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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十一章『巡礼編』
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第二百九十一話『神霊』

 フリムスラトの大神殿。その内を、魔術師のブレスが覆った。人間という種が描き切れる、究極の一。


 ブレスは空気を纏い形を成しながら炎を宿す。そうして生み出された炎蛇は曲線を描きながら、宙を這った。火花がかちりと音を立てるのと同時、フィアラート=ラ=ボルゴグラードの黒眼が明滅したように瞬く。


 フィアラートは己の視界に映った閃光に、一瞬何が起こったのか分からなかった。其の炎蛇の存在が、自らの指先から飛び出したものだと気づくのにも、数秒を要したほど。


 ゆえに、それらは全て反射だった。脊髄が蠢くように悲鳴をあげ、フィアラートの身体全体を動かしている。


 喉は大量の砂でも詰め込まれたかのように渇き切っており、唾を幾ら呑んだ所でとても癒されそうにない。得体の知れぬ焦燥と感情の濁りだけが、胸中を溢れんばかりに埋め尽くしていた。


 冷たい吐息が、漏れる。何度も何度も、息が口元で生まれては、空中に零れ落ちていく。


 黒い眼が、未だ整わぬ視界の先で黄金の聖女だけを見据えていた。そうだ、確かあの女が語ったのだ。


 ――己とルーギスは、生まれ落ちた時からの幼馴染だと。


 言葉が頭蓋の中で反芻されるのと、指から這い出た炎蛇が聖女に牙を立てるのは、ほぼ同時の事だった。炎熱とその火花が、聖なる女をかみ殺し、冒涜していく。


 その間にも何とも言えぬ、得体の知れぬ情動の嵐が心臓を包み込んでいくのがフィアラートには感じられる。頬が揺れ、奥歯が固く噛まれた。


 どう語るべきか、どう想うべきか。


 彼と幼馴染なのだと、聖女はそう語った。だからどうした、だから何だという想いも、確かにある。


 幼き頃から共にあるだけで、其処に占有権でも生まれるというのか。馬鹿々々しい。どうだっていい事だ。記憶に留める意味もない。そんな一見理性的な、想い。


 けれどもそれとは相反したように、ふつふつと足の底から湧き上がってくる思いも、ある。


 それはとても醜悪で、とても人には語れぬもの。


 詰まりは嫉妬と羨望。己の知らぬ頃から彼を知り、共に過ごしていた。そうして彼と思いを共有していた。その事に対する妬ましいという思いと、羨ましいという思い。それが胸奥でぐるりと混ざり合い、吐き気すら覚えそうだ。


 臓腑が痙攣するとはこのことかと、フィアラートは思う。


 だが、今はそんな情動と同様にもう一つ、胸に抱くものがあった。それは他の感情よりも更に醜いものだろうと、そう思う。


 それはその嫉妬と羨望の対象を、自らの魔術の下に打ち払ったという安堵の味。フィアラートは黒髪を跳ねさせながら、眦を降ろす。荒れた息は未だ戻ろうとしなかった。けれど、胸中には少しばかりの落ち着きが戻っている。


 魔術師、魔法使いという人種は、剣や槍を持つ冒険者とは違い、本来互いにその術を向けあう様な真似はしない。元々からその人数が多くなく、身分や地位のある者が大半を占めるため、というのもあるが、何より大きな理由があった。


 魔性を扱う者同士がせめぎ合えば、必ず片方は死ぬからだ。


 魔とは、決して安易なものではない。失われた命を救う様な奇跡は起こりえないし、確実に危険を払う様な真似もできはしない。魔術師や魔法使いという連中は、脅威そのものが肌着を重ねて歩いている様なもの。


 其れゆえに魔術師の類を忌み嫌う国家や種族というのも当然に存在し、反面、武力として彼らを積極的に保有する国家もあった。


 そんな脅威同士が向き合い命を奪い合う決闘の決着は、何時も一瞬だ。どちらが先に魔を発し、どちらが先に相手の喉笛を食いちぎるか。ただそれだけの事。


 だからこそ、魔術師の決闘は時に会話から始められる。相手の隙を見つけるために、その精神を少しでも乱し、歪ませ、優位に立たんがために。


 フィアラートは荒れ切った吐息を何とか整えながら、胸をおろす。肩は未だ、上下に揺れたままだった。


 冷静になって思うと、アリュエノが語った言葉は全て、己を動揺させる為のものだったのかもしれない。いいやむしろそう思ってしかるべきだろう。紋章教の英雄と、大聖教の聖女が古い縁故を持ち合わせているなど、あり得るものではないのだから。


 此れは騎士物語ではないのだ。庶民が語る噂話でも、もう少しは信ぴょう性に溢れている事だろう。きっとあの言葉は、己の足元を揺らし混乱を吐き出させるためのものだったに違いない。


