第三百四話『傍に並び立つ者』
「神様ってのはそんなに偉いのかい、ええ?」
紫電を薄暗闇の中に煌かせながら、悪徳は不敵な言葉を漏らす。しかし、その様子はとても万全といえるものではない。
足元は僅かにふらつきを見せ、肩は平時からは想像も出来ぬほどに上下している。身体中に傷を見せるその有様は満身創痍そのものだ。
どうやら肉体に突き刺さっていた白刃も、無理やりに引き抜いてしまったのだろう。その体躯には血が夥しいほどに溢れかえり、軍服の鮮やかな緑色はもはや見る影もなかった。
その有様はまさしく死の淵。とてもではないが、人に手を差し伸べられるような状態ではない。手を差し伸べる、助け起こすという行動は、自らに余裕がある者が行うことだ。
貧民が物乞いに金を与えるか。自らの明日さえも定かでないものが、人の悲嘆に対し手を貸そうとするものか。行うはずがない。
それは決して悪ではないだろう。まして罵られることでもない。むしろ自らの全てを投げうって人に手を差し伸べる者がいるならば、それは人間として必要な何かが壊れているのだ。
かつて貴様もそう語っていただろうに。だというのに、どうして。
カリアは愕然と銀眼を見開きながら、ルーギスの背中を見る。その血がにじみ出た姿を見ながら、必死に口内で言葉を練った。
どうして来た。馬鹿な事をするな。私が何のために此処に残ったと思っている。早く逃げ去ってしまえ。
頭の中ではそんなルーギスの行動を否定する言葉が、一斉に並べ立てられていく。唇は何度もそれを発そうと、波打った。
しかし結局はそのどれもが、唇から零れる前に喉の奥へと押し込まれていってしまう。
理性では、理解している。助けられるべき者が窮地に舞い戻ってくるなど有り得ない事だ、馬鹿々々しい事だ、ふざけた事をしてくれた。
そう言うべきだ。カリアの思考は何度もそう繰り返すも、しかし唇は知らぬ内に固く閉じていく。その理由は明白だった。
ああ、私は弱い女だ。何と卑劣な女だ。想い人に危険な真似をさせるなど、欠片ほども望むべきではないだろうに。
いざ己がそれを差し出されれば、こうも頬は紅潮し、緩みを帯びる。今己がどれほど恍惚とした表情を浮かべているのか、自身にすら想像が出来ない。とても誰かに見せられたものではないだろう。
ルーギスはカリアに背を向けたまま、言った。
「おいおい、勘弁してくれよカリア。そう易々とお前が死んだら、誰が俺の身を守ってくれるんだ?」
こんな時であるというのに、何時もの冗談を告げる様な口調で彼は言った。そんな余裕など、本当は何処にもないだろうに。
紛れもない馬鹿者だ。大馬鹿者に違いない。けれど、そんな言葉一つで心を浮かしてしまう己もやはり、馬鹿者なのだろう。
何、決して悪い気分ではないのだ。カリアは唇を波打たせながら、言葉を漏らした。先ほどまで頭の中で必死に練っていた言葉の数々は、いつの間にか全て消え失せていた。
「――馬鹿を言え。私がそう簡単に死ぬものか。貴様が嫌だといっても、離れてはやらん」
僅かに自らの声が上ずっているような気が、カリアにはした。その気恥ずかしさを噛み潰すように、唇の端を歪ませる。
しかしそんな甘い余韻も、直ぐ何処かへと吹き飛んでいった。黄金は魔糸を切り裂かれて尚、怯むような様子はまるで見せず此方へと視線を向けている。
その炯々と輝く眼が、見開いた。
「素晴らしい登場だ。さながら英雄譚の騎士様といった所かな」
ルーギスを褒めたたえるその言葉には、まるで重みというものがない。ただ淡々と、情動を乗せずに音だけを吐き出しているその所作は、いっそ不気味ですらあった。
黄金が唇を波打たせ、言葉を継いでいく。
「それで、此処からどうする気だい、ルーギス。悪徳と呼ばれた者。結局の所、君に出来ることは何一つないはずだけれど」
