第三百二話『我が咆哮を聞け』
己の指が裂け、艶やかな鮮血が白い肌を舐めていくのを、アルティウスはじぃっと静かに見つめていた。まるで珍しいものでも見ている目つきだった。
大した傷というわけではない、小さな裂傷。しかしアルティウスにとってみれば随分と久方ぶりに味わった肉体の痛みだった。
魔力にて圧されることはあれど、身を裂かれるなどというのは人間であった時以来かもしれないと、アルティウスは黄金を瞬かせる。
加えて左手の指は、身を裂くだけでは飽き足らず僅かに痙攣すら起こしていた。アルティウスが意識してそうしているわけでは当然ない。
むしろ押しとどめようとしても、指は軋みをあげて吠えたてる。まるで此方を威嚇しているかのよう。
アルティウスは自らの体躯が咆哮をあげるその有様を見て、頬をつりあげた。
成程つまりこれは体躯の――アリュエノの叛逆そのものというわけだ。
彼女の声が、耳元のすぐ傍に響いてくるような気分だった。
いや、事実として其処に声はあったのだろう。しかし身体の奥から聞かされる声というのは、何とも奇妙なものだった。
這い寄るように聞こえてくるアリュエノの声は何処までも静かで、そうして何処までも冷たい。
――世界の全ての中で、彼だけは私の領分。魂の一かけらであろうと、貴女には渡さない。
明確な意志を持った、身を貫く声。揺るぐものなど何一つないのだとその声は語っている。聞いて、アルティウスは頬を揺らした。
聖女アリュエノの叛逆は、本来アルティウスにとって受け入れられるものではない。
大聖教の教義に殉ずるには意志も願いも必要なく。ただ安寧たる救いと幸福を追い求める事こそが素晴らしい。
第一、仕えるべき神に逆らう聖女を歓迎する神などいるはずがない。
けれどもどうした事か、アルティウスは自らに牙を突き立てたアリュエノの言葉に対し、まるで愛おしいものでも見た様な面持ちで語りかけた。
「分かっているさ、アリュエノ。分かっているとも、それこそ胸を締め付ける痛みまで」
アルティウスは、久方ぶりに感情らしきものを示しながら唇を波打たせ頷いた。
身体の所有権は未だその大部分をアリュエノが有したまま。彼女が眼を見開くならば、アルティウスの魂は大人しく瞼を閉じざるを得ない。ならばその言葉に理解を示すのは道理だろう。
けれども、アルティウスがアリュエノの言葉に頷いたのは、別段そんな理由だからではなかった。アルティウスにとっては好ましくないといっても、強硬的に全てを成してしまう事とて出来なくはない。
だから、アルティウスが大人しくその指先を引いたのは、ただアリュエノという人間の在り方が好ましかったからに他ならない。
高々一人の男を愛し支配する為に、その他の何もかもを投げ捨ててしまえる人間というのは稀だ。言葉で言える人間は塵の如くいるだろうが、己の身体を贄にして語れる者はそういない。
それに事を成す為に己の力を借りながら、いざとなれば刃を突き付けて脅しをかける強かさも、嫌いにはなれなかった。
――何せかつて人間であった頃、アルティウス自身がアリュエノと似たような事を成したのだから。ただ一人の男の為に全ての地位を破り捨てる清々しさは、未だ魂が記憶している。
だからこそ、素晴らしく愛おしい。そうしてそんな人間が、そう簡単に体躯を明け渡すわけがない事もアルティウスは知っている。
きっといざとなれば此方の首をねじ切るため、瞳を輝かせて伏しているに違いないのだ。
小さな、それでいて酷くおかしそうな笑みを浮かべ、アルティウスは我が子に語り掛ける様な口調で、数語を呟く。そうして前を、見た。
エルフの呪と魔術の極光は、未だアルティウスの存在をその場に押しとどめている。よくもまぁこのような事を成すものだと敬意すら覚えながら、それでもアルティウスはその身を揺らがす事はない。
ただ、動けぬというだけ。規格外の熱量とはいえ、アルティウスの存在を吹き飛ばすには、未だ足りぬ。
それどころかアルティウスを縛り付ける黒球体はもはや浴びせられる威に耐えきれぬとでもいうように少しずつその身を朽ち果てさせ、己が身を軋ませる。僅かな裂け目が、出来ていた。
神霊が見据える先には、ルーギス。そうして周囲には彼を支え上げるかのように控える三つの影が、あった。
◇◆◇◆
何時になっても、己の無力を味合わせられるのは屈辱だ。カリアは唇を尖らせ右足を引きながら、銀の長剣に手を掛けた。
奥歯が固く軋む音が、脳髄に響く。カリアは白い吐息を唇から投げ落とし、言う。
「――いいか、振り向くな。ルーギスを連れただ疾く駆けろ」
背後にある二人に向けて、ぽつりと呟いた。
フィアラートは魔術の限度を超えた極光を発した影響か、肩を上下させて息をしている。とてもではないが、走り駆け抜けられるような体力は残っている様に見えない。
まさしく、全力を尽くしたのだ、ルーギスの為に。それを知って尚カリアは、言った。振り向くな、駆けろ、と。
魔の発光を失い再び薄暗闇を取り戻した祭殿に向かい、カリアは一人銀剣を傾かせる。
そこには未だ黒球体が鎮座していた。まるで己こそが此処の主だとでもいうように。
それがあるだけならば構わない。あくまで黒はただの呪縛。内部に縛り付けられた者が死滅したのであれば何ら憂うことはない。
けれどもカリアは今、見てしまった。黒の切れ目から、炯々と黄金の眼が見開いているのを。それは、酷く冷たい色を伴って此方を見据えていた。
一息で、冷たい空気を肺に詰め込む。心拍は早く早くとその脚を駆けさせ、頭蓋は締め付ける様な痛みを発する。
己の剣がアレに通じなかったのは十分に承知している。しかしだからといって、情けなく背を見せ逃げ回るような事が出来るかと問われれば。それは別の話だ。
愚かしい行動だった、とても合理とは言えない。
己の武具が通じぬと知っていながら相手に立ち向かうなど、もはやそれは知恵を持たぬ獣の如き行動だ。カリアはため息をつくように、嗤う。
――しかしルーギスの命を救いあげるには、こうするしかない。ならば、当然の如く成さねばならない。
それだけで十分。それ以上の理由なぞカリアにはいらなかった。だから何一つの支障はない。
ただ少しばかり悔しいのは、ルーギスは己が死んだと聞いた時、どんな顔をするのか。それだけは見てやりたかったが。
銀眼の中、呪縛の黒を払いのけるようにしながら燦然たる輝きを放つ黄金が映った。もはや時間はない。
カリアは繰り返すように、背中側へ向けて去れとそういった。フィアラートとエルディスの疲弊具合を見れば、どう考えてもここは己が適役だ。何せこの身は、ルーギスの盾なのだから。
黄金を少しでも己に惹き付けるため、カリアは身を低くし長剣を肩に乗せる様に構える。一撃だけでもくれやるための、その構え。
そうして、前へと向け、一心に駆けた。銀が閃光となって薄暗闇を走っていく。
背後から二人が何かを叫んでいるのが聞こえたが、もはやそれはカリアの耳には入っていなかった。
聞こえていたのは、ただ一つ。
――ォオオオ――ォ゛オォォオオオッ――!
世界をも震わせそうな、その咆哮だけ。それだけがカリアの耳朶と喉を、震わせていた。