帰れそうにない、とヴァレリィは続けた。
その言葉と名をヴァレリィの口から聞き、リチャードは両眉を僅かにあげた。その言葉の意図する所を察しながら、表情の皺を深める。
ヴァレリィが語る所の意味は、リチャードもすでに耳にしている。死雪に入ってその勢いを潜めるはずだった紋章教が、今再びガーライスト王国東方国境付近に兵を集めその牙を見せているというのだ。
兵を率いる者の名は、魔女マティアより英雄の名を与えられた者、ルーギス。ガーライスト王国においては悪徳そのものと呼ばれ忌み嫌われる男。
ルーギスが東方国境において何を成そうとしているのかはまるで定かではない。
ただ兵を用いた示威行為を成そうとしているのか、それとも本当に死雪の中国境を踏み入ってくる気なのか。
少なくとも死雪が降り注ぐ中に態々兵を集積するなど馬鹿げた事であるに違いないのだが。だからといって無視も出来ない。
どのような理由があろうと敵が押し迫っている中に兵を寄せて防がぬというのであれば、それはもはや国家としての体を成さぬという事に他ならないからだ。本当に槍を突き合い命を奪い取るという事はせずとも、睨みを利かす程度の事は必要になってくる。
ゆえに、本来準備が整い次第スズィフ砦へ帰任するはずだったヴァレリィ=ブライトネスは、未だ備えとして王都の離れ屋敷なぞに押し込められている。
そればかりかもう少しもすれば東方国境付近の防衛に当たれという任が上から降ってくる予定だった。
純粋に国軍に人材が足りないのか、それともただただ政治の場が乱れているのかは分からないが、振り回される方にしてみれば良い迷惑だとヴァレリィはわざとらしく肩を竦める。
ヴァレリィの様子に思わずリチャードは違いない、とその老獪さを示す眼を細めた。リチャードと視線を合わせながら、ヴァレリィは静かに唇を波打たせる。
「――参考までに聞いておきたい。貴殿は、敵方の狙いは何だと見る。本当に国境から攻め入るつもりだと思うか」
殆ど考える間もなく、リチャードは応えた。言葉にはまるで嘲弄するような響きすら混じっている。
「俺ならしねぇよ。ならあいつもしねぇさ――ありゃあ俺の元教え子でな。これはあいつが好んで使う手だ」
皺を深めながら、リチャードは言った。
そう、確かバードニック家の令嬢を攫った時もそうだった。ルーギスは堂々と兵を陽動に使いあげ、その裏で自らの目的を成したのだ。
大胆で馬鹿げたことをしているように見せ、案外と利口に手を回すのが奴の得意とする手口だった。
人は大きな物事に瞳を奪われれば、小さな物事に対して余りに愚かになる。その事を、あれは己が教える前からよく知っていたと、リチャードは言う。
ヴァレリィは洗練された動きでもって頷き、リチャードに続きは促した。ヴァレリィの胸はリチャードの言葉を、そのまま素直に受け入れる。
ヴァレリィは己という人間が、戦場に長けている事をよく知っている。そうして反面、それ以外の部分では他者からの助力を必要とする人間だと言う事もよくよく理解していた。
だからこそ、己が成すべき事への確信が欲しかった。それもあって今日は、此処にいる。
思う所は幾らでもあるが、それでもリチャードの言葉であれば確信に足ると、ヴァレリィは信じる。リチャードは一瞬唇を閉じて酒瓶をテーブルに置いた。
その指先が軽く髭を絡み取り、そうして言う。
「――全ては読み切れんな。東に眼を向けさせたいのは分かるが、紋章教が西方に備えがあるようには見えん。なら、一先ずは人だろう」
人。そう言ったリチャードの言葉をそのまま返すように、ヴァレリィは言った。
ヴァレリィの鋭利な眼を見つめながら、リチャードは応える。
「あるじゃあねぇか。紋章教の人間が豚みたいに詰め込まれた場所が、此の国に一つよぉ」