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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十一章『巡礼編』
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第二百八十一話『滲み出る泥』

 軽く油を塗った唇を、大きく歪めながら言葉を、漏らす。我ながら力抜けた声がでたものだと、そう思った。


「どうだいエルディス、もうそろそろ引き返せる最後の地点だと思うんだがね」


 雪の悉くを踏み潰しながら、ようやくフリムスラトの中腹を眼下に置く、そんな頃合いだった。寒風が吹きすさび、油断をすれば肌そのものを削ぎ取っていってしまいそうな空の下で、彼女は言う。


「――だから、僕はエルディスだなんて名乗ってないだろう。ほら、ただの旅のエルフさ」


 俺の傍らについたまま、軽く防寒帽子を傾けさせてエルディス、否、旅のエルフ殿は唇をひらひらと揺らめかせる。いやまさか、本気で言っているわけではないだろう。現に彼女の碧眼は悪戯めいた色を浮かべているし、表情も何処か楽し気だ。


 その声色や表情の造りは、エルフの女王としてエルディスが見せるものとは、随分かけ離れたものだった。普段のエルディスを見ていると、まるで別人そのもののようだ。


 いや、むしろこちらの方が彼女にとっての本来の表情なのかもしれない。


 頬を、冷ややかな風が撫でていく。ただそれだけだというのに、頬にはまるで小さな虫に噛みつかれたような痛みがあった。


 目を細めながら、唇を小さく動かす。


「自分の領分じゃあない場所に脚を踏み入れると、大抵良くないことが起こるもんだが。神話じゃあよくある話だろう」


 エルディスは帽子を細い指で掴み、眼と同色の髪の毛を僅かに払いながら、言った。


「僕の領分が森の中だけっていうのは誰が決めたのかな――それにそう言うなら、君の領分は主の横のはずだろうに、どうしてこんな山中にいるんだい」


 やはり、此方をじぃと見つめながら頬をあげるエルディスは、何処までも悪戯げだ。息を、漏らす。吐息はすぐさま白色に変色し、そうして風に流されるように宙に散った。


 やめよう、とてもではないが小手先だけでは言いくるめられる様子ではない。エルディスも女王としての責務をこなしていく内、随分と口先が達者になったらしい。塔にいた頃と違い、やけにその舌が回る。下手に踏み込めば手痛い仕返しを食らうかもしれない。


 それに、もはやフリムスラト山脈の背、その中頃を踏み抜いているのだ。此処から一人でお帰り願って、そうして何処かで遭難されました、では酒が大いに不味くなることだろう。


 勿論エルディスに限ってそんな事はそうないだろうが、エルフが雪山の中を単独で行動するなんてのは正気じゃあない。


 エルフ、森の民と呼ばれる彼らだが、何も樹木が生えていればどこにだって居を構えるというわけではない。むしろその居住地はごく僅かな範囲だけだ。


 彼らが好むのは、より気候の変動が少なく、暖かで穏やかな場所。それでいて周囲の世界と隔絶した地域だ。そういう意味でいうなら、空中庭園ガザリアはまさにエルフにとっての王国に相応しい。


 エルフという種族は、言うなら不変に長けた種族だ。身体も、声も、思想も、生き方さえも。その悉くが生涯を通じて殆ど変わるものではない。彼らは数百を数える一生の中、ただ一つの事を信じ、ただ一つの事を成すのだと言う。


 だからこそ、エルフは変化という概念を特に毛嫌いするし、そうして耐性がない。エルフが人間という種族をそう好まない理由も其処から来るのだろう。


 人間というやつはすぐに身体も声も変貌し、思想や生き方なんてそれこそたったの一日で変わり得る。エルフにとってはどれもこれもあり得ないことだ。


 エルフは人間に対して思うだろう、何て移り気な奴らなんだ、とても話が通じない。そうして人間は逆にこう思う、何て頑なな奴らなんだ、何十年も経っているのに、どうして考えの一つも変えられないのか。


 結局の所、エルフと人間は言葉が同じだけで、その本質はまるで分かり合って等いないのかもしれない。


 何にしろ、変化を酷く嫌悪する彼らにとって、肌を貫き全身を締め付ける極寒なぞ、牙を剥いた脅威そのもの。ただその場に居座るだけで、鈍く打たれるような感触を覚えるはずだ。


 いくら衣服を着こもうと、変化に対応する何てことが本質的に彼らは出来ない。元々から極寒に住んでいた、なんていうなら別だろうが。エルディスの横顔も、何処か青白さを増していた。