 それに、例え聖女アリュエノとルーギスが幼馴染であったとして、それをどうしてアリュエノが語るのか。


 フィアラートは長い睫毛を揺らし、眼を細める。視界の先には炎がかき乱れながら収束していく姿が見えていた。


 聖女と大悪が幼き頃よりの縁を持っていたなど、それこそ大聖教にとっては何よりも覆い隠したい事象であるはず。それをよもや当の本人である聖女が、嬉々として語るはずがないではないか。


 だから、やはりあれは虚言だった。そうあるべきだ。フィアラートはそう、自らの胸で結論づけた。まるで己に言い聞かせる様に。


 それにもう、事実は炎の中に消えていった。だから、もう考える必要もない。煌く火花を視界の端に捉えながらフィアラートはゆっくりと、唇に歯を立てる。


 その、瞬間だった。


 ――炎の中、黄金が見えた。それは赫々たる威容を持って、周囲を睥睨するように輝いていた。


 同時に声とはとても言えぬ代物が、フィアラートの耳朶を打っていく。ただただ、音が鳴らされているような、それ。


「――素晴らしい才能だ。でも止めて欲しいな、私は臆病者だからさ。こういう暴力は怖くて堪らないんだ」


 そんな風に音を鳴らしながら、其れはまるで硝子細工にでも触れる様な繊細さで、暴威たる炎の嵐に触れた。フィアラートが作りあげ、そうして存分に魔力を練り込んだ炎の蛇。その首が、弱弱しくすら見える細い指に締め上げられる。


 それは、奇妙極まる光景だった。フィアラートの艶やかな黒眼は、固まったようにその光景を映し込んでいる。


 聖女と名乗る人間の形をした何かが、魔力の蛇を軽々しく掴みあげ、そうしてそのまま手の内であやしているのだ。


 とても、現実のものとは思えない。魔術とは、魔性とは、それほどに易いものではないはずだ。


 よもや他者の魔力をそのまま己の手の裡に収め込んでしまうなど、例え幼子でも出来ぬと知っている。


 知らぬ間に、フィアラートの額に汗らしきものが、流れていた。それは冷えた感触を齎しながら、そのまま頬を舐めていく。


「それに、これじゃあ駄目さ。これ、形式魔術だろう。私が生み出したモノが、私を傷つけるはずがない。そうだろう?」


 そんな気軽げとも言える音を前にして、フィアラートは唇を歪める。


 何故、何が、どうして。そんな言葉、フィアラートの頭中にはまるで浮かばない。今フィアラートの頭蓋に浮かんでいる言葉は、ただただ一つ。


 明確な死。


 魔術師同士の決闘、その根幹は如何にして相手の魔術を機能させないかという事。


 今、敵は眼前で己の魔術を食いつぶし、そうして己は手ぶらとなった。こうなれば勝負は、瞬きの合間に終わるだろう。己が死に、相手が生き残るという結果で。


 何せ魔力を再び練り上げる時間も、ブレスを吐く合間もない。例えそれを成そうとしたとして、決して敵は其れを許さない。


 詰まり、終わりだ。逃れえない死が、そこにいる。己の死神が今眼前に立っている。


 フィアラートが捉えた事象は、ただそれだけ。怜悧な頭も、もはやそれ以上の事を考え得ることは不可能だった。死という名の白い指が、頭蓋を撫でている。


 死神は、嗤う様に言った。


「言っただろう、フィアラート=ラ=ボルゴグラード。安心すると良いって。私が君に、救いを与えてあげよう。必ず、君を満たしてあげよう」


 聞いているだけで瞳が痙攣をおこし、喉が裏返りそうな音の羅列。恐怖という恐怖が、全身から染み出てきそうだった。


 そうして、フィアラートには同時に直感があった。眼前の此れは、聖女ではない。


 アリュエノと名乗った女性ではない。全く別の何かだ。その何かが、一歩を踏み出しながら此方へと、近づいてくる。


 フィアラートの両脚は、まるで動こうとはしない。それは恐怖に竦み動けないのだとか、力が抜けてしまったとかいうのではない。


 本当に、ただ動かなかった。まるで凍り付いてしまったかの如く。


「意味はないよ、運命には決して逆らえない。例え君が英雄であったとしても」


 その間にも、一歩、また一歩と其れは近づいてくる。黄金の眼も、その頭髪も、表情さえもアリュエノと名乗る聖女のもの。


 けれどもその声と雰囲気だけが、何か別のものに塗りつぶされたかの様に、異なっていた。それが何とも奇妙で、不快感を覚えさせる。


「ああ、そう言えば君からすれば初めましてだったね。自己紹介をしよう、フィアラート=ラ=ボルゴグラード」


 楽しそうに音が、連なる。耳朶に何かが絡みついていくのがフィアラートには感じられた。聞きたくないと、聞くべきでないと、脳髄が直感する。


「――私は神霊アルティウス、君に絶対の幸福を与えよう」


 そうして、そのか細くすら見える指が己の頬に触れるのをフィアラートは見た。


 瞬間、大気を震わせるような何かが走ったのが、分かった。

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