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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十二章『神霊編』
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第二百九十六話『聖なる体躯』

 胃に張り付く怖気と、眼の裏を掘り起こされる様な激痛。


 唐突に与えられたそれらに、知らずエルディスは足元を崩して倒れ伏した。両脚は脱力してその役目を放棄し、また両手も痺れを起こし無力そのもの。


 碧眼が大きく見開かれ、元より白いその肌が今では病的と思えるほどに青白く染まっている。


 喉から吐き出される息だけが、何処までも熱を有していた。臓腑が、軋む。エルディスは床を這うように、その痙攣した指を伸ばした。


 何が起き、今己の身体はどう成っているのか。それをエルディスは、深く理解していた。体内をかき乱し、精神を無理矢理裂くような衝動。そうして何処までも冷たい身体。


 詰まり、恐怖だ。


 今、己の体内は恐怖という名の呪縛に縛り上げられている。それを直視しようとすればそれだけで呼吸は荒れ、口内は干上がっていった。


 怖い、ただそれだけの感情でエルディスの身体が痺れ、精神は恐慌を起こしている。


 その根源が何処にあるのかも、分かっている。気配があった。魂を貫く其の気配。何処までも偉大で、何処までも強大。エルフが従属せざるを得なかった種族。その始祖の気配が、確かにあったのだ。


 本当か、それとも気のせいかなどという疑いはあり得ない。真贋はエルディス自身の魂が語っている。


 本物だ。今此処に、此の神殿にあれはいる。口に出すのも畏れ多い始祖たる巨人フリムスラトが。


 それを思うだけで、エルディスの頭蓋は何も考えられなくなっていく。当然の事だった。そういう風にエルフという種族は成っている。


 支配者の存在に疑いを抱かぬよう、その前では何一つを考えぬように。主たる種族に一切の抗いを許されぬように造り上げられたのが、エルフという種族なのだから。


 それが例え遥か昔の事であったとしても、先祖の記憶は魂にこべりついている。


 いっそ此処で気を失い、全てを意識の外に放り投げられてしまえばどれほど楽な事だろうか。頭を垂れてしまえばどれほど素晴らしい事だろうか。


 少なくとも通常のエルフはそうする、はずだった。いやそうすべきだ。早く、より早く、すぐさまそうべき。其れが良いとも。だから、だから、だから、だから――。


 エルディスは、反射的に強く唇を噛んだ。その口元から透き通るような赤が漏れる。身が削れた痛みがエルディスを強引に正気へと引き戻す。彼女の碧眼には、激憤色が浮かんでいた。


 ――頭に、きた。


 誰にというわけではない、己自身にだ。エルディスは恥じ入るような気持ちすらもって、痺れる指を大地に押し付ける。


 己たちが従属種族であった事など、遥か古、それこそ神代とすら言える時代の事だ。幾ら古きを善きものとするエルフといえど、忌まわしい過去まで崇め奉った覚えはない。それをどうして今更、その定めに従わねばならないのか。


 ふざけている、ふざけた事だ。


 それに、人間に呪いを掛ける側である己が古の呪いに縛り付けられるとは笑えないと、エルディスは頬を揺らした。未だ這いつくばらせたままの身体を、ぐらつかせながら起き上がらせる。