 知らず、エルディスの細長い指が、俺の手を取っていた。お互い手袋ごしだというのに、彼女の指先がまるで氷細工のように冷えついているのが、わかる。


 一瞬目を細めながら、そのまま手に軽く力を入れて、握り返した。


「まぁ、巨人の寝床と謳われるぐらいだもの。余りエルフと相性が良くないのは当然よね」


 黒髪に絡みついた雪粉を手先で払いのけながら、フィアラートがそう言った。雪中でも動きやすくするためか、髪の毛をまとめ上げたその恰好は何時もより幾分か雰囲気を変えさせている。


 フィアラートもまた東方の人間であり、寒さに強いというわけではないだろうが、それでもその顔色はエルディスよりずっとマシなものだった。


 エルディスはフィアラートの言葉に対し、吐息を吹き飛ばすように応える。


「巨人がエルフの主だった、なんてのは僕らにとっても遠い昔の話だよ。それを言えば、魔獣共だってかつては人間を捕食する側だった。変わるのは君らのお得意だろう」


 言葉を終えた途端、黒と碧の視線が一瞬交差したのが、見えた。僅かに剣呑さを放ったそれは、一瞬の邂逅を終えて、そのまま離れていく。眉を、あげた。


 良くは分からないのだが、フィアラートとエルディス、どうやら此の二人は上手く噛み合う性質ではないらしい。先ほどから時折似たような事が、あった。魔術を扱う者と、精霊術を扱う者の本質が、今此処に表れているとでもいうのだろうか。少なくともかつての頃は二人ともそのような素振りを見せたことはなかったのだが。


 しかしまぁ、そういえばあの旅路ではエルディスの方は随分とその正気を欠いた有様だった。人との関わり合いなど、殆ど無きに等しい。であればこそ、今の彼女とその様相や人との接し方が変貌するのもおかしくはないのかもしれない。


 其れに、変わったのは何もエルディスだけというわけではない。やや此方に寄りかかるようにしているフィアラートも、そうして前方で揚々と銀髪を揺らしているカリアも、だ。


 誰もかれも、まるで其の精神から何かを抜き取ってしまったように、かつての頃から有様を変えてしまった。本質的な部分に違いはないが、それでも紛れもない変化がある。


 其の変化が良いのか、悪いのか何てのは神じゃあない俺には分かりかねるが。未来を見通すような眼も、物事を裁くための権能も持っていないのだから致し方あるまい。


 そう、誰もが変わった。それはきっと、俺自身も。少なくとも俺はそうだと信じているし、かつての頃のように諦念と傍観に縛り付けられるような不様は二度と晒さぬのだと、決めている。眼が自然と、彼女らを捉えた。


 カリアの銀眼が一瞬此方を振り向き、フィアラートとエルディスは相性が悪いながらも、幾ばくかの言葉を交わしている。


 今の様子だけを見れば、もはや過去の残滓などまるで見出せない。かつての事など全て泡沫の夢だったのではないかととすら思いたくなるのだが。


 それでも、彼女らといるとどうしても、思い出す。


 瞼を僅かに閉じると、あの頃、未だ手の平には何一つとしてなく、憧憬に手を伸ばしても指先すら掛からなかった日々が、鮮明に描き出されるのだ。僅かに眦を緑色の炎が、焼いていく。臓腑の裏側に熱そのものが、浮かび上がっていた。


 とても一言では言い切れぬ、此の渦巻く情動。此れは過去そのものだ、過去の遺物が未だ俺の内にある。


 ああ、何たる不様な事だろう。カリア=バードニック、フィアラート=ラ=ボルゴグラード、エルディス。かつて焦がれ、そうして背を見続けた彼女らが今、俺なんぞに手を差し伸べてくれている。だというのに未だ俺の意識はかつての旅路の中だ。


 何とも、恐ろしいものだ。過去というものは上から絵の具を塗り足してやった所で、気色の悪い泥となって滲みだしてくる。脳髄の奥から白い手を伸ばして這い寄ってくるものだ。振り切らせることなどさせぬとでも言う様に。


 であるならば、もはや無理矢理にでも白日の下に暴き出し、そうして踏み越えてやらねばなるまいさ。赫々たる英雄の、彼彼女らに並び立とうというのだ、それ位の事は超えられないでどうする。


 我が幼馴染殿とて、同じことを言うに違いない。


 ガザリアでドブネズミが首を刎ね、ベルフェインで臆病者の足元を斬り捨てて、そうしてサーニオ平野でかつての己を踏み潰した。ならば、後残すは一つだけ。


 かつての旅路――救世の旅に決着を付けてやるしかないのさ。


 俺はそうするしかない、それしかないのだ。過去から眼を背けたままこそこそと逃げ回りながら得られる安寧なんてものはろくなものじゃあないことは、もうよく分かっている。そうしなければ、アリュエノの、誰かの手を取る事なんて出来るはずもない。


 腰元の宝剣が、かたりと、疼くように音を立てた。


 視界の先にかつての旅路の目的地、その一つであった朽ちた大神殿が、その身を据えていた。

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