第二百八十二話『フリムスラトの大神殿』
フリムスラト。強靭な自然が横たわるその山脈には、幾つかの朽ちた遺跡が横たわっている。その中でも一際巨大な建造物、大聖教において神殿とも、神代の遺跡とも呼ばれるもの。それが、フリムスラトの大神殿だった。
其れが何の目的で造り上げられ、そうして誰が使用していたのか。何を称える為の神殿だったのか。それは今となって尚結論が出ていない。
神アルティウスの威光が此処まで到達していたのだという話もあれば、地方部族の異神に過ぎないという学者もおり、中にはかつて大地そのものを睥睨した巨人を鎮めるためのものだ、という論もあった。
何にしろ神話の時代が残した遺物である事に間違いはなく、かつては大聖堂にて管理をしていた事もあったらしい。と言っても、その想像を絶する立地の不便さと管理の困難さから、何時しか司祭が派遣されるような事はなくなったようだが。
だが此度の啓示、その行き先が此の大神殿を指したのであれば、またいずれ司祭が此処を聖地とする事もあるやもしれないなと、聖堂騎士ガルラス=ガルガンティアは軽く歯を鳴らした。
啓示というものは大聖教にとって、神アルティウスの声と同様だ。一度それが人間の肉に降りてくれば、司祭共が幾らでも解釈し、権力者共が幾らでもこね回し、そうして最後には政争の道具になるのがお決まりだった。言葉一つを巡って派閥が出来上がり、戦役が起こるなどもはや珍しいことでもない。
幸い今の教皇猊下になってからはそのような事はないが、今回の啓示でまた騒ぎ立てる奴が大勢出ることだろう。辟易として鋭い眼を緩めつつ、ガルラスは愛用の朱槍を肩に掛けた。その眼が、前方の金髪を、見やる。
「歌姫様の調子はどうだった、ヘルト。ご機嫌麗しいと良いんだがね」
何処ともなく呟いた、その言葉。騎士が語るものとしては粗雑で、随分と不躾な言葉遣いだった。しかしそんな振る舞いを気にした風もなく、金髪を跳ね上げさせて、ヘルト=スタンレーは言葉を返す。
「悪くはないと思いますが、言葉は少なかったですね。此の寒風ゆえでしょうか」
淡々とした応えだった。大した感慨もなく、過剰な装飾もない、そんな言葉。ガルラスは肩を竦めて頷きながら、瞼を瞬かせた。
己もそう人の事が言えたものではないが、ヘルト=スタンレーという青年は変わった人間だと、ガルラスは思う。
旧知の仲であったバッキンガム、難物である彼が持て囃し、そうして聖女にも同行を許されたというのだから、それはそれは前途有望で、典型的な大聖教の信徒なのだと、そう思っていたのだが。
いざ出会ってその顔つきと鮮烈な隻眼を見れば、想像したものとはまるで別物らしいというのが良く分かった。
清廉潔白だというような表情をしているが、その内にはまるで似ても似つかない何かを潜ませている、そんなヘルトへの印象が、ガルラスの中にはあった。
先ほどの言葉にしてもそう、普通聖女様にお会いできたとなれば、心は浮き上がりその報告も随分と華美なものになるものだ。その顔つきはどうだったとか、言葉は美しい限りだったとか。
少なくとも、他の聖堂騎士は少しでも聖女と言葉を交わせば、そんな様子だった。畏怖を覚えながらも、それでも崇敬の念を抱かざるを得ない。大聖教徒にとって、聖女とはそのような存在だ。
けれどヘルト=スタンレーにとっては、そうではないらしい。だからこそ、聖女のご機嫌伺いをさせたのだが。ガルラスはその尖った犬歯を小さく鳴らし、視線を強める。
あの娘、アリュエノも可哀そうな娘だ。
彼女は稀有な魔才を持っていたがゆえに大聖堂に拾い上げられ、望む望まざるを関わらず修道女として生きていく事を強制された。簡単に言うようだが、修道女として生きるということは、四肢を縛り付けられて生きていくに等しいことだ。
自由はなく、息を吐く暇もない。その生活の中で彼女がどれほど歯を食いしばり、その胸に痛苦を抱えながら生きて来たのかを、ガルラスは知っている。
そうして最低の身分にありながら、これでもかと投げつけられる汚泥を振り払って生きる事を選んだ、彼女の尊さも。
だからこそ、アリュエノが聖女候補にと選び取られた時、誰もが困惑や敵意に近しい感情を漏らす中、ガルラスは一人祝いの言葉を告げた。それは己の中に流れる騎士としての矜持に関わったものではなく、ただ心の底からの祝福だった。
けれど多少は思う所も、ある。何せ聖女になるということは喜ばしい事である反面、アリュエノという人間がそのまま神に食らいつくされる事に他ならない。
