第三百六話『巨人神話』
唐突に、大量の血液を直接体内に呑み込まされる感触がカリアにはあった。それに近しい感覚があるというのではない。間違いなく、今己の身体には新たな血が、熱が注ぎ込まれている。そんな悍ましい実感。
吐き気が喉を掻きむしり、鮮烈な痛みが眼を焼いていく。
ふと、一瞬痛みが過ぎ去れば、次の痛みがまた四肢を食いちぎっていく。臓腑そのものが血を吐き出しているのかと思うほど。
何だ此れは、何が起こったとカリアが自問する暇もない。知らぬ内に視界からは大神殿が消え失せ、音すらも暗闇の内に消えていく。
その中で聞こえているのは、ただ一つ。絶叫とすら思える巨人の慟哭。
「――我が肉にはもはや蛆が巣くい、未来をも見通した眼も、今ではがらんどうの眼窩となって何一つを見通せない」
叫び声に近しいそれは単語を拾うのでも一苦労だ。理解することは苦痛に等しい。けれどどうした事か、カリアはそれを聞いただけで視界にありありと情景が浮かび上がる。
腐肉となった体躯には虫が這いまわり。全身は殆ど骨そのものとなりながらも、未だ生き延び続け横たわる強大な人。かつての巨人の王の寝姿。彼の眠りは世界が死に絶えるその日まで醒めることはない。永遠に近しい時を暗闇の中、腐る体躯を抱えながら生きていく。
視界に入り込んでくる情景はまさしく神話そのものだった。幾ら振り払おうとしても、紛れもない実感として情景は瞼に張り付いている。
神話の中の存在が、今も地の底で眠り込み吐息をしている。そんな想像が背筋を通っていくだけで、悍ましい感情をカリアは臓腑に感じた。
「かつて地平の先まで届いたこの手も、今ではアルティウスの髪先も掴めぬだろう」
アルティウス。その単語にカリアの眦が情動を灯す。
それは、ルーギスが大聖教の聖女を指し語っていた名。そうして今も己らに脅威を振るっている者の名。
そうだ、ルーギスはどうなった。あの魔女はどうなった。今己は何をしているのだ。そんな思考がぐるりぐるりとカリアの頭蓋を揺らし、その足元がふらついていく。
しかし、そんなカリアの困惑など知ったものではないとばかり。巨人の声はカリアの全身を震わせた。
「我が小さな血族よ。もしもこの身を憐れむのなら、そうしてアルティウスの前に立つならば」
血族の寵愛を与えようと、巨人は語る。それこそカリアの身を踏み潰しかねないだけの圧力を伴って。
何とも勝手な言い分だと、カリアは思った。言いぶりを聞くに、恐らくは今己の身に起こっている惨状も此の巨人の仕業に違いない。
大魔フリムスラト。傲慢で、力を信奉し、大地を踏みしめたかつての覇者。人間なぞ欠片たりとも寄せ付けなかった巨人族の王。
そうして、アルティウスに敗北した者。
カリアは嗤うように鼻を鳴らす。鼻孔からは、濃い鉄の匂いがした。
なるほど事情はどうあれ、要するにかつて己を踏みにじった者に対し、子孫を使って牙立ててやろうと、それだけの事というわけだ。巨人の王ともあろう者が。
ひょっとするとその裏には幾重もの思想があるのかもしれないし、想像もできないほどの懊悩があったのかもしれない。
だけれども、そんな事カリアにはどうでも良い事だ。大事なのは、一つだけ。歯茎を走る痺れを噛みしめながら、言う。手の平には有り余るほどの大きな熱があった。
「――言葉で物を語りたいのなら詩人にでもなるがいい。私が信奉するものはそんなものではない」
巨人の王の言葉を、そうして手の平にある熱を握りつぶしてカリアは唇を波打たせる。手の平の熱はカリアの言葉に呼応するが如く、何もない中空で身を揺さぶりながら、一つの形を成していった。
瞬間、耳を擽る音がカリアの耳を撫でていく。それは先ほどまでの絶叫とは違い、消えゆく間際のような声だった。
