第二百八十三話『噛み合う意志』
先遣隊を出しながら、少しずつその本隊を大神殿の奥へと進ませる聖堂騎士を見つめながら、言う。
「――エルディス、手を貸してくれ。何、指先をちょいと動かす程度だ」
暫くその様子を見ていて分かった事であるが、聖堂騎士という連中は、大仰な肩書に反して随分と実直で慎重な集団であるらしかった。
孤立して行動するような事はなく、必ず三人ないし四人の塊で大地を踏みしめ、かといって周囲に視線が届かなくなるような大集団にはなりすぎない。
先遣隊は大神殿内部を闇雲に歩いている様でいて、その実本隊からの距離を確実に測っている。一歩一歩、全くの等間隔で踏みしめているのがその証拠だ。
嫌な連中だと、素直にそう思った。こういう実直な人間の集団は、混乱を来す事も無ければ恐慌を起こすこともない。ただその場に零れ落ちた事象を、そのままに飲み込む能力という奴を持っている。
優秀な軍人騎士とは、必ずそういうものだった。知らず眼を細めながら、顎元に指を置く。
こういう輩に対して取るべき手段は決まっている。一噛みでその喉を食い破るのだ。少なくとも、集団としては二度と機能せぬように半壊させねばならない。
よもや一人二人を罠で食い殺しただけであれば、彼らは間違いなく克服してくる。異常を察したならば即応し、敵の姿を眼に捉えてしまうだろう。
そういった連中に対して、カリアの剣戟やフィアラートの思考誘導で一つや二つ数を減らした所で埒はあかない。
一番手が早いのは、戦場魔術で奴らの肉も魂も雪中に投げ出してやることなのだが。
奴らの白鎧には当然に魔力抵抗の備えがしてあるとは思うが、それでもフィアラートに対抗するには余りにか細い。羽毛で剣撃を防ごうとするようなもの。その結果は見えている。
けれども、その手段が取れるのは敵方にアリュエノがいなければ、という前提が必要になってくる。よもや敵本隊から一人を除いて、他全てを魔術に飲み込ませるなんて器用すぎる真似は幾らフィアラートにだって出来得まい。
それに、戦場魔術というやつはその名の通り、屋内で呼び込んで良いようなものではないというのもある。上手くいけば勿論良いが、下手をすればアリュエノを巻き込む巻き込まない以前に、神殿そのものが蒸発する。
であればこそ、魔性や武威に頼らず、それらを食い荒らす横槍が望ましい。精霊とは、呪術とはそういうものだった。
眼をエルディスへと向けゆったりと動かす。エルディスは小さく帽子を押さえながら、言葉を選び取るように、言った。
「エルディス――誰かな、それは。僕はただの旅のエルフだったと思うんだけれど」
何を言ってるんだ、此奴は。思わず、肩が脱力した。眼が自然と大きく跳ねあがったのが分かる。
正直な所、エルディスが何を言っているのかをかみ砕くのに、数秒がかかった。それはカリアとフィアラートも同様であったらしく、銀と黒が中空をうろついているのが見える。
どういう意味かと、そう言おうとした所で碧眼がくるりと、薄暗闇の中を舞った。
「エルディスというエルフは、君に散々役に立たないのだから帰れ、と言われていたじゃないか。まさかそんな相手をいまさら頼ろうなんて、随分と調子のよいことだと思わないかい」
東に吹いた風は、次に西に吹いたりはしないものだよと。エルディス、否、旅のエルフ殿は小鳥が囀るようにそう言った。その頬は、やんわりとした笑みを浮かべている。
なるほど、どうやら俺の忠言は随分と姫君のご機嫌を損ねてしまったらしい。よもやこんな風に意趣返しをされるものとは思ってもいなかったが。というより、彼女にとっては戯れなのだろう。
かつて暴威そのものと、怖気そのものと思われた姿を思うと、こんな柔和な姿は想像もできなかった。眼を、細める。
少なくとも役に立たないなどという大言を宣った覚えはないんだがねと、そう言いながら軽く肩を竦め、腰を落とした。そうしてからエルディスの冷え切った指先を、取った。
「至らぬ騎士で申し訳ない。姫君。どうかお力添えを頂けますか――」
殆ど無風と言って良かった神殿内に、一筋の風が巻いた音が、響く。
「――勿論。我が騎士の望みだというのなら、喜んで聞き入れようじゃあないか」
恐らくは俺達の振る舞いに多少の呆れがあったのだろう。貴方達まさか毎度こんなことをしてるんじゃあないでしょうねと、そんなフィアラートの声が、耳を打った。
◇◆◇◆
――遅いな。
ガルラス=ガルガンティアは長く尖った犬歯を噛み鳴らしながら、懐時計から眼をあげた。神殿の静寂の中をかちり、こちりという長針の足音だけが踏み荒らしている。