今は未だ良い。けれど正式に聖女となれば彼女の安息は殺され、自由に手足を動かす事も、言葉を発することも出来なくなるだろう。其れを幸福と言えるかどうか、それは人次第かもしれないが、少なくともガルラスは御免だった。
ゆえに己が護衛につく巡礼の間は、彼女を少しばかり自由にさせてやろうとそう思う。だからこそ彼女に対して気を遣った風のないヘルト=スタンレーを傍仕えの護衛に添えたし、他の護衛も余り彼女の目に届かぬようにした。
周りを覆う誰もかれもが顔を引き締めてしまっていれば、囲まれる者もその表情を引き締めるよう強制されるものだ。遠くない未来、きっと彼女はそういう境遇に放り込まれる。ならば今の間だけは、気を抜かせてやった方が良い。
「ガルラス継承団長。大神殿出入り口付近の安全を確保しました。奥は今捜索しております。一先ず聖女様を中に――」
聖堂騎士の一人が、胸の前に拳を置きながら、恭しくガルラスに頭を下げる。ガルラスはそれを手で制しながら、頷いて返した。まだ全ては分からないが、どうやら大神殿内を魔獣の輩が堂々と闊歩しているという事はないらしい。
ガルラスは団長とそう呼ばれたが、正式には聖堂騎士団において、長というべき職位は存在しない。何故なら聖堂騎士はその全てが大聖教が教皇の直轄であり、彼らに命じることが出来るのは教皇の権能のみというのが定めだ。例え国王であろうと、彼らに軽々と物事を命じるようなことは出来ない。
けれど、だからといって聖堂騎士が向かう戦地全てに教皇を必ず同伴させる事など出来るはずもなく、また現場の判断全てにおいてお伺いを立てるなんことも馬鹿らしい。
ゆえにこそ、聖堂騎士が自ら身を乗り出すような事態が起こった場合には、聖堂騎士の中から誰かが一時的に教皇が持つ聖堂騎士への指揮権を継承する。
そうして戦地ではその継承を受けた団長が、聖堂騎士全てに号令を掛けるのだ。
今回、いや今回にほかならず、随分と前から教皇がその権能を継承するのは、ガルラス=ガルガンティアのみだった。その理由を知る者は、極わずかだけだが。
ガルラスは軽く身体をほぐしながら、言葉を飛ばす。
「聖女様を神殿の中にご招待しろ。精々失礼のないようにな。なぁに、モグラみたいに雪中に潜り込んでるよりは、黴臭い神殿内部の方がましだろうよ」
◇◆◇◆
大神殿の中、ぽつりと、声が零れた。それは周囲に響くことなく、すぐに跡も残さず霧散していく。
「――聖堂騎士共が腰をあげたか。ならば、あの猛獣も連れたっていることだろう」
巡礼には護衛を付けぬというのが慣例だろうにな、とカリアがその小さな唇を揺らした。目線の先、大神殿の荘厳な廊下を、かつりかつりと音を立てて歩いてくる騎士の姿が、見える。
なるほど、確かに数度ではあるが、あの独特の白鎧姿はかつての頃見たことがある。大聖堂教皇直轄の大剣共。教皇がその気になれば、其れは振り下ろされると、そう呼ばれていた大聖堂が持つ戦力の一つ。
参った。巡礼というのだから、かつての旅と同じく護衛といっても精々が数名だと思っていたのだが。どうにもそうじゃあない。少なくみても数十名はいるだろう。それも、大聖堂が抱える狂的な精鋭共が。
聖女様の護衛としては少ない方だと言えるのかもしれないが。それでも厄介な事に違いはない。どうにも、神様は俺の前に壁という壁を置きたくて仕方がないといった様子だ。
騎士共の死角に入り込んだまま、噛み煙草を懐から取り出す。しかし万が一匂いが漏れても馬鹿らしいと、そう思って今一度しまい込んだ。
「どうするのよ、ルーギス。聖堂騎士といえば、ガーライスト王国では誰もが一目を置く連中でしょう」
フィアラートの声を耳にして、頷く。その言葉の通り、どう考えても真面に相手をして良い連中じゃあない。奴らは信仰の為なら幾らでも命を投げ捨てられるし、何処までも残酷になれる連中だ。よもや、紋章教の人間に対して慈悲を見せるような心はもっていまい。
奴らより先に神殿内に脚を踏み入れられたのは僥倖だ。本来取るべき方策としては、連中が此処を去るまでこのままじぃっと神殿内で息を潜めているというのが妥当な所だろう。
其処に、アリュエノがいなければ、という話になるが。
音を立てぬように、息を漏らす。寒さに痺れる指を折り曲げながら、言った。
「正面から真面に行くべき相手じゃあ、ないな――なら存分に横道に逸れさせてもらおうじゃあないか。実はそういうのは大の得意でね」
そう言って、唇を波打たせた。鼻を軽く、鳴らす。