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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十二章『神霊編』
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第三百話『完膚なき幸福を』

 皮膚の裏側を氷の塊が這って行く気配がする。それは手足の内側を存分に蠢くと、徐々に身体の上を目指して昇り始めた。


 踊るように、歌うような陽気さで。それでも決して歩みは止めずに蠢く氷塊。


 それが何処を目指しているのかはもはや自明だった。体内を山でも昇るように駆け上がれば、行き着く先は決まっている。


 頭蓋。詰まり脳だ。


 脳髄そのものが凍り付かせられ、神経が固いものに変貌していく手触りにフィアラート=ラ=ボルゴグラードは両膝をつけて熱を求める。


 胃は鉄同様に冷たく重くなり、ひたすら身体を固くしていく。


 四肢そのもの、体躯そのものが氷に変じてしまったかのようだった。そうしてこの冷気が脳髄までをも支配下に置くのは、そう遠い未来ではない。そんな妙な確信が、フィアラートの思考を埋め尽くす。


 冷たい、寒い、痛い、怖い。


 熱が欲しい、それこそ欠片ほどでも良い。冷たいのは、寒いのは嫌だ。どうしてもあの頃を思い出す。


 何もなかった頃の私。万を尽くせど才に届かず、平凡にすら至れなかった自分自身。


 人が成さぬ努力を重ね、歯が噛み砕けるかと思うほど食いしばり、それでも誰かの背を見届けるしか出来なかった私。


 惨めだった。屈辱だった。どうして私には何もないのだろう。どうして私ばかりこんな惨めに顔を俯けて歩かねばならぬのだろう。


 何度そう思い至った事か。この冷たさは、その頃のものだ。手を差し伸べる者もおらず、何一つを得ていなかった私。石に齧りついて無理矢理に立ち上がり、その度に蹴り倒される。


 冷たくて、寒い。けれど何に縋ることも出来ない。此の儘では這いつくばって凍え死んでしまいそう。


「安心すると良い。私が君に、救いを与えてあげよう。必ず、君を満たしてあげよう」


 音が聞こえる。甘美で優し気で、何処までも胸と耳に響き渡る音。


 魂が溶け落ちそうになる心地をフィアラートは感じていた。冷たい石に成り下がっていた指先が、僅かに熱をもちその歓喜を伝えている。


 幸福が其処にある。救いという概念が形をもって顕現していた。即ちそれは光そのもの。


 フィアラートの細い指が、ゆるりとした仕草で光りへと伸びていく。


 早く、少しでも早く近づける様に。ただ幸福と救いを求めて。


 其れはもはや暗示などという安易なものではない。一つの崇拝と信仰の形だった。信じ、そうしてその結果として救われる。


 抗う事など出来るはずもない。其の存在は直接脳髄を呑み込んで、人の精神を侵し尽くす。それが善なのか悪なのかまるで分かりはしない。しかしそれだけの事を成してしまう圧倒的な個が、彼女にはあった。


 救済神アルティウス。


 圧倒的な威光が、フィアラートの眼前にある。視界に映る光景そのものが白く、ぼんやりと掠れていくのが分かった。


 しかし恐怖はない。ただ安寧だけがあった。それで良いのだと何かが語る。どうせかつて通った道なのだから。


 指が、伸びる。伸びていく。前へと向かって――その最中だった。視界の端に黒いものが見える。影のように蠢く黒。


 同時、フィアラートの耳は一つの音を捉えていた。遠い何処かから運ばれてきたような、懐かしい声。飄々と、それでいて深い重みすら感じる声が黒眼を開かせる。


「幾度も苦渋を舐め侮蔑を口にした。ああ、それは仕方がない。何せ俺は持たざる者なのだから」


 何処で聞いた声だったか。何時耳にした言葉だったか。


 周囲を覆う光が僅かに曇り、影がその身を滑稽にくねらせる。夜の欠片がそこに忍び込んでいるかのよう。


 そうだ、夜だ。あの夜、ガルーアマリアで。


「ならば、行くべき道は一つしかない」


 ルーギスは、そう言ったのだ。暗闇が、光を食らって跳ねる。


「持たざる者は茨の敷かれた道を素足で歩き、その手足を自らの血で洗うしかない。誰もが踏みなれた道を行き、諦観と惰性に塗れた日々を送るのはもう御免だ」


 そうだ、そうだとも。あの夜ルーギスはそう言って、私に手を差し伸べた――。


 いつの間にか、全てを嗤うように影は光を踏み潰し、そうしてフィアラートのすぐ傍にあった。影の輪郭は僅かに彼を思わせる。


 驚くほど自らの頬がつりあがっているのに、フィアラートは気づいた。胸の裡に詰め込まれていた幸福感は霧となって散っている。けれどただ煌々と燃え広がる熱だけが残っていた。


 冷たさは、もうどこにもない。


 そうだとも、私は持たざるもの。だからといって持つ者の背を見守るだけの人生など、御免だ。あり合わせのお情けで与えられた幸福で、どうして満足できるものか。


 指が軋む音がした。手の平の肉を抉るほどに爪がめり込んでいる。欲しいものがある。他の何を投げ捨ててでも、欲しい存在が。

 

 ――フィアラート=ラ=ボルゴグラードは望み願ったもの一つこの手に握りこむことが出来ないのか。いいや、そんなわけがない!