――此処に我が神話は尽き果てる。小さき巨人よ。我は願おう、貴殿が決して地に倒れ伏さぬことを。
◇◆◇◆
其れは、クレイモアを彷彿とさせる一振りの大剣。血の如き濃密な黒緋が纏わりつく色彩は、見る者の眼を例外なく歪ませる。
全体は固く塗り固められ、刃など本当にあるかどうかも疑わしい鈍重な姿。一見すればもはや剣ではなく鉄柱を思わせる。人の身長を軽く超えかねないその風体。
剣士は語るだろう、此れは剣ではない。冒険者は語るだろう、此れは人が振るう武具ではない。そも、人が扱う道具ではない。
人智の枠に当てはめれば、何処までも異端。武具などとはとても呼べぬその一振り。
だからきっと、其れを悠然と振りかざすカリア=バードニックという女は、もう人間の枠組みにはいなかった。大剣の動きに呼応して大気が蠢動し、嗚咽を漏らす。
その大剣の異様に真っ先に気付いたのは、黄金の眼だった。
アルティウスは吐息も止まりそうなほどに眼を見開き、指先から這い出ていた黄金糸は反射的にその首を降ろす。
「フリム、スラト――ッ」
純粋な驚愕に満ちた声。アルティウスが初めて聞かせる音だった。
視界に映るは異端の大剣。見たこともなければ造り上げた覚えもない。だがその大元に何があるか分からぬほどアルティウスは愚鈍ではない。
巨人の王フリムスラト、その原典。
見間違えるはずもない。姿かたちは大いに違えど、かつて人間の国々を一夜にして破砕した巨人の王が象徴。己を最期まで苦しめた世界を破砕する大槌。
そうして、フリムスラトの存在を証明するただ一つのもの。どうしてそれを、カリア=バードニックが持っている。
原典は大魔、魔人の力の根源であり、そうして己を証明する為のもの。
其れを血族とはいえ他の誰かに受け渡すという事は、即ち己が存在する拠り所を失うという事。その先に待つのは大魔や魔人が何より畏れる存在の消失だ。
死ですらない、虚無の果て。
それをあの傲慢の極致たる巨人の王が受け入れた。血族に全てを託したとでも。アルティウスはその考えに至った所で、地を固く踏んだ。
動揺か、それとも呆れか。一瞬、黄金糸がその身を中空にとどめた。まさしく息を呑むほどの間。
だが万才の記録者にとってそれは、永遠とも思える一瞬だった。
紫電が円を描き、幾多にも伸ばされた糸をそぎ落とすように刈り取っていく。血に染まった緑色の軍服が、後一歩ほどの距離に見えた。
ルーギス、大悪なる者。己が分霊を振りかざす人間。
「――ッ」
瞼に血すら張り付かせながら、彼が口を開いているのが分かる。何事かをアリュエノに告げているようだった。応じて一瞬アルティウスの唇が、波打つ。いやそれは、きっとアリュエノの意志だろう。
アルティウスは眼を細めながら指先を揺らした。
彼の腕はまだ己に届かない。いいや、届くはずもない。そんな筋書は想定すらしていないのだから。あり得ない事だ。
だが、本来彼は己に近づくことさえ出来ないはずだった。其れが今、声すら届く距離にいる。此れの大元にいるのは、オウフルか。いやそれとも、彼自身か。
瞬きの間思索に耽り、アルティウスは眼を開く。眼前には、黒緋の閃光があった。カリアの銀髪がよく映えている。
巨人の王。その原典は周囲の空間を巻き込みながら、天に向けて振り上げられる。巨人の聖地たるこの大神殿で、其れは久方ぶりの活力を得たとでも言わんばかりに、荒れ狂う嵐となり牙を見せた。大神殿如きであれば、容易く噛み砕くことだろう。
全く、脚本破りにもほどがある。アルティウスは眼を歪めた。
フリムスラトの原典は破滅そのもの。大地すらも引き裂く意志。其れが一つの躊躇すらなく、振り抜かれる。
――『巨人神話』
古代の神話が黒緋の閃光となって、大神殿を呑み込んでいった。