三組、ガルラスが先遣として神殿の最奥を探らせている連中が帰って来ていない。
それは僅かばかりの遅れであり、ひょっとすると何処かで迷いこんだのかもしれないし、罠の一つや二つに出会って遅れたという事は十分にあり得るだろう。
けれども、三組全てが遅れているのは、やはり奇怪だ。何一つ事が起こらぬとしても、必ず戻れとそう言い含めている。そうして聖堂騎士という連中は、腹の中でどう思っているかは別として命令には忠実だ。そういう生き物として育てられている。
そんな彼らが戻ってこないということは、詰まりそれはやはり異常が起こっているという事だ。ガルラスの犬歯が今一度、鳴った。
「ガルラス継承団長。戻りますか」
副長に任じていた男が、低く響くような声で言う。彼も、先遣隊の連中の戻りが遅いことに気づいていたのだろう。鈍い色の眼をした男だったが、よくよく物事を見据えてくれる人物だった。
ガルラスは一瞬の間もなく、首を横に振る。
「いや、進む。遭難者を探しだすにしろ、歌姫様の目的を遂げるにしろ全ては前だ。顔面蒼白になっている輩がいるなら置いていっていいぞ」
だがもう先遣隊は出すな。ガルラスがそう言うと、副長は大した異論もなく頷いて、言葉を喉の奥へと引っ込めた。
ガルラスは軽く鼻を鳴らす。彼は慎重な男というよりは、敢えて己が思う逆の意見を言ってくれているのだろうと、そう思う。何処までも律儀な男だ。
長職に就く者全てが同じ考えであれば、それは団の滅びに近しいのだとは、彼の口癖だった。
しかし今いった言葉の通り、よもやこの場で踵を返すわけにはいかない。
歌姫アリュエノが指し示す啓示とやらは、神殿の奥地を指している。其処にたどり着く事もなく、定刻通りに帰ってこない者がいたから引き返したでは、伝書鳩以下の働きだ。
ゆえに、前へ前へと進む以外の選択肢は、聖堂騎士達にはない。先遣の連中が罠か何かにかかっているのであれば、其れを救いあげるためにも、退くわけにはいかなかった。
そう思い、ガルラスが口を開いた。そんな瞬間だった。
――眼前で、副官の姿が消え失せた。影の尾すら踏ませぬままに。
唐突に外傷を負い倒れ伏したわけではない、幻惑の毒を撒かれた匂いもない。
まんまと魔術に包み込まれたとしても、余りにあっさりとしすぎている。聖堂騎士が纏う鎧は、魔術一つで簡単に昏倒させられるほど軟なものではない。では、残ったものは。
ガルラスの脳髄の中、一瞬で次々と選択肢が掻き消えていく。視界の端で、副官だけではなく、幾人もの騎士達が掻き消えていく姿が見えた。反射的に腰を駆動させ、足首を鳴らす。
獰猛な頭蓋は一つの結論を出すのを待たず、その真紅の槍を、振るった。宙が断裂し、空間に孔が空いた音が聞こえる。全ては、瞬きの内だった。
――ガ、ィンッ
鉄と鉄が接合し、噛みあいながら互いにその身を楽器とする。
神殿の薄暗闇の中を火花が跳ね、空間を明滅させた。それが、数度。呼吸もままならぬほどの一幕の間に、三度、四度と剣戟の音が重ねられていく。
より強く、より鋭くと互いに願うかのようにけたたましい音が鳴り、六度目が響いてようやく、火花と音が打ち止んだ。
その頃となっては、ガルラスの周囲にはもはや誰も見えなくなっていた。配下の騎士達も、そうして聖女と呼ばれた少女も。
それどころか周囲は全くの暗闇に成り下がり、其処に見えるのはただ一つの銀だけ。それでも大して焦燥した風もなく、ガルラスは言う。
「幻術とは違うな、エルフの呪術にしても、奇妙だ。よぉ、てめぇこんな真似も出来たのか――騎士カリア=バードニック」
随分と気軽げに、ガルラスは言った。しかしその眼も、そうして突き出された真紅の槍も、吐き出された言葉には何一つ相応しくない。ガルラスの全身から放たれる気配全てが、獰猛な戦意を告げている。
銀は、その軽やかな糸のような髪の毛を揺蕩わせ、語る。
「抜かせ。もはやこの身は騎士でないと言っただろうに」
そう言ったカリアの眼は獅子の如く見開かれ、愛剣たる銀が、暗闇を真っすぐに裂いていく。ガルラスとは違い、言葉の節々から戦意がにじみ出ている。
獰猛な二つの意思が互いに噛みあいながら、その空間を巻き取っていく。その圧力に耐えかね、宙から軋みすら聞こえてきそうだった。
カリアが一歩前へと、踏み出た。
「選ばせてやろう、聖堂騎士ガルラス=ガルガンティア」
カリアの唇が波打ち、そうして何でもない事だという風に、言う。
「――名誉の戦死と、晒された後の絞首刑。貴様はどちらが良い」