 例え、今此処より更に遠くにあろうとも掴み取ってやる。其れが私の完膚なきまでの幸福だ。



 ◇◆◇◆



 フィアラートは余りに重い瞼をゆっくりと、開く。気を張り詰めていなければ、あっという間に眠りの底に落ちてしまいそうだった。


 大神殿の石床が眼に入った所で、ようやく己が意識を失っていた事にフィアラートは気づいた。


 手足は魔術具装に縛り上げられ、どうにも自由はききそうにない。そうか、私は寝転がされているのだ。


 はて、どうして。


 眼を揺らめかせると、眼前にはカリアの銀髪が跳ね、そのすぐ奥にエルディスらしき姿が見えた。未だ覚醒しきれぬ頭では全てを理解する事はできなかったが、交わされる言葉を聞くに、どうやら彼女らは此処から脱出する算段を語っている様だった。


 何だったか、何が起こっていたのだったか。フィアラートの頭蓋が音を軋ませ、思考を混濁させる。何がどうあって今の状況に至っているのか、どうにも思考は曖昧だ。


 フィアラートのぼやけた思考は、悠然とした足取りでその記憶をたどっていく。


 確かそう、己は聖女と対面しルーギスが為に彼女を押しとどめようとして、そうして。


 ――私は神霊アルティウス、君に絶対の幸福を与えよう。


 アレに出会った。がちりと、歯が鳴る。


 そうだあの脅威に出会い、そうして己は絡み取られた。


 ようやく気を取り戻した瞬間、頬が自然と羞恥に上気するのをフィアラートは感じた。瞳は潤み、噛みしめられた歯は妙な音を立てている。


 つまり何か、今まで己は敵方にまんまと捕らえられそうして意識まで失っていたというわけか。


 不様だ。何と不様な事だろう。ルーギスの決意の邪魔だてをさせぬため、揚々と敵の眼前に立ったというのに。敵の言葉に動揺を露わにする所か、気を逸し今ではこのように魔術具装に囚われている。


 今の有様を見るに恐らくは、カリアかエルディスのどちらかに救い上げられたのだろう。


 けれどもその事実は感謝の念を浮かび上がらせると同時に、余計にフィアラートの肌を赤らめる事となる。


 己はルーギスの助けとなれぬばかりか、仲間の足まで引っ張り込んでしまった。余りの羞恥に、フィアラートの黒眼が細まっていく。


 情けない。人目につかぬ暗闇に入り込めるなら、いっそそこに閉じこもってしまいたい。魔術具装が未だ手足に絡みつき離れぬのも、フィアラートの精神を余計に追い込んでいた。


 思わずカリアやエルディスから視線を逸らすように、フィアラートは大神殿の奥へと目を通す。その最奥に祭壇が見えた。確かルーギスが剣戟の舞台とした其処。


 其処に、今は黒い何かが鎮座している。黒球体とでも言えばいいのだろうか。人をそのまま飲み込んで余るであろうだけの大きさを球体は保っていた。


 その黒には見覚えがある。エルディスの呪霧だ。と言ってもフィアラートが見たものはもっと小さなものだが。

 

 それが今は確かな形を成して、其処にある。有形の呪を持って押し固めるほどの相手がいるというのか。それは一体。


 一瞬の間があった。そうしてその存在に思い至った途端、切り裂くほどの寒気がフィアラートの全身を襲う。


 黒球体に僅かな解れが出来ているのが、遠目にすら理解できていた。そうしてその合間から光の一閃が見えた気がする。


 フィアラートには、あの中に何が潜み何が抑え込まれているのか、すでに理解できていた。直感のようなものだったが、外れてくれる気はまるでしない。


 もう数瞬もしない内に、アレはあの中から這い出てくる。フィアラートの肌は、周囲の雰囲気が極限まで張り詰めるのを感じていた。


 あれを今一度押し込むのは、今しかない。


 だから、フィアラートはカリアとエルディスが身を反転させるよりもずっと早く、己のすべきことを実行した。何せ近くには、彼がいるのだ。汚名は返上しなくてはならない。


 上体を僅かに起き上がらせ、魔術具装に縛り付けられた両手を突き出すように前へ。


 両手からはまるで力は感じられず、小枝一つ振るえる気がしない。魔術とて唱えようものなら、すぐさまその魔力は霧散してしまうだろう。


 けれど、一つ考えた手がある。其の為の手順書は、フィアラートの脳内にすでに刻み込まれていた。何せ過去一度その案を練った事があるのだ。


 魔術具装にて拘束された者は、通常魔術を発しても魔力が吸い上げられその意味を成さない。


 ――しかし、ならば魔術具装が魔力が霧散する勢いを上回り魔を放出してしまえば、術を発することが出来るのではないか。


 無論、真面とはとても呼べない力技。無茶な方法論とすら言えない、まさしく無法だった。


 魔術具装は術者の魔力を運ぶ経路に無理やり針を差し込み、その力を啜っているようなもの。


 そこに魔力を敢えて注ぎ込むというのは、自ら傷口を開けて血を吐き出すのと同じことだ。手足には裂けるほどの鮮烈な痛覚が走り、臓腑は逆流した魔力に悶え打つ。


 けれども。だからこそフィアラートは何ら躊躇の一つもなく、それを成した。何せ何処かから運ばれてきた言葉が、耳の内で未だ鳴り響いていたから。


 ――持たざる者は茨の敷かれた道を素足で歩き、その手足を自らの血で洗うしかない。


 なればこそ、其れを成そう。魔力が全身を走っていく感触がフィアラートの手の内にある。手足の血管が、悲鳴をあげながらのたうち回った。


 魔術鋳造――戦場魔術。


 鮮烈が、黒球体を目がけ走った。

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