情動の籠らぬ声から一転して、今度は深い海の底を想像させる静かさと圧をもった声。とても人に語り掛ける様な声には思えない。何かしらの鮮烈な感情が、確かにそこにあるのだと感じさせる声色だった。
それを受けて、ルーギスは肩を竦めるようにして言う。表情は、見えなかった。
「そうだな。どうにかして迷惑な悪霊だけを握りつぶして、全て円満に終わりましたって解決方法がないか考えている所さ、アルティウス」
万能だというのなら、その辺りをお教え願えませんかね。そんな風に付け加えて、ルーギスは紫電を傾ける。宝剣は主に応じるが如く嘶き、空を裂いた。
救済神アルティウス。ルーギスは眼前の女を指して、大聖教唯一神の名を宛がった。それは聖女に対する皮肉か、それとも真に其処にあるのは神霊の顕現だとでも言うつもりだろうか。
カリアは知らず、眉を顰める。喉辺りが妙に重くなった気がした。彼の言葉は空想の類だとは思いながらも、そうであるならば随分と分かりやすいと、脳髄は頷きを見せている。
体躯は剣をものともせず、エルフの呪詛を受けて尚倒れ伏さず、魔術もただの足止めにしかなりえない。そんな化け物を前にすれば、せめて悪魔よりは神と思う方がまだ楽だ。
アルティウスは、ルーギスの言葉を受け止め溜息をつくように笑った。
「そうか、なら。考えてみると良い。それこそ心臓が腐り果てるその時まで。私は許そう」
黄金が、見開く。その頭髪は優雅な煌きを見せながら、中空を揺蕩った。
固い音がなった。アルティウスが一歩、石床を踏みつけて此方へと迫りくる。それだけで、直接手で首を絞めあげられたかのような感触があった。
息が詰まり、呼吸一つ一つが鈍い痛みを伴っている。カリアは、身体をふらつかせながら唇を噛んだ。
此れが、奴の敵意というわけか。
先ほどまで己の剣を受けていた時、アルティウスはまるで子と戯れる様な振る舞いしか見せていなかった。敵ではなく、ただじゃれついて来た存在を、軽く払う様な戯れ。
しかしルーギスを前にした今、黄金の眼の中には確かな敵意がある。その明確な理由は分からないが、忌々し気に舌を濡らす気配すら見えていた。
敵意の中から浮かび上がるのは、色濃い死の幻像。世界そのものが降り落ちてくるかのような、威圧感。
アルティウスはルーギスに呼びかけながらもう一歩、近づいた。息が、詰まる。
「殺す事はしない。そのかわり、もう一度君を腐り果てさせてみせよう。その意志も、尊厳も、思想さえも――そうして君には何もないのだと、教えてあげよう」
言葉を受けて、宝剣を揺蕩わせながらルーギスは言う。
「悪いが、腐るだけの人生はもう飽きた。脚本を作るのが好きなら、真新しいものを持ってきて欲しいもんだね」
ルーギスが語ったその言葉に、思わずカリアは瞼を瞬かせる。銀髪が、ふわりと宙を撫でた。
語られたものは、何時も通りの彼の言葉。しかしカリアには妙な直感があった。
言葉の節々から漏れ出る雰囲気、気迫と言い換えても良い。それが言外に、一つの事を伝えている。
カリアの銀眼に、一瞬ルーギスが視線を向ける。そうしてカリアにだけ聞こえる声で、囁いた。
――退路は二人に頼んでる。何、すこしばかり寄り道をしていくだけだ。道を開いておいてくれ。
詰まり先に逃げろと、ルーギスはそう言った。それを聞いて、己の直感が正しい事をカリアは理解する。
ルーギスはきっと此処で死ぬことすら覚悟している。己を生き延びさせるため、そうして幼馴染を救いあげる手段を見出す為に。
カリアの銀眼が歪に、細まった。そうして鼻で笑う様にして、言葉を返す。胸中には複雑な情動が絡み合っていた。
「――断る。今言ったばかりだろう。貴様が嫌だといっても、離れてはやらんとな。それに、私は何時までも貴様の背に縋るだけの女ではない」
ルーギスの傍らに並び立ちながら、誰に言うでもなく頬をつりあげてカリアは言う。その鮮烈ともいえる視線はルーギス、そうしてその先のアルティウスを貫いていた。