 前に進もうと踏み出す脚は、何処までも弱弱しい。ふと気を逸らせば、そのまま止まってしまいそうと思われるほどの歩み。


 しかしそれでも、止まるわけにはいかなかった。一歩、一歩とエルディスはその脚で石床を蹴り上げる。


 エルディスの胸中には、もう一つ。目を逸らしがたい恐怖が芽を出していた。それは支配者に対する畏怖以上にエルディスの精神を切り刻む。


 先ほどから、精霊具装からの反応が、随分と弱いものになっている。


 己の分身たる其れは、本来装備者であるルーギスの状態をつぶさに伝達したりはしない。精々が居場所やその動きを伝える程度のもの。


 しかしかと言って、その反応が弱まるという事は決してない。確実に彼の存在を伝える為、エルディスはそのように造り上げたのだ。


 その反応が弱まっている。其れはつまり――ほぼ具装と同一となったルーギスの存在が、失われようとしているという事。


 うなじが冷える様な痛みがあった。またエルディスはふらつきながら一歩を、踏み出す。


 あり得ない。あり得て良いことじゃあない。そのような事は起こさせない。例え起きていたとしても。死なせるような真似をするものか


 ――例えその魂をこの世界に縛り付けてでも。


 心の中でそう呟きながらエルディスは、碧眼を見開いた。大神殿の祭殿が、見える。



 ◇◆◇◆



 フリムスラト大神殿の祭殿。常に薄暗く厳かな雰囲気を漂わせる其処に今、空があった。


 青く、何処までも澄み切った空。天高く、遠い遠い宙を彷彿とさせる空。其れが比喩でも空想でもなく、此の祭殿に顕現していた。


 もはやそれは、異界の如く。何処までも青く、何処までも高い。そうしてそんな空の下、其れはいた。


 偉大な空すらも小さく感じられてしまう、世界そのものが立ち上がったかのような、巨躯。双眸には混沌を敷き詰めた様な赫々たる瞳があった。


 其れの発する圧力は何者にも勝り得る。神聖なる天蓋を崩し、父たる大地をも踏み壊しかねないと、本能からそう思わせた。


 そんな圧倒的な威を前にして神霊は言った。


「――幻像とはいえ久しぶりだね、フリムスラト。始祖にして最後の巨人。私が君を眠らせて以来かな」


 淡々と、まるで歌うような気軽さでアリュエノ――アルティウスはそう語る。巨人を前にして、尚その在り方は揺らいでいない。


 その黄金にようやく気付いたかの様に、巨人は音を鳴らした。それが本当に、彼の言葉であったのかはよく分からない。だが意思のようなものを示したのだけは事実だった。


「――同族の声がしたのだ、人間の王。貴殿は我の領地に何をもって踏み入った。傲慢か、それとも不遜か」


 空間がそれだけで揺れ動く。巨人の呼吸一つで神殿がそのまま吹き飛んでしまいそうだった。もはやこの場の人間に意識があるものはない。あるのはただ二つの異形ともいえる存在のみだった。


 アルティウスの眼が、細まる。その表情は機械的に表情を作り上げていく。そうして、巨人の王をせせら笑った。


「笑わせないで欲しいな、巨人の王。傲慢と不遜は君らの得意とする所だろう。だから滅びたんじゃあないか。それとも、もう一度同じことがしたいのかな」


 言葉を継ぐように、音を重ねる様にしてアルティウスは語る。瞳に映った色は、侮蔑すら意味している。


 空間が、割れる様に軋んだ。


「貴殿も、もはや本来の肉は失われているだろう。借り衣で我の相手をする気か、人間の王」


 巨人の大きな手に、それでも尚振るうに余る大槌が握られていた。巨人の意志に従い、その言葉のままに姿を変える其れ。


 今、其れに山脈を容易く破砕するだけの力が込められている。所詮は幻像に過ぎぬとも、巨人の王の力が、其処に。


 世界すらも、両者の有様に戦き震える。風はなく音もなく、窒息しそうな圧迫感だけが空間を襲っている。


 アルティウスは、それでも可笑しそうに、嗤った。何を言う、とばかりに。


「――例えばまるで同じ経験をし、同じ人生を送り、そうして同じ力が込められた人間はどうなると思う?」


 大仰に両手を奮い、巨人に問いを投げかける様に、アルティウスは言葉を続けた。


「両親に捨てられ井戸を枕とした。孤児院で胸に孤独を育てあげ、修道女としての苦しみに満ちた生を送った。そうして歯を食いしばりながら聖女候補にまで昇りつめ、過酷な巡礼を続ける旅路をも踏破する」


 アルティウスは愛おし気に自らの手を撫でる。其処には過去幾度も握り締めたであろう跡が、僅かに残っていた。辛苦を知らぬ等とは、とても言えぬその手に腕。そういった跡が、アリュエノの身体には幾つも残っている。


 黄金の唇が、揺れた。


「――その姿はまさしくかつての私の人生をなぞるものだ。そう脚本を描いた、私の身体に相応しくあるように、私と同一になるように」


 その色を持たない音の重なりに、僅かだが誇らしげな様子が浮かんでいる。


 脚本を描いたのは事実、そう導いたのも事実。だが神とて、全てが万能なわけではない。時に人の子が成す発作的な行動は止める事が出来ない。故に随分と苦労を重ねたと、アルティウスは続けた。


 時に赤子のまま死んだ者もいた。井戸に捨てられる際に骨が砕けた者もいれば、孤児としての生活に耐えきれず自死する者もいた。


 困窮して死んだ者、男に身体を嬲られて死んだ者、病にかかって死んだ者、降りかかる暴力を全身に受けながら死んだ者。随分と多くの人間が、聖体躯となる前に死んで行った。


 其れが此のアリュエノという娘は、全てを上手く成してくれた。よく生き延び、苦痛を噛みしめ、それで尚前へと進んでくれた。以前より更に素晴らしい出来栄えだ。よくもまぁ、苦心して己の身体を作り上げてくれた。


 素晴らしいと、歌でも奏でるかの様にアルティウスは語る。それを受けて巨人は眼を、開いた。


「――獣にも劣る」


 世界をも割り砕こうかという大槌が、振り上げられた